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第5話

 一九九〇年十一月三十日。それは僕にとって忘れたくても忘れられない一日であった。この日、あの店で、君と出会ったのだ。

 革財布を手に立っていた、あの姿を僕は決して忘れない。肩まで伸ばした暗色の髪。暗色の瞳。美しかった。佇まいが、仕草が、その全てが。君は僕にとって天からの贈り物であった。

 僕は君を愛した。燃え上がる炎の中に身を投げ打っても痛みを感じないほどに。けれどその情は、美しい輝きを放つ太陽のような嘉賞の愛ではなく、そのはるか向こうに隠れた月光のような終焉の哀であった。それでも僕は君のことを愛していた。心の底から。

 僕と出会った日、君もあの街に越してきたばかりであった。思い起こせば、男の瞳の黒光りは君が時折見せた美しい眼光にそっくりであった。あれがトパーズ色なのだろう。

 何もかもに合点がいく。僕は恐る恐る続きを読み進めた。



  一九九〇年十二月三日———

 いつまで隠れられると思っているのだ。こ

の私に逆らって良いことなどあるはずがな

い。さあ、良い子だ、私の元へ来なさい。

何も悪いようにはしないよ。


  一九九二年四月五日———

 私のしていることは間違っているのか?あ

あ、誰か教えてくれたまえ。私はどうした

らいい?


  一九九六年八月九日———

 私は知っているぞ、あの娘は日に焼けるの

をやけに嫌う。そう、夏でもカーディガン

を羽織っている。必ず見つけ出してやる。


  二〇〇〇年十二月十八日———

 (白紙)


  二〇〇一年一月五日———

 さあ、おいで。そんなところで怯えていな

いで。私の元へ来ればもう怖がるものは何

もない。さあ、さあ。


  二〇〇四年四月三十日———

 救ってやったというのに!どうしてお前は

そんな顔をする?どうして忘れてくれない

のだ。お前の記憶はとうに消えているはず

だ、そう、何年も前に。あんな忌々しい男

の記憶なんて!


  二〇〇五年三月五日———

 こんなに痩せ細ってしまって。可哀想に。

これも全て奴の仕業だ。私が全てから解放

して差し上げよう。


  二〇一〇年十月二日———

 私は聖人か?悪魔か?


 僕はページをめくった。


  二〇一〇年十月三日———



「そこまでだ」


 突然背後から声が聞こえた。不意に現実に連れ戻された僕はくるりと振り返った。書斎の入り口には男が立っていた。あの、館に住む男が。

 男はゆっくりと僕の方へ近づいてきた。変わらず光を一身に受ける机の側にいた僕からは、逆光で男の表情は読み取れなかった。しかしこの暗がりの中でもあのトパーズ色だけがやはり鋭く光って見えた。


「素直な若者はいい」


 そう告げた男は僕から六・五フィートほど離れたところで立ち止まった。僕は何も言わず、ただ次の言葉を待った。


「お前を見ているとかつての自分を見ているようで至極向っ腹が立つ。そうやって何も言わないところも、無様に人間にしがみつこうとするところもだ」


 男は机の向かいに立つ僕に対して、半円を描くように歩き始めた。


「いつまでお前は聖人のふりをするつもりだ?そうやって誰も傷つけないようにと誓ったところで、いまさら何の意味がある?」


 時々目を見開いてはその鋭い眼光をこちらへ向ける。悍ましさが広がっていたものの、やはりそれは、君の眼光と同じであった。


「すでにお前はその誓いを破っているのだ。それも二度も!」


 男の言葉は僕の記憶を深く、抉り出す。そう、僕は自分で立てた誓いを守りきれなかった。一度は愛する君の前で、二度目はあの生まれ育った町で。自らの手でことごとく壊していった。

 男は僕の手から日記を奪い取った。日記はパタンと閉じられ、男はそれをそっと本棚へ戻した。そして背を向けたままこう告げた。


「少しだけ時間をやろう。何が知りたい。お前はあと何を知ったら満足だ?」


 至って冷静な口振りであったが、そこには収容所で交わしたときのような人間らしい心は見えなかった。あくまでも能力を秘めたヒトでしかなかった。


「あの娘はどこだ?」


 真っ直ぐ男の背中を捉え、僕は言った。確信はなかった。名前も誕生日も出身地も書かれていない。この日記に書かれているこの娘が君である絶対的な証拠は見つかっていなかった。だからこそ僕は尋ねた。


「どこへ連れて行った?」


 男が高笑いする。男の振り向きざま、テールコートがバサリと音を立てた。耳を塞ぎたくなるようなその声は、悪魔のようなその声は、この大きな家中に木霊した。


「それが知りたいことか?そんなの決まっているだろう!お前だってわかっているはずだ。あの娘はもういない。どこにもいない。この世を去ったのだ!」


 どこか遠くで雷の落ちるような地響きのような音が聞こえたような気がした。




「なぜだ?」

 僕は努めて普通を装った。あくまでも冷静に。まだ決まったわけじゃない。あの娘が君であると。


「なぜ?」


 男は片方の眉を吊り上げ、信じられないといった表情で目を見開いて僕を見つめてきた。僕がその理由をわからないのはおかしいというわけか。


「面白いことを聞いてくれるじゃないか。まさかお前の口からなぜという言葉が出てくるとはね」

 再び男はこちらへ寄ってきた。そして僕の耳元でこう囁いた。


「お前が一番よくわかっているんじゃないのか?お前が、お前自身が!あの娘の人生に入り込んだからだろう?———違うか?」


 先程までとは打って変わって吐息を漏らすように囁かれたその声には、言葉すら凍りついたかと紛うほどの怒りが込められていた。

「あの娘はこの私のものだ。お前のものではない」


 男は静かに語り始めた。


「あの娘は妻に瓜二つだ。それはもうあり得ないほどに。それを壊したくないと願うことの何が悪い?近くに置いておきたいと望むことの何がおかしい?」

 男は明かり取りから遠くを見つめ、静かに語り始めた。

「なぜ瓜二つの娘が生まれたか、考えたことがあるか?それは私の子孫だからだ。あれだけ日記を読んだお前ならもうわかるだろう。私は自分の子孫を集めた。そして皆ヒトに仕立て上げた。とばしりを当てたのだ。同じ家系に生まれて、自分だけがこんな不幸な目に遭うのはおかしいと思ってね。妻を亡くしたというのに、今度はなぜこんな化け物にならなければならないのか。挙句、大事な娘たちも失った。この悲しみがお前に理解できるか?どれほどの痛みか、絶望か、お前に想像できるか?私は私自身を哀れんだ。救われる必要があると思った。私は私が暮らしやすい場所を作る必要があると思った。だからこそこの村を作ったのだ。お前の推測通り、この村に住む者は皆ヒトであり、そして私の子孫、子どもたちだ」


 僕は身動き一つ取らず、ただじっと男の話に耳を傾けた。


「二百八十年という年月の間には当然、私の子どもたちは遠く離れた町で暮らす者も出てきていた。それはもう見つけるのにどれほど苦労したか。お前にはわからないだろう、決してわからないだろう!しかしある朝私は気づいたのだ。トパーズ色だ、とね。それは特別な色だ。同じ瞳の色を持つ者、その者たちは皆私の子孫だ。ああ、まさにそうだ。私は必死で探したよ、同じ瞳を持つ者らをね。その中で、そう、私は見つけたのだ、あの娘を。まだ十歳だったあの娘を。たいそう可愛らしかったよ、あの真っ赤なワンピースを着てくるくると回っている姿は、本当に妻を眺めているようだった」


 男は一瞬懐かしむような表情を見せたが、それはすぐに怒りの形相へと変わった。

「私はあの娘を手に入れたいと願った。それはもう強く願った。これまでのどの子どもたちとも違う。あの娘だけは絶対に手放してはならない、そう思った。それなのに、それなのに!あの娘ときたら決して私に靡かなかった。どれほど力を尽くしても私の元へやって来なかった。せっかく手を下してやらなかったというのに!」


 もう疑いの余地はなかった。男の言う娘は君だ。君以外の誰でもない。僕は、男が君への執着心を高めていった頃の日記を思い出していた。

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