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第9話 氷姫と貸しと借り

「ねぇ、どうしてわざわざ先生に掛け合ってくれたの?」


 掃除をしていると唐突に一色が尋ねてきた。


「大所帯の吹部より先生一人に頼む方が手軽だろ」


 半ば強請りみたいなお願いの仕方になってしまったが……。


「そうじゃなくって、どうして私なんかのために動いてくれたのかって話よ」


「どうしてって、一色がピアノ弾きたいって言ったからだろ?」


 変なこと聞くなぁ。他になんの理由があるというのか。


「俺はあくまで希望を汲んで、自分にできる範囲のことをしただけだ」


「本当にそれだけ?」


 大層不思議そうに一色は首を傾げた。本当に変なことを聞く。先生にお願いするくらい、骨が折れる仕事でもないのに。


 だが聞かれるとそれだけじゃない気がしてきた。

 俺はあの時、どうしても一色にこの部屋を使わせてあげたいと感じた。その理由をあえて言葉にするなら……


「ここが一色の心の拠り所になるから、かな」


「どういう意味?」


 直感的に答えたので深掘りされても困るなぁ。

 俺は一色が納得できるよう、考えながらゆっくり話した。


「せっかくピアノ弾き放題な部屋見つけたのに追い出されるのは癪だろ? 俺もライブハウスのバイト気に入ってるけど、身内からやめろって言われた時はムカついたから気持ちが分かったんだ」


「アルバイト、反対されてるの?」


「あぁ。歓楽街にあるってだけでふしだらなところだと決めつけてるんだ」


「でもあなたは気に入ってる。あそこがあなたの心の拠り所なのね」


 窓辺に立つ一色は微笑む。窓から差し込む夕日をバックにした一輪の花に見え、ドキリとする。

 直視するのが気恥ずかしくて目を背け、箒を動かす手に集中した。


「ふふ、照れてるの?」


「別に照れてないよ」


 一色は、俺が内面を見透かされて恥じらってると勘違いしてるみたいだ。

 人の気も知らないで。


 でも、この感じいいな。放課後、女の子と二人きりで好きなものをテーマに話して、もっと好きな気持ちを深めていく。特別な人とじゃないとできないことだ。


「それにしてもまたあなたに借りができてしまったわ」


「またその話か?」


 出た、『借り』の話。唐突な話題の転換に俺は苦笑する。


 金曜日にあのおっさんから助けたことに続き、今日はピアノの使用許可を取った。

 彼女の論法を用いるならこれで貸し二つだ。


「貸し借りなんて気にしなくて良いよ。実際、俺がしたことなんて先生にお願いしただけだから、偉そうに貸しだなんて言えないよ」


 褒められたやり口じゃないから誇るつもりもない。しかし一色はどこかスッキリしない様子だ。顎に手を当て、「むむむ」と俯いて考え込んでしまう。


「そんなに借りを作るのがイヤなのか?」


 過去に借りを作った相手から無理難題をふっかけられたのだろうか?

 それで同類と見做されてるなら心外だ。

 しかし一色の答えは少し違った。


「借りっぱなしがイヤなのよ。誰かにお世話になったけど、それっきり会えなくてお返しができなくなることってあるでしょ? だから借りはなるべく作らず、作ったならできるだけすぐに返す。借りが後悔に変わらないようにね……」


 ハンディワイパーでホコリを拭き取る手を休める一色。こちらに背を向け、外に目を向けた彼女は言葉を紡がなかった。


 窓から吹き込んだ山おろしが彼女の真っ直ぐな髪を弄ぶ。その風に乗せられ、みかんの香りが運ばれてきた。

 黄昏る顔が気になり、それとなく隣に立つ。


 横目でちらりと一色の横顔を窺う。

 くれなずむ西の山々の稜線と、そこに向かって飛んでいく二羽のカラス。端正な顔がひどく寂しげに見えたのは夕日で赤く染まっているせいだけではないだろう。


「借りを返しそびれたの?」


「えぇ、昔ね。未だに借りっぱなしよ」


 その『昔』に何があったのかは想像がついた。


 おそらく、とてもお世話になった人がいたけど恩返しをする前に遠くに行ってしまったんだろう。

 その人に何をしてもらったのか、おおよそは想像できる。きっと彼女にピアノを教えてくれた人だ。

 それが誰なのか、すごく気になる。

 親兄弟、恩師、友人、それとも恋人?


 その答えが語られるのを期待して次の言葉を待った。だが彼女は口をつぐんだままだ。


 本音を言えばこの場で聞き出したい。彼女の心の中に残り続けるのが誰なのか。

 でも言いたくない気持ちは痛いほどに分かった。なぜなら――


「俺にもいるよ、借りを返せてない人が」


 俺の中にもそんな人がずっと居着いて離れないのだった。


「あなたも借りを返しそびれた?」


「借りっていうか、俺はおばあちゃんにすごく可愛がってもらったよ。家族の中で一番好きだった。でも小学生の頃にガンで死んじゃって何も恩返しできなかった。おばあちゃんとは楽しい思い出しかないけど、それだけが心残りなんだ……」


 世界で一番大好きなおばあちゃん。でもガンの発見が遅れたせいで治療ができず、帰らぬ人になった。

 できることなら俺が医者になって治してあげたかった。今でも闘病が続いていたら、それが何よりの恩返しになるはずだから。

 でも、おばあちゃんはもうこの世にいない。恩の返しようがない。


「それは残念ね。私も大隅くんと同じで、その人にはもう二度と会えないの」


「亡くなったの?」


「いいえ。……いいえ、分からない。ずっと昔にお別れして連絡が取れない相手なの。だから今の暮らしぶりも分からない。私にできることは、こうして遠くから健康を祈ることだけよ」


「そっか。元気だといいな」


「えぇ……。ところで、なんで私達こんな話してるのかしら? お母さ――いえ、こんな話誰にもしたことがないのに」


「貸し借りの話だったはずだけどな」


 一色は戸惑ったように眉尻を下げ、俺は苦笑を漏らす。


 俺だってこんな話、誰にもしたことがない。爺さんにも母さんにも、もちろん父さんにもだ。


 でもなぜだか一色は気持ちを分かってくれる気がして口が勝手に動いていた。


「そうだったわね。話を戻すけど、私が早く借りを返したいのは、いつお別れが来るか分からないからよ」


「ようやく一色の気持ちが分かったよ。といってもすぐに返してもらいたいって気持ちは俺には無いんだが……いや、一つあるか」


「何?」


 一色の顔に明るさと緊張感が差す。

 俺はカバンからミルキーウェイのチラシを取り出して渡した。


「今週末、ライブあるから良かったら来ない?」


「予定は空いてるから構わないけど、これが借りを返すことになるの?」


「店長から『宣伝しろ』って言われてるから、集客に貢献ってことで。店長も新規客が来てくれると喜ぶから一石二鳥だろ?」


 これで一色の気が済むなら丁度良い。そう思っての提案だ。

 一色は目を点にしたが、クスリと笑って承知してくれた。


「そういうことなら協力させてもらうわ。店長さんにもお礼を言わないと」


「だな。ちなみに土曜日の公演がおすすめだ。俺の好きなバンドが出てるから見においでよ」


「えぇ、必ず行くわ」


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