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第3話

 ここでの暮らしは規則正しく進んでいった。村は男の暮らす館から聞こえる鐘の音で動いているようだった。村人は朝八時の鐘を合図に動き出し、夕方六時の鐘で静まり返る。


 ただ息を続けていただけの僕も、この珍しい家には少なからず興味が湧いていた。僕はじっくり一つ一つの部屋を見て回った。リビング、ダイニング、キッチン。

 割れた銀食器が散らばり、シンクは薄汚れていた。テーブルには糸のほつれたクロスが乱雑に引かれていた。

 二階にある二つの子ども部屋は女の子の部屋だったのだろう、どちらも一面花柄の壁紙で覆われており、立派な天蓋付きのベッドが置かれていた。

 思い切り引きちぎられたのだろうか、彼女らのベッドシーツは穴だらけで、ところどころ腐敗しているらしかった。

 書斎。一番興味の惹かれる部屋であった。縦長のこの部屋には数えきれないほどの本がびっしりと壁一面に並んでいた。

 両側に聳え立つように並ぶ本棚は圧巻だった。本棚には木製の梯子がかけられており、上段の本はその梯子に登ることで取り出せる仕組みとなっていた。一般的な家庭ではなかなか見かけることのない、それは豪華な作りであった。

 部屋奥の天井付近にひとつ小さな丸い窓があるだけで、他に灯りを取り込む場所も無ければ、電球一つ見当たらない。その日はカンカンに日が照り、暑さで景色が歪んで見えるほどであったが、そんな日でもこの書斎だけは薄暗かった。昼間にも関わらず、不気味なほど暗かった。

 長いこと使われていなかったのだろうから、仕方あるまい。それにしてもこの部屋は特別埃臭かった。

 それは一冊の本の背表紙を指でなぞるだけで咳が出るほどだった。袖口で口元を覆い、部屋中に舞う埃を払い除けながら、僕は順々に本を見て回った。

 そして、昔はよく本を読んでいたものだ、などと思い出しては、人間の頃を懐かしく思った。


 毎日就寝前の日課であった読書は、かつて子どもの頃、母親に薦められて始めたものだった。就寝前に本を読むと、寝ている間に夢の中でその登場人物と友達になれると言われ、純粋無垢な僕は、すっかり信じきっていた。

 友達になれたらどんなに楽しいだろう。そう思った僕は、母親に言われるがままあらゆる小説を読んだ。実際夢に彼らが登場してきたことがあったかどうかもう覚えてもいないが、読書は大人になってもなお、止められない習慣になっていた。

 しかし残念なことにそれもヒトになった頃から自然と回数が減っていった。ヒトになりたての頃、何冊もの大切な本を凍らせてしまった。その度に自分を責め、落ち込み、読書の楽しみを忘れていった。

 そんな状況に嫌気が差し、次第に家に本を置くことをやめてしまった。そうしているうちに読書からは距離を置くようになり百六十五年。

 今では最後に読んだのがどの作品だったか、どんな物語だったか、それがいつだったのかも思い出せないくらい過去の記憶となっていた。


 この部屋の主は学者か教授か、そういう類の仕事をしていたのであろう。地学や海洋学、植物学といった自然にまつわる学術的な本ばかりが並ぶ。僕には到底面白そうだとは思えない。

 ドストエフスキーやジェーン・オースティンといった小説なんてものはどこにも見当たらない。きっと堅物な人だったのだろう。決して僕とは相容れない性格だったに違いない。そのくらい僕の読書人生とは遠く離れたところをゆく本棚の内容であった。

 そんな暗がりの中でも、一つの明かり取りからは一直線に日が差し込んでいた。それは薄明光線のようで眩しかった。

 緻密に計算されたらしいその一本の光は、部屋の隅にある机をしっかりと照らしていた。煌々と照らされたその机はどこか神秘的で、それはなぜか僕を強く惹きつけた。


 僕はゆっくりと近づき、すっかり骨張った指でそっと天板を撫でた。木製のこの机は、脚の部分に大きな丸い切り株の跡のようなものがあり、形は随分と無骨であった。

 この机も相当古いのだろう、角は欠け、天板にはあちらこちらに穴が空いているようだった。しかしこの机だけは一切埃をかぶっていなかった。それは昨日、今日まで使われていたと言ってもおかしくないくらいに綺麗であった。間違いなくつい最近まで誰かが使っていたのだろう。前の住人だろうか。

 足元で何かがころんと音を立てた。見ると床には一本の万年筆が転がっていた。そこに散った数滴のインクは、まだ乾き切っていなかった。



 数日過ごしていると、だんだんとこの村の様子が見えてきた。僕の家は村の中心部にあり、その隣には四角い横長のアパートが、道路を挟んで向かいには僕の家より一回り小さな一軒家が建っていた。

 隣のアパートには老若男女暮らしているようで、その何人かと僕は顔を合わせた。向かいの家の者はほとんどその姿を外に見せなかった。たまに庭に出てきて作業をしている様子からは、六十代くらいの女性と見えた。

 この町の中で僕の住む家だけが一際立派であった。なぜそれが僕に与えられたのかはわからない。しかしどの家よりも圧倒的に大きく、それでいて一番古く見えた。


 ここは地図上に存在しない村かもしれない、次第に僕はそう思うようになった。男が自ら作り上げた村ではないかと。作りはどことも変わらぬ普通の村であるのに、見渡せど、どこにも人間が見当たらないのだ。通りすがる者は皆、ヒトの姿をしていた。肌は青白く、爪は長く、青色の瞳を持っていた。

 収容所へ僕を訪ねてきたとき、男はヒトを匿っている、そう告げた。ヒトだけが暮らす村を作ったと、そういうことだったのか。その時はどこか上の空で聞いていた僕は、妙に納得してしまった。

 そのことに気づいてからというもの、僕は能力のことをあまり気にかけることなく生活を送っていた。もちろん能力を使うことはなかったが、それでも隠す必要がないというのは大変生きやすいものだった。

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