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第2話

 僕は前方に板を見つけた。ただ真っ白な大きな板を。そこには正方形をかたどる線以外、何も描かれていなかった。唯一、右斜め上方向に小さなかすりのような黒い汚点があるだけだ。周りが白い分、その黒さが格段に目立っていた。一切の物音もしない、薄暗く、無機質な壁に囲まれた部屋で僕は一人、白い板を見つめていた。

 意識がはっきりしない。ゆらゆらと脳みそが揺られているような感覚が体全体を支配する。何も考えることなく、頭を回す気力もなく、流れゆく時間の中で、僕はまた、眠ってしまったらしい。再び目を覚ますと、今度は少し、周りの様子に目が向くようになった。

 ただの板は天井だったようで、僕はベッドの上に寝かされていた。隣に意識を向けるとそこには一つ、二つとずっと遠くまでベッドが整然と並んでいた。だだっ広い部屋に、誰がいるでもない空白のベッド。僕は体中にもの恐ろしさが広がるのを感じた。


 ここは病院なのだろうか。しかしなぜ病院にいるのだ。僕はぼんやりとした心もとない脳内を懸命にぐるりと回し、状況を掴もうとした。白い天井に何台も連なる簡素なベッド。要塞を彷彿とさせるこの飾り気のない壁。じっとこの壁を見ていると空気が薄くなり、息が詰まりそうで僕は咄嗟に白い天井に目を戻した。結局僕には、この天井を見つめること以外、できることはなかった。

 このとき僕は、今日一日、自分が何をしていたのか、思い出せなかった。そもそもそれは今日なのか明日なのか、朝なのか夜なのか、何もわからなかった。頭の中はぽっかりと大きな空洞ができたようで、クリスマスのクの字も出てこず、記憶はすっかり遠く離れたところへ隠れてしまっていた。



 針葉樹。凍りついた葉先。凍てつくような寒さ。突然、どこからともなくやって来た走馬灯が、僕の脳内を激しく駆け巡る。夢か現か。しかし脳裏にはこの景色が残像の如くしっかりと張り付いていた。意識が朦朧としながらも、どこか遠くの方で、けれどはっきりと、これは夢ではないと囁かれているような気がした。

 永遠に何度も繰り返し映し出される同じ光景。針葉樹。凍りついた葉先。凍てつくような寒さ。そして再び針葉樹。何かを僕に訴えかけているようで、それが何か、全くわからない。果てしなく抽象的で、どこか気味悪く、無性に不安に駆られる。

 ふと、違う光景が見えたかに思えた。靄がかかっているようで全貌はわからない。しかしそれは凍った湖面、いや海面のような、凍りついた水面に広がる無数のヒビ割れ、そんな情景が映し出されたようだった。

 僕はただじっと白い天井を見つめたまま、流れてくる光景を理解しようとおぼつかない脳内を必死に動かした。この景色はいつどこで見たものなのか。本当に現実なのか。一体何が起こっているのか。ベッドに横たわったまま、大きく深呼吸をし、この鬱々とした空気を吸い込んだ。だめだ。このままベッドに張り付いていては気が滅入ってしまう。


 僕はすっかり重たくなった頭を持ち上げようと両手に力を加えた。頭を持ち上げ、上半身を起こそうと、神経に命令を下す。が、何も起こらない。まあ長い時間この体制だったのだ、直ぐに動けなくても無理はない。再び両手に力を加える。思いきり腹筋にも力を加える。はずが、ベッドにめり込むように、深く沈んでゆくばかり。体は一向に動く気配を見せない。

 冴えぬ頭に動かぬ体。まるで金縛りにでもあったかのよう。体は全ての命令を無視し、しっかりと眠りについている。唯一目覚めているのは、文字通り僕の目だけであった。

 これは一体どうしたものか。身体の中に小さく蠢く何かがいるような気がして、僕は体を震わせた。結局何をしても僕の体は起き上がることを許してはくれず、仕方なく僕は、またひたすらに白い天井を見つめることとなった。



 どこからか微かに声が聞こえてきた。あの扉の向こうから聞こえてくるようだ。要塞の壁に反響するように、その声はうねりを打っていた。

何を言っているのかはっきりとは聞こえない。確かなのは外で遊んでいる子どもたちでも、その母親の声でもないということ。野太い男の声だ。二、三人はいるだろうか。聖歌を歌わせるのならバリトンが似合いそうな、恰幅のいい、そんな人を僕は想像した。

 その声はだんだんとこちらに近づいてくるようだった。声が大きくなるにつれ、なぜだか僕は、再び意識が朦朧としてきた。

 どこかへ引き摺り落とされていくような感覚。そちらへ行ってはいけないと僕の意識が全力で抗う。そんな小さな闘いも虚しく、今の僕に抵抗できるだけの体力は残されていなかった。されるがまま、僕は、深い眠りへと連れ去られていった。

 僕の意識はどこか知らぬ場所へ向かっていた。その直前、黒い人影を視界の片隅で捉えたような気がした。




 目の前が青一色で染まる。見たこともないほどの神秘的な青。ふわふわと宙を漂うような感覚。息が苦しい。

 鈍く白い光が僕の目を捉える。一匹の魚が僕の顔を掠めたようだ。彼の動きに沿って小さく波が立つ。次第に周りの状況が呑み込めてきた。ここは海の中だ。なぜこんなところにいるのか。しかしこのままでいいはずがないと僕の全細胞が喚き立てる。

 濃紺のオーバーコートに深緑のマフラー。そんなものでは耐え切れぬ、息も凍るほどの寒さ。冷たさ。それは次第に痛みに変わり、手足の感覚を奪い、体中にキリキリとめり込んでくる。耐え切れず僕は叫びを上げた。けれどそれは海の中ではあまりに無力で、ただ空気の泡となって暗闇の中に消えてゆく。海面がどちらにあるのかもわからない。地上へと導いてくれる光も無い。一瞬のうちに海底まで押し込められた僕は、手に当たった何かを拾い上げた。薄っすらと白い何者かに覆われた物体。先程見た魚の屍であった。


 目の前に広がる光景に息を吞む。僕は自分の体が小刻みに震えるのを感じた。寒さからではない。異常な数の海底生物の屍。後ろを振り返ると次々と生物たちが凍ってゆく姿が目に飛び込んできた。これはただ死んだのではない。皆、凍りついているのだ。尾鰭から背鰭、そして頭の先へ—。僕はこの凍てつく寒さの中、ただひたすらに怯えた。かつてないほどに。

 海の中で育つ一つの氷柱。小さくもろい氷柱は海底が近づくにつれ、太さと強度を増してゆく。海面から海底へ向かってゆくその姿は、すべての生物を困惑させるほど美しく、神秘的で、そして残酷であった。まるで魔の手のように忍び寄る氷柱は、海底にたどり着くと、底を這うように動き回り、静かに、でも確実に、生物を殺めていった。鋭く伸びたその氷柱は、死を生み出す指のようであった。

 青い世界に溺れ、もがき苦しむ僕に、その死の指はこちらへおいでと囁くように静かに迫ってくる。逃げなければと全身が警鐘を鳴らしているのに、僕の体は動かない。その神秘的な姿に、僕もまた、愚かに、酔いしれた—。


 一瞬にして硬直状態に陥った。息が詰まって、思考が停止する。

 ついに僕もその指に捕まった。捕まってしまったらしい。

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