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第8話 氷姫の居場所

 一色が向かう先が備品室であることは検討がついている。案の定、特別教室棟最上階の角部屋の前に氷姫の姿があった。


「お客様ぁ〜、そちらのお部屋は立ち入り禁止でございまぁ〜す」


 俺がふざけた口調で注意すると、備品室のドアに手をかけた一色がビクッと肩を震わせた。

 一色は脅かされた野良猫みたいな顔でこちらを見つめるが、俺と分かって安堵のため息をついた。


「今日も来たのか?」


「えぇ、またピアノが弾きたくて」


「普段は施錠してるから入れないよ」


「それじゃあ開けてちょうだい」


 いけしゃあしゃあと言うなぁ。しかも真顔だから冗談か本気か分からない。


「今日は鍵持ってないし、そもそも一般生徒を入れちゃダメなんだ。だから諦めてくれ」


「そう。それじゃあ仕方がないわね」


 意外にも一色はすんなり引き下がった。だがそんな寂しそうにされるとこっちが悪いみたいだ。


「家にピアノないのか?」


「電子ピアノがあるけど壊れちゃった」


「そりゃ残念だ。音楽室は吹奏楽部がずっと使ってるしな」


 我が校の吹奏楽部は全国大会出場経験もある強豪だ。そのため授業以外の時間は常に音楽室から管楽器の音が聞こえている。


「ピアノ、そんなに好きなんだ」


「好き……? そうね、好きなのかもしれない」


「かも? 随分ぼんやりしてるんだな」


 あんなに上手で、あんなに楽しそうに弾くのにはっきり「好き」とは言わないとは不思議だ。


「ピアノを弾いてる時だけ、私は私でいられる。私の楽しいと嬉しいは全部、私にピアノを教えてくれた人がくれた思い出だから……」


 一色は細い指で鍵穴をなぞりながらボソリと語った。まるで魔法で鍵を開けようとしてるみたいだ。

 もちろんファンタジーじみた奇跡なんか起こらない。ドアは無情に閉じたままだ。


「それってつまり、好きってこと?」


「ふふ、そうね。好きという気持ちに偽りはないわ」


 一色は頷いて笑った。だがその笑顔はひどく寂しげだった。


「もう帰るわ。それと、ここにはもう来ない」


「え、いいのかよ?」


「立ち入り禁止なんでしょう? お世話になったあなたの気を煩わせたくない。だから安心して」


 一色は俺が不法侵入を迷惑がっていると勘違いしている。

 確かに無断で立ち入ったのを注意したが、あくまで生徒会役員の立場上見て見ぬふりできないからだ。迷惑だなんて思ってない。


「それじゃあ、さようなら」


 一色の背中が一歩遠ざかる。


「待って!」


 そんな彼女の手首を掴み、俺は引き止めてしまった。一色は目を丸くして立ち止まった。


 人前で決して笑わぬ孤高の氷姫。

 だがピアノの音色があれば凍りついた心の扉も少しは開くのを俺は知っている。

 そんな彼女からピアノを奪い取るのは罪深いし、与えられないのも心が痛んだ。


「俺がなんとかする」


 そのせいか、俺はらしくない安請け合いをしてしまった。


 *


「なんとかする」と言った俺が向かった先は職員室だ。


 一般生徒立ち入り禁止の備品室。そこで一般生徒の一色がピアノを弾くにはどうすれば良いか?

 まぁ、簡単な話だ。先生に許可を取れば良い。ルールを設けたのは先生方だが、「生徒会役員は例外」と定めたのも先生方。だから新しく例外を作れないか相談するまでのこと。


 ということで一色と職員室へやってきた。放課後になっても先生方は机で事務仕事したり、机の間を縫うように歩き回って忙しそうで立ち入るのは気が引ける。

 だが一色にピアノを使わせるため、及び腰ではいけない。

 俺は深呼吸して職員室の敷居を跨ぎ、生徒会顧問の真山先生の机へ向かった。


「備品室のピアノを使いたい? 大隈くんが?」


 用件を伝えると真山先生は意外そうな顔をした。黒髪ボブカットとリムレスメガネがトレードマークな女教師は俺がピアノを嗜むことに驚いている様子だ。


「彼女が使いたいと。音楽室は吹奏楽部の練習場所なので使えないですし」


 一色を紹介すると先生はどんぐりみたいな目でそちらを見つめた。対する一色は少し緊張気味に会釈をする。


「なるほどねー。分かってるでしょうけど、あそこって高価な備品も保管してるから一般の生徒は立ち入り禁止なのよね」


「そこをなんとか!」


 俺は先生に合掌してお願いした。

 些細であっても例外を作るのが難しいことは分かる。

 だが一色のピアノへの想いを背負った以上、すごすご引き下がれない。


「お願いします、先生」


 一色も頭を下げて加勢する。


「トラブル防止のための決まりだから、やっぱり一般の生徒の自由な出入りは認められないわね」


 だが先生は頑なに首を縦に振らない。俺の隣で一色は項垂れた。


 やはりそうすんなりとはいかないか。

 まぁ、これは想定内。次の作戦に出るとしよう。

 名付けて『お手伝いのご褒美作戦』だ。


「ほんの少しでいいので。一色には備品整理の手伝いをしてもらって、そのついでにピアノを弾かせてあげるくらいなら問題ありませんよね?」


「生徒会のお手伝いねぇ。ありがたいけど不要不急の入室は関心しないわねぇ……」


 案外硬いな。でも一色が手伝いのご褒美にピアノに触れるのは名目としては十分と見た。もう一押しだ。

 俺は半歩身を乗り出し、先生にだけ聞こえる声で囁いた。


「先生。俺って真山先生にお願いされたから生徒会に入りましたよね」


「な、何よ急に……」


「別にー。ただ、先生が理由も言わず『どうしても生徒会に入ってくれ』っていうから色々察してあげてこの話を飲んだんですよねー」


「うぐ……」


 去る九月の始業式、それまで一度も話したことのない真山先生は突然俺の元を訪ねて生徒会に勧誘した。

 なぜ俺を誘うのか困惑したが、先生は「いい経験になるから」とお茶を濁した。

 だが俺もバカじゃない。おおよそ、爺さんが望んだか、学校の偉い人が忖度したかで俺を生徒会長にする段取りをつけたがったのだ。

 大人の駆け引きに付き合うのはバカバカしかったが、上からの圧力に疲弊したこの若い教諭が哀れで楽そうな会計係を引き受けてやったのだ。


 そんな経緯があるので俺は強気に出た。


「来年はどうしようかなー」


「ぐぬぬ。教師と駆け引きするなんて……」


「魚心あれば水心ありですよ、先生」


「わ、分かりました……。そちらの一色さんがお手伝いで入室することを認めます……」


 ニコニコ笑顔の一押しが効いた。真山先生は渋い顔で頷いた。なんでも強気に出てみるものだ。


「一色、お手伝いしていいってさ」


「え、えぇ。ありがとう?」


 一方の一色は真山先生が態度を百八十度転換させたことに唖然としている。狐に摘まれたような顔というやつだ。


「はぁ、まったくもう。あのお爺様にしてこの孫あり、なのかしらね……」


 去り際、真山先生はやれやれと首を振りながらひとりごちた。

 老獪な身内と同列にされるのに思うところもあるが反応はしないでおく。十六歳の小僧にゆすられては嫌味の一つも出るのも頷ける。


「大隈くん、先生に何を言ったの?」


「生徒会参加以来、俺がどれだけ頑張ってきたかをアピールしたんだよ」


 と誤魔化す。他ならぬ一色のためとはいえ、大隈家の地位を使ってゆすったなんて知られたくない。


 生徒会室から拝借した鍵で開いた備品室は相変わらず空気が埃っぽく、時間の流れから取り残されたみたいだ。

 一色は扉を開けるや浮ついた足取りでピアノの元へ駆け、うっとり蕩けそうな顔で黒い光沢のボディを撫でた。この顔を見られただけでも先生と交渉した甲斐があった。


「今日から好きなだけ弾いていいぞ。もう一色のピアノだからな。なんなら持って帰ってくれ」


「何言ってるの。こんなに大きなもの持って帰れないわよ」


「そこはほら、ドラえもんみたいに」


「無理に決まってるでしょ。持ち上げらんないわ」


「気にすんのそこかよ」


 そこは四次元ポケットが無いから、じゃないのか。

 笑わせようと冗談言ったらこっちが笑わせられた。


「確かにドラえもんって『どこでもドア』とか『もしもボックス』とか持ち上げる怪力の持ち主だよな」


「ロボットだからある意味当然ね。ポケットがなくても私がドラえもん並みに力持ちなら担いで持って帰れるのに。『えい!』って感じで」


「ぶはは! 一色、やめろ! 笑わせるな!」


「どうして笑うの? 私は本気よ」


 顔を真っ赤にして、ガニ股でピアノを背負う一色。それともバックパックみたいに涼しい顔で背負うのか。どちらにせよ想像するだけで笑える。

 それに今の「えい!」は可愛かった。


「笑い過ぎよ。早く掃除済ませましょう」


 一色は顔を赤くして膨れっ面し、箒を押し付けてきた。

 怒らせちゃったな。でもあんまり怖くない。昨日の朝、二年生の告白を断った時は「やっぱりおっかない女なのか?」と思ったがむしろ可愛げさえある。


 それを言ったらもっと怒られるから言わないけどさ。


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