突然声をかけてきたその者は、背は低いもののすらりとした細身の姿で、肩に付くほどの髪を綺麗に靡かせていた。左右を向くたびに光る瞳は美しく、吸い込まれるようだった。襟元にお洒落なレースの付いたブラウスに大きなカフスのコートを羽織り、水玉模様のスカートを身に纏っていた。その手には一つの革の財布が握られていた。
たしかな色がわからない僕にも、その姿はとても魅力的に映った。なぜかはわからない。それがこの者の佇まいからくるものなのか、はたまた別の何かか。少なからず僕は、この時点で君に他の人とは違う感情を抱いていた。
ぼうっとしていると君は僕の手にその財布を乗せてきた。そこでようやく僕は現実に引き戻され、初めてきちんとその革財布を見た。
けれどそれは僕のものではなかった。僕の財布は長財布で、こんなに綺麗に磨かれた革ではない。何度も僕の能力の被害に遭っていたその財布は、あちらこちらにほつれが見られ、すっかり色褪せている。僕は丁重にそのことを伝えた。これは僕のものではない、と。
そこで立ち去ればよかったのだ。何事もなかったかのように帰路についていれば。それが僕としたことが、なぜ帰らなかったのか。この忌々しい能力を持っているにも関わらず、僕は君との対話を求めた。百三十五年ものあいだ、全てのことを避けてきたというのに!
なんと愚かなことか。僕は君と言葉を交わしてしまったのだ。この静かな生活を続けるうえで必要のない言葉を。必要最低限の行動以外許されるはずもないのに、僕はそれ以上のことをしてしまったのだ!
君と一緒にその財布を店員に預けに行ってしまった僕は、その後も世間話を続けた。気づけば我々は店を出、共に帰路についていた。
不思議なもので百三十五年もの間まともに人と会話をしてこなかったというのに、そんな時間など物ともせず、言葉は自然と口をついて出てきた。ほんの少しの恥じらいとともに。
そんな僕に君は疑いの目を向けることもなく———少なくとも僕にはそう見えた———隣を歩き続けてくれた。自らを顧みず、これがあまりの愚挙であることにも気づかないまま、僕は人間が持ちうる感情を思い出していた。
大きな通りを抜け、薄明かりの路地を歩き、新しい街が僕を歓迎してくれているような心持ちになった。まるで僕の世界にも色が戻ってきたかのようだった。通りには、あの小さな町では考えられないほどの数の車が、轟々と走り回っていた。
君が仕事の話をするとき、僕は偽ってかつて人間であったときに就いていた職について話した。君が家族の話をするとき、僕は心を痛めながらも僕の家族は皆亡くなったとは言えなかった。それでも君との会話はこれまでの僕の凍りついた百三十五年を、ゆっくりと暖かく溶かしていった。
店から君の家まで実際には二十分足らずであったが、僕にはほんの五分くらいに感じられた。決まりきった面白味のない食材しか買えないことなど、どうでもよくなってしまった。それほどまでに僕はすっかり君に夢中になっていた。こんなことは初めてであった。
自分でもこの感情の高鳴りに驚きを隠せなかった。けれど、そんなことお構いなしに、僕はまた言葉を交わせる日はあるかと君に問うてしまった。
アパートへ戻るまでの道のりは、考えられないほどに足取りが軽く、それは少々気持ちの悪いほどであった。こんなことをしてはならないと連れ戻そうとする理性と、もういいじゃないかと反発する欲望とが、僕の頭の中を駆け巡る。わかっているのだ、絶対に止めなければならないと。しかし、この想いをどうすることもできなかった———。
そう、僕は一目見た君に恋をしてしまったのだ。
君と出会ってからの僕は、自分でも驚くほど行動的で社交的になった。
人間の頃のように毎朝カーテンを開け、シャワーを浴び、きっちり身支度を整えた。その後の朝食はこれまでと変わらず白い器に黒く映るコーンフレークという虚しいものであったが、そんな食事でさえいつもより美味しく感じ、僕の高揚を感じ取っているようであった。
この頃にはある程度能力を制御する力がついていた僕は、オフィスに出向く職に就き———それまではというと、道路清掃員のような一人でできるものを転々としていた———毎日仕事へ出かけていった。人々をかき分け、押しつぶされそうになる満員電車は、それは気を張る瞬間ばかりであったが、君がいるだけで心が落ち着くようだった。
休日には朝から散歩に誘い出し、ランチとディナーを共にした。次の週末には君が好きだという映画を観に行った。意外にも君はホラー映画を好んだ。さらに次の週末には気恥ずかしさを感じながらも前のデートで君が欲しそうにしていた真っ赤なワンピースをプレゼントした。色を知り得ない僕は、疑問に思われない程度に会話の中から色を聞き出す術を身につけていた。
こうした時間には、これまでどれほど望んでも叶わなかった人間としての生き方があった。
初めて君の家を訪ねた時は、僕にこんな幸せがあって良いのかと思うほどであった。そうして僕と君は指を絡め、唇を、体を重ね、互いの気持ちを確かめ合っていった。決して越えてはならない一線を感情の波にかき消されてしまわぬよう、神経を尖らせながら———。
夏が近づき気温が上がってくると「気の抜けた顔になる」と言った君は、僕の顔を見て笑っていた。日に焼けたくないと夏でも長袖を好む君に対し僕は、したり顔で半袖のポロシャツで過ごしていた。自ら長袖を着て暑がる君を滑稽だと思いながらも、君の周りを少しだけ凍らせて涼しくしてあげられたら、なんて思ったことは一度や二度ではない。
誰にも気づかれぬよう、必死に姿を隠し、自分の存在を無いものとして生きてきたのだ。せめてもの救いにならぬかと、誰とも関わらない生き方を選択してきたのだ。それが一瞬にして変わった。見違えるほどに僕の顔つきを、仕草を、生き方を、全てを変えていった。君という存在が、再び僕を外界へ連れ戻してくれたのだ。
同時に君との時間は、ときに僕の心を深く苦しめた。
どれほど心が近づいてもそこには越えられない壁があった。決して能力のことを話してはならない。僕は君の人生を揺るがすほどの秘密を隠し通さなければならなかったのだ。この三色しかない世界で、君だけが、一際輝いて見えた。けれどそんな君の本当の色を、本当の姿を、確かめることすら、僕には決して叶わぬことだった。