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第2話

 夜明けとともに目の前が開け、一面に広がる草原が目に入った。草原は夏の朝日を浴びて青々しく、朝露があちらこちらで光っていた。草原の中心を割って据えられた道を進んでいくと、そこには目にしたこともない、立派な館が建っていた。

 僕は息を呑んだ。心ここに在らずの僕でさえ、流石に目を見張るものがあった。館はそれほどの存在感を放っていた。


「ここだ」


 男はそう一言、ぶっきらぼうに告げた。僕は男に続いて車を降り、館へと足を進めた。我々の身長よりも遥かに大きな扉を開け、大広間に通された僕は呆気に取られた。豪勢な装飾を施されたその館は、ゴシック建築を彷彿とさせる造りであった。この男の嗜好によるものか。あるいはそれほど長い年月、この男は生きているということなのか。


 長く続く広間を歩き、ある一つの机の前で男は足を止めた———机の両端に大きな燭台が置かれていたが、肝心の蝋燭は燃え残りであった———。そこには一枚の紙が置かれていた。端の方が破れかけた、ボロ切れのような古い紙だった。


「誓約書だ」


 そう言い放ち、男はその紙の向きをくるりと変え、僕に見えるように置いた。


「ここで暮らす者全てが同じ誓約を交わしている。何も構えることはない。決まりはたった二つだ」


 紙の真ん中に二行、見事に整った字で、はっきりとこう書かれていた。


一つ、無断で他の者との接触を試みないこと

二つ、勝手な真似はしないこと


「お前のように深い傷を負っているものが暮らしている。不用意な行動で彼らをさらに追い詰めることのないよう、他の者と接触する場合は必ずこの私を通すこと。二つ目はそのままだ。空いている部屋、どこへ入っても構わない。ただ勝手なことはするな」


 そう言って男は僕をギロリと睨みつけた。彼の瞳に黒く光る何かが映ったような気がした。


 僕は特に何の迷いもなくこの誓約書にサインした。今さらどこへ行ったって何もすることはないのだ。以前のように放浪するか、収容所へ帰るか、二つに一つだ。であればこの憎たらしいほど長い人生、一度くらいこの見たこともない館で暮らしてみるのも悪くないだろう、そう考えたのだ。

 男は机の下から分厚く傷みきった手帳のようなものを取り出し、気味の悪いほど丁寧に僕の誓約書を挟み込んだ。手帳の分厚さはここに暮らすヒトの誓約書なのか。それを持つ彼の爪はヒトらしく、人間ではあり得ないほど長く鋭利に、真っ直ぐ伸びていた。


 口数の少ない男は、部屋を案内するとだけ言い、なぜか館の外へ出た。そのまま草原を真っ直ぐ歩いていく。停めてあったはずの男の車は、使用人か召使いがいるのだろうか、知らぬ間にどこかへ片付けられていた。

 広い草原を抜けると、そこには一つの集落があった。車に乗っていたときは暗くて気が付かなかったが、この館は意外にも、人間の暮らす村のすぐ近くにあったようだ。見渡す限りの家々は、どこか時代遅れの香りがした。

 男が村を泰然と突き進むと、村人たちはピタリとその動きを止め、男の進む先をじっと見据えた。そして後ろに続く僕に対して、新しい住民を見定めるような目つきを向けた。

 確かな言葉は見つからない。けれどこれまで暮らしてきたどの場所とも違う、微かな異様さを、僕はこの村から感じ取っていた。村人の様子になど目もくれず、男は歩き続け、ついに一つの家の前で立ち止まった。


「ここがお前の新しい家だ」


 それは古くはあったものの、二階建ての立派な一軒家であった。鍵を渡したっきり何も言わずに男は館へと帰っていった。収容所などに引きこもっていないで、人間と共に外界で暮らすべきだ、ということか。

 中へ入ってみると、そこは昔、一つの家族が住んでいたと思わせる造りであった。一階には大きなリビング、ダイニング、キッチン。煌びやかな玄関ホールを抜けて真正面にある階段は、踊り場から左右二手に分かれていた。

 右側の階段を登ると書斎に子ども部屋が二つ、反対に左側には大きな衣裳ダンスのある部屋に寝室。恐らくは四人家族だったのだろう。

 加えて階段の踊り場にある天井の扉を開けると、梯子が降りてきた。古く、軋む梯子を登ると、そこには冷えきった広い屋根裏部屋があった。

 男物か女物かも区別のつかぬ黒い毛皮のロングコートや、耳当てのついた帽子などの寒さを凌ぐ衣類が仕舞われており、この村も冬は冷えるのだと知った。どこか部屋の隅で何かがゴソゴソと動く音がした。鼠か虫か。


 どの部屋も埃が溜まり、ダイニングの椅子の脚はへし折られ、子ども部屋のベッドやぬいぐるみからは中綿が飛び出していた。長年、それも十年、二十年どころではない、百年単位で使われていなかったのではないだろうか。

 しかしそれはただの劣化とは思えないほどひどく荒れていた。それでもこの家からはかつて暮らしていた家族の愛情が、どことなく感じられた。

 一方でどこに向けられているのかわからない、哀しみのような、深い絶望の匂いが漂っていた。二階の廊下にあるひび割れた窓から差し込む光が、さらに哀愁を感じさせた。

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