翌日、俺は終始上の空だった。
昨日現れたジャーナリストのおっさんの言ったことがどうしても頭から離れない。
大隈病院での誘拐事件のことは脇に置いといて、一色がおっさんに話しかけたと言うのは事実なのか?
おっさんが嘘を言っている可能性はある。パパ活疑惑だって誹謗中傷だろう。
そう思っているのにこの二つの点の繋がりを意識している自分がいる。
パパ活疑惑のある女の子が、歓楽街で中年のおっさんとトラブルになったのを災難と片付けて良いのか?
そんな調子で悶々としてたから授業は右から左へ流れていった。
そして放課後、俺は先生に頼まれ書類を事務室まで運ばされた。
俺がイメージしてた生徒会役員って、生徒のために働く格好良い存在だった。でも実際は事務処理や委員会の手伝い、先生からの雑用などほとんどボランティア組織と変わらない。
名声や見返り欲しさにやってないから別に良いけどさ。
事務室の職員さんに書類を渡し、来た道を戻ろうとしたその時だ。
「それでは校長先生、失礼します」
事務室の隣の校長室のドアが開き、中からしわがれた声の老人が一礼して出てきた。渋川色の着物と羽織を見て俺は足を止めた。
「おぉ、天人か。久しぶりだな」
「……久しぶり、爺さん」
出てきたのは綺麗に整えたグレーの髪と顔に深く刻まれた皺が印象的な老人で俺の祖父。北斉市に根を下ろす医師の一族・大隈家の当主で、大隈病院をはじめとした多くの病院を経営する『北斉典医会』の理事長である。
「校長先生とお話?」
「ちと世間話をな」
爺さんは温和に応えるが俺は内心穏やかじゃない。
世間話というが、まさか俺の生徒会での働きぶりを探ってたんじゃないかと疑った。
校長が一介の生徒の様子を観察しているとは思えないが、この爺さんなら唆しかねない。
俺には関係ないことだと信じてそれ以上は聞かないでおく。
「天人や、もう帰るのだろう? 車で送ってやる」
「いや、まだ生徒会の用事があるから残るよ」
優しく申し出た爺さんに俺は嘘をついた。
「そうか。生徒会というのは暇じゃないんだな」
「うん、だからもう行くね」
「まぁ、待て、天人。少し話そう。日曜日はお前だけ来なかったじゃないか。せっかく話せると思ったのに寂しかったぞ」
そう言って爺さんは正面玄関脇の竹のベンチに俺を座らせた。
長居したくないが、本当に寂しそうな顔をされて申し訳なくなった。
「学校は楽しいか? 友達はできたか?」
「まぁまぁ。一応友達はいるし、生徒会の人もいい人ばっかりだからそれなりかな」
「それは良かった。お前が学校に行きたがらなくなって心配したが、楽しくやれてるなら何よりだ。爺ちゃんは嬉しいよ」
相好を崩す爺さんの顔からは言葉通り安堵しているのが分かった。そんな爺さんとは裏腹に、俺は下腹の辺りが少し痛くなった。
「勉強の方も頑張ってるそうじゃないか。お母さんから聞いたが、模擬試験の結果も良かったそうだな」
来た、本題だ。爺さんの世間話は医学部受験への前置きだ。
「だが、それはあくまで今の話。勝負事というのは昔から水物でな、今は優勢でも来年再来年、いや、明日の結果さえ分からんものだ。何事も先んずれば制す。予備校について、お母さんとは話したか?」
「昨日話したよ。でも三年生になるまで現状維持」
「ふーむ。一年生の今から通ってもいいんだぞ?」
「もう少しアルバイトを続けたいんだよ」
「バイトか……。下働きの大変さを学ぶのは結構だが、半年もやったからもう十分だろう。これからは目の前の目標に集中してはどうだ? まずは医学部合格を確実にできるよう予備校に通うのが良い。それとも、何か欲しいものがあるのか? いくらでも買ってやるぞ」
好々爺な顔に俺は内心ぐっと身構える。
爺さんはいつも孫想いな顔で俺に命令してくる。母さんと違うのは俺を褒めたり、おだてたり、時に不安を煽って自ら動くよう仕向けてくるところだ。
今の提案は俺から予備校に通う言質を引き出して予備校に通わせる布石だ。
だからイヤなことはイヤだって、きちんと言わないと。
本当は医者になるつもりはないけど、それを言う勇気は今の俺にはない。でもせめて予備校は断らないと。
「バイトは楽しいから続けたいんだ。お金のためじゃない」
「だったら爺ちゃんがやってる老人ホームでボランティアをしてみたらどうだ? お前はいずれ典医会を継ぐんだ。介護士の大変さや年寄りの暮らしを直に見てみるといい。ライブハウスなんかで働くよりよっぽど学べるぞ」
「俺はミルキーウェイが好きなんだ。父さんからも現状維持でいいって言われてる。だから続ける」
少し強めの口調でバイトを続ける理由をはっきり言ってやった。
例え大きな学びがあろうと、高い時給を出されようと、俺はあの店が良い。
あそこには俺を救ってくれた人がいるから……。
「ははは、ならば結構。しっかり励みなさい」
爺さんは一瞬呆けた顔をしたが、すぐに相好を崩して納得してくれた。
母さんなら激怒して火を吹くところだ。その母さんの父親なので内心覚悟していただけに意外だった。
「長居は良くない」と言いながら爺さんは立ち上がる。
「爺さん」
「なんだい?」
「いや……寒くなってきたから風邪引かないようにね」
俺は家に記者が来たことを報告しようとしてやめた。
爺さんが知る所になれば送り迎えの車を手配して行動を制限されかねない。
そんな心持ちはつゆほども知らぬ爺さんは嬉しそうに運転手付きの車に乗って帰って行った。
はぁー、疲れたー。
不登校だった俺だが、皮肉にも学校は今では家族から解放される息抜きの場になっている。
それだけに大隈家の首魁と遭遇したのは心臓に悪い。
俺はどっと疲れを溜め込んだ身体を引きずり、荷物を取りに教室へ戻る。そのあとは生徒会室へ行くつもりだ。今日の仕事はないが、まっすぐ帰るのは気が咎めたからだ。
ため息をつきながら廊下を歩いていると、ふと特別教室棟へ続く渡り廊下の窓にある女の子の顔が見えて足を止めた。
しけた顔の口角が少し上がった気がした。