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第3話

 一人アパートへ戻ると、僕はこの忌々しい能力に再び激しく嫌悪の情を覚えた。そして自分の置かれた立場を恨んだ。こんなに憤りを感じたのはいつぶりだろうか。人間という生き方を捨て、ヒトとして生きていくことを選択したはずなのに。

 人間に戻してくれと、そう願った。君の顔を思い浮かべては、自分の欲を抑える。何度も、何度も、繰り返す。

 しかし僕はもう人間ではない。君と同じ人生を歩むことは許されていない。君の元を去ろうと幾度となく頭をよぎった。君を危険に晒してしまうかもしれないのだからと。あの時の自分の行動を悔やんだ。それは数えきれないほどに。


 まだ遅くはない。今からでも間に合う。さあ、立ち去るのだ。後ろを振り返らずに。


 誰の人生も奪うことなく、ただ静かに生きてゆこうとあれほど心に誓っていたではないか。百三十五年もの間そうしてきたではないか。それをたった一度の気の迷いで全て壊してしまうのか?

 けれど僕にはできなかった。決定的な決断が下せなかった。君の側を離れることは、どうしてもできなかったのだ。こんな姿になってもなお、僕は人間でありたいと、君の隣で生きていたいと、そう強く願ってしまったのだ。


 愚かにも君の側にいることを選択した僕は、気づけばこの街で十年もの月日を過ごしていた。一つの場所で十年も過ごす、この姿になってから初めてのことであった。 

 しかしこれほど長く共にいると、君にこの大きな秘密を隠し通していくことが難しくなっていった。かろうじて人間としての記憶を持つ僕は、君と同じように振る舞うことに特別苦労はしなかった。能力にさえ気を配っておけば良いのだから。僕を苦しめたのはそこではなかった。

 僕とさほど歳の変わらぬ君は、何年経っても姿の変わらない僕を羨ましがった。そして僕が君と触れ合うことを避けていることに気づいていた。手と手を重ね合わせ、唇に君の体温を感じることがあっても、僕は優しく君を引き離し、君が僕のとばしりを喰らわぬようにすることしかできなかった。

 人間であれば惑うことなくありのままの姿を見せ、互いに愛することが許される。日々の一つ一つの行為が、ヒトであることを思い出させ、一方で君に惨めな思いをさせているのではと責め苛んだ。

 そこから僕は少しでも君を悲しませまいと行動を改めた。髭を伸ばすことで歳を重ねているように見せた。外出時には進んで手を取るようにした。細心の注意を払いながら。

しかし何をしてもそれは見せかけでしかなかった。僕の正体が変わるわけでも、能力がなくなるわけでもない。一人心を痛める僕の横で、それでも君は喜んでくれているようだった。

 君に何色が好き?と聞かれるとき、君にどちらの色が似合う?と聞かれるとき、君に夕日が綺麗だね、と話しかけられるとき、そのどれもが僕にとっては難しい会話であり、いつも曖昧な答えしか言えなかった。人間の記憶を辿り、なんとか色を思い出そうとするものの、君と出会った頃にはすでに色を失って百年以上の年月が経っていた僕にとって、それはとても難しいことであった。それでも君は僕にいつもの笑顔を向け、何も問わなかった。

 どれほど人間らしい生活が送れても、所詮僕はヒトでしかなかった。これほどまでに人間でありたいと切に願い、一方で人間としての生活を送ることが苦しい日々は、後にも先にもこの十年だけだ。


 僕と出会った頃、君もこの街に越してきたばかりであった。新しい仕事をするのだと言って、嬉々とした顔で話をしてくれた。この大きな街で夢を追う君の姿は、眩しくもあり、一方で人間とヒトとの違いを大きく突きつけられているような気がしてならなかった。

 僕と君は対照的なところも多かった。口数の多さで言えば圧倒的に君が勝っていたし、知識の多さでは僕の圧勝だった———百八十年余も生きているのだから当たり前だ———。それでも、どんなときもどんなことも自然に笑い合えた。こんなにも素でいられる人と出会えるとは思ってもいなかった。ヒトとしての僕の不自然さを一度も問うことがなかった君の優しさの中で、僕の心苦しさや不安は少しずつ消えていき、それは安らぎへと変わっていった。

 今にして思えば君はなぜ問わなかったのだろうか。何かを感じながらも問えずにいたのだろうか。それとも答えを知ることを恐れたのだろうか。あるいは知っていたのか。

 その頃の僕は、君との他愛ない穏やかな日常がただ愛おしく、壊れないようにと切に願うばかりだった。




 君と過ごして十度目の冬がやってきたある朝、唐突に君は「週末はクリスマスツリーを買いに行こう」と提案してきた。僕の聞き間違いか。これまで一度たりともそんな話をしたことすらなかったのに。僕は君の言葉に戸惑った。ツリーという言葉に過剰に反応したことを悟られないよう、振り返らず、何事もなかったかのように身支度を整えるふりをした。

 ヒトになった百四十五年前のあの日、ツリーを買いに揚々と出かけて行った僕は、外へ出かけるという行為がこんなにも苦しいものになるとは想像もしていなかった。変わらず毎年クリスマスはやってくるものだとそう信じて疑わなかった。しかしその後の僕にクリスマスがやって来ることはなかった。

 僕はなんと返事をすべきか迷った。あの年を最後に、僕の中からクリスマスは排除されていた。それが再び僕のもとへ帰ってきた。君のその一言によって。


 イエス。


 僕の答えは僕の期待を裏切った。それは思考を巡らす脳を放置したまま口をついて出てきた答えだった。

 もしかしたらこれまでもクリスマスを祝いたいとそう願っていたのかもしれない。僕の顔色を伺って言い出せなかったのだとしたら———君を悲しませたくない———。その一心から僕はこの答えを選択した。


 この日の夜、僕はこっそり家を抜け出し、ツリーを買いに出かけた。君の安らかな寝顔を見ながら、週末と言わず、翌朝目を覚ましたときに大きなツリーが飾ってあったらどんなにか喜ぶだろうと、そう考えたのだ。僕にとってはこれまでの恩返しのつもりだった。こんなものでは微塵も足りないと思いつつも、これまで一度たりともはっきりと自分の希望を伝えてこなかった君の望みだ。叶えてやりたかった。

 明日は少し早いクリスマス。僕はサンタクロースの格好をして登場しようか。御馳走も用意しなければ。明日は一緒に食材を調達しに行こう。この間欲しそうに見ていた愛らしい靴をプレゼントとしようか。そんなことを考えながら僕の足取りは軽く、夜のわびしい景色も、深く沈む雪も、心なしか色づいて見えた。

 大きな街ではツリーもそれはたくさん売っている。僕は実に百四十五年ぶりにツリーを選んだ。初めこそ少し緊張していた僕だが、次第にそんな気持ちも薄れ、昔のように真剣にお気に入りを探している自分がいた。

 かつてと違うところがあるとすれば自分のためではなく、君のためにツリーを選んでいる、というところだろうか。これも君がいなければできなかったことだ。君との十年の月日の中で、僕の生活はヒトから人間としての生活に戻りつつあった。


 時としてそれは思いもよらぬタイミングで歯車を狂わせてくる。

 結果として百五十五年越しのクリスマスツリーは、深い哀しみとして我々に刻まれることとなった。

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