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第1話

 百三十五年。世の中がどれほど変わろうとも、どれほど大きな戦が起ころうとも、僕には微々たる変化も起こらなかった。あれほど大きな出来事があったとは思えないほどに。ただそこに居て、惨めに息をするほかなかった。その姿は冷たく血の通っていない、けれど生きた彫刻のように艶やかで整った顔立ちであった。永遠に三十歳の見た目を保ち続けるさまはどこか不気味で、そして神秘的でもあった。


 歳を重ねることを忘れた僕が、同じ町に、同じ家に何年も住み続けることは至難の業だった。滅多に外に出ないとはいえ、簡単に町の噂になってしまう。かといって「四十歳です」と言って相手を信じ込ませるには、シミ皺一つない僕の見た目ではあまりに若すぎた。

 はじめ僕はあの町の中を転々と回った。広場の近くの家を離れ、町のはずれへ移った。山を登り、川を下り、人通りの少ない暗がりへ。しかし、あの小さな町で宿替えを繰り返すのには限界があった。

仕方なく僕は、大好きなこの町を捨て、別の町へも出向かなければならなくなった。太陽の照りつけるような土地から、いつでも濃霧に覆われているような土地まで。ありとあらゆる場所を転々とした。どれほど土地を渡り歩こうとも、あの我が家だけは手放さなかった。いつか帰って来られる日がきっと訪れると心のどこかで願っていた。


 ヒトになってすぐは自分を卑下したり、この有様を恨んだり、一方でこの能力を持つことに対してどこか罪のようなものを感じていた。

 しかし百三十五年という想像を遥かに超える時間を過ごしているうちに、そんなものはどこか遠くへ消えていってしまったかに思われた。僕の心の中を揺さぶるような感情は綺麗さっぱり無くなっていた。僕は無の境地に達していた。

 そんな僕にも、再び息を吹きかえす出来事が起こった。僕の一生を大きく変える出来事が。それは危険な綱渡のようで、しかし、唯一の心の拠り所となるものであった。

 不覚にも僕は、人間である君に特別な気持ちを抱いてしまったのだ。



 この頃僕は、七十九回目の宿替えを迎え、見ず知らずの町での暮らしを始めようとしていた。あてもなく放浪する列車の中で、なぜだかこの町に手を引かれたような気がしたのだ。

 町というより街、市といった方が正しいか。アメリカ・ニューヨーク。人類最初のメガシティ。これまで暮らしてきたどこよりも広く、どこよりも活気に溢れた場所。

必要最低限の物だけを入れた、暗色の角張った古いトロリーバッグと身一つであちらこちらを転々としていた僕には少し大きすぎるくらいであった。


 僕は駅のすぐ近くにあるアパートをしばらくの住処とした———駅の近くにするのには訳あって、いつでもすぐに旅立てるからだ———。それは古く錆びれ、共用の螺旋階段は今にも崩れ落ちそうにミシミシと音を立てた。

 二階の隅に位置するその部屋は、奥行きわずか十歩ほどしかなく、一目で見渡せるほど小さかった。古びたベッドが一台置かれ、壁は薄く、まだ陽は沈んでいないというのに隣の部屋からは若い女の甲高い声が漏れ聞こえていた。前の住人の物だったのだろう、小さな机と椅子が窓際にぽつんと置かれていた。そういった家具を一切持たなくなっていた僕にとっては、大変心苦しい忘れ物だ。これでは毎朝、毎晩、人間を思い出さずにはいられないだろう。


 ここでも僕は変わらずひっそりと生活を送るつもりでいた。どうせまた数年後には引っ越すのだ。近所付き合いも必要ない。むしろ気づかれないくらいが長く暮らせ、気楽でいい。僕はもう、何も望みはしない。ただ時が流れていくのを、そしてその時の波に乗れないことを痛々しいほど肌で感じる。その程度でいい、そう思っていた。


 いくら外へ出ないといっても所詮我々も生物、人間のように腹は空くし、食事を摂る必要があった。鮮血が流れているかもわからない、こんな姿になってもなお腹が減るというのはなんとも笑えてくる話だが。

 この食糧を調達しに行く外出は、いかに人間との関わりを最小限に店まで行き、家へ帰って来られるか。それが最重要事項であった。


 この街へ来て初めて出かける日がやってきた。小さなキッチンの棚を確認するが、残念ながら前の家から持ってきた食糧はもう底を突きそうだ。

 新しい店へ行くのだ、僕はこれまで以上に注意力を高めた。この百三十五年そうしてきたように。何か間違いがあってはならない。決して自分の制御力を買い被ってはならない。そう言い聞かせ、僕は軋むアパートの扉を開けた。外はチラチラと雪が降り始めていた。そう、季節は百三十五回目の冬を迎えようとしていた。


 僕は新調したばかりの濃紺のオーバーコートと深緑のマフラーを身につけた。この百三十五年の間、何度も凍りつき、痛めつけてしまい、これが十度目の新調であった。

 ゆっくりと、降る雪に目をくれることもなく淡々とその道を歩いた。しかし、新しい街もこれほど広いと少し気分が高揚してくる。人々の生活も建物も、存在そのものが賑やかなこの街は、三色の世界でもあまり寂しさを覚えない。気づけば僕は、すっかり忘れていた気分の高鳴りに、足元ではなく、顔を上げて街を眺めながら歩いていた。この街を選んだのは間違いではなかったかもしれない。いい気分転換になる。


 店に着いた僕はいつも通り買い物を済ませた。大きな街にはその大きさに合わせた店があるもので、店内はかなり広かった。目当てのものを見つけるのに、十五分余り商品棚をぐるぐると歩き回ってしまった。

 次のひと月、家を出ることがないように、けれどいつでも旅立てるように、必要最低限の食糧を買い込んだ。

 何度も買い物に来られない僕は、長期保存の効く食べ物だけを買うようになっていた。それにはコーンフレークは最高に適していた。無論、すぐに腐食する牛乳は数本だけにとどめる。それらを持ってカウンターへ行き、支払いを済ませた僕に、背後から声をかける者があった。

「財布を落としましたよ」

 この一言がその後の僕の一生を大きく変えることになろうとは、このとき、僕は、いや、この店にいた誰一人として気づいていなかった。

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