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第6話 疑惑の影とバタークッキー

 氷姫と別れた俺は他に用事もないので家路についた。


 その足取りはなぜか軽い。

 ジョギングするご隠居やゴールデンレトリバーを散歩させるマダムとすれ違う通学路。

 目に馴染んで新鮮味のない光景なのになぜかキラキラして見えた。


 原因があるとすれば一色と過ごしたせいだろう。


 氷姫と呼ばれる学校一の美少女。名前は一色氷雨。男に対して塩対応で、決して笑わないと評判の孤高の少女。

 そんな彼女と二人きりで会話し、物を贈り合い、ピアノを弾いてもらった。なんだか夢のような時間だった。


 胸がポカポカしたまま自宅にたどり着く。門扉に手をかけた、その時だ。


「あのぉ、大隈さんのお宅の方ですか?」


 突然現れた人物に声をかけられる。俺はびっくりして飛び上がり、まじまじとその人を観察した。

 四十代半ばくらいの、お腹の出た男性だ。細い目とおちょぼ口の顔が日向ぼっこする猫みたいだった。

 一体いつからそこにいたんだろう。一色のことを考えてたから全然気づかなかった。


 それはそうとこの人、どこかで会った気がする……。


「そうですが、どちら様ですか?」


 男性は俺の質問には答えず、愛想良く笑いながら「ご立派なお家ですね」と家を褒めた。俺は「どうも」と言いながら無意識にカバンの取っ手を力一杯握りしめた。


「さすがは北斉市の名士、大隈家だ。典医の末裔に相応しいお家ですね」


「あなた、なんですか? 俺にセールスしても何も買いませんよ」


「ご安心ください。私はセールスマンじゃありません。ジャーナリストです」


 男性は自己紹介して俺の警戒を解こうとした。だがジャーナリストと聞いて俺は安心するどころか一層警戒心を募らせた。


「ジャーナリストですって? 俺に話せることは何もありません。突然家に押しかけるなんて非常識ですよ。帰ってください!」


「そうやって誤魔化すよう親御さんに教育されたんですか? それとも弁護士さん?」


 発作的に俺は声を荒げて追い返そうとした。年長者に失礼な態度の自覚はあるが、どうしても抑えきれなかった。

 対してジャーナリストを名乗る男性は余裕綽々に図星をついてきた。


「国有地の件、証拠不十分で不起訴になりましたね。無事に悪事を隠し通せて良かったですね」


「またその話ですか。悪事も何も、祖父は悪いことなんかしてません。あなた達マスコミがありもしない噂で世間を焚き付けたんでしょう!?」


 男性の言う『国有地の件』とは爺さんが新病院の用地を国から安く払い下げてもらうため政治家に金銭を渡した疑惑のこと。メディアでは『北斉市国有地払下げ問題』として騒がれた。


 その時の大隈家ときたら蜂の巣をつついたような騒ぎであった。爺さんは検察の対応に追われたし、父さんの教授選も暗礁に乗り上げた。

 だが大隈家はどうにかこの危機を乗り切った。

 爺さんは証拠不十分による不起訴という勝利をもぎ取って潔白を証明したし、父さんは教授選を勝ち抜いた。不起訴判断は三月、教授昇進は八月頃のことだ。


 もっとも、全てが丸く収まったわけじゃない。

 マスコミが有る事無い事書いたせいで俺は学校で腫れ物扱い。友達とはギクシャクし、SNSで「犯罪者の孫」と中傷され、反対に同情のそぶりを見せて金をせびるやつまで現れる始末であった。

 タイミングの悪いことに報道されたのは中学三年生の十二月で受験の追い込み時期。それなのにテレビ局の連中が毎日家の前に押しかけたせいで勉強に集中できず、結果第一志望の高校に不合格になり、深い挫折を味わった。


 大隈家の未来のための受験が、まさか大隈家の問題で不振に終わるなんて皮肉な話だ。

 いや、受験なんて些細な問題だ。この話は俺の中にもっと根深い問題を残し、今も続いている……。


「本当に無罪なんですかね? お孫さんは何かご存知なんじゃありませんか? あなたは大隈家の後継ぎですからお爺さんから真相を聞いてらっしゃるんでしょう?」


「何も知りません。祖父は潔白です」


「本当ですか? 知らぬ存ぜぬが通じるのは子供のうち。いずれ向き合わないと」


「俺には関係ありませんから」


「あ、こら、待ちなさい!」


 家に逃げ込もうと男性の脇を通り抜けようとするも肩を掴まれ阻止される。


 その時だ。俺の中にふと金曜の夜の記憶が蘇った。

 だらしなく出た腹と呼び止める声はあの夜に見聞きしたのと全く同じだ。


「あんた……金曜の夜に一色に乱暴してたオヤジだろ?」


「へ、なんのことでしょう?」


 おっさんは首を傾げるが俺には確信があった。


「とぼけるな! 金曜の夜、歓楽街で女の子と話してたろ? 挙句、腕を掴んで怖い思いさせて」


「え、ど、どうしてそれを!? あ、もしかしてあの夜、私に体当たりしたのは坊ちゃんでしたか?」


 おっさんは頬を引き攣らせる。


「いやぁ、奇遇ですなぁ。あの時のヒーローに再会するなんて。お坊ちゃんですが、案外勇敢なんですなぁ」


「俺を傷害で告発しますか?」


「いやまさか。この通り無傷ですからお気になさらず」


「俺は気にしてますがね。ジャーナリストが女の子に暴行なんて」


「へ?」


 おっさんは目を点にした。


「どうせホテルに連れ込むつもりで声かけたんでしょう? 未成年の子にそんなことするなんて犯罪ですよ!」


「ちょ、誤解ですよ! 援助交際がしたくて声をかけたんじゃありませんって」


「それじゃあなんであの子に話しかけたんですか?」


「私から話しかけたんじゃありませんよ。あの子から声をかけてきたんです」


「は? 一色から声をかけた、ですって……?」


 返ってきた答えを飲み込むのにいやに時間を要した。

 一色がこのおっさんに声をかけた?


 どうして、と尋ねようとして口をつぐむ。


 一色にはパパ活しているという噂がある。まさかと思うが一色はこのおっさんに買われようとしたんじゃないか……。


 そんな……そんなはず……。


「一体、なんの話をしたんですか?」


「それは言えませんね。ジャーナリストには守秘義務があるので」


 何が守秘義務だ。体の良い言葉で誤魔化してるだけじゃないか。

 だがこの余裕のある態度には何かある。


「なんにせよ、彼女は未成年です。変な噂が立つといけないのでもう近づかないでください」


「まるで私が悪者ですね。まぁ、お坊ちゃんが言うならお約束しましょう。その代わり……」


「土地のことで話せることはありません」


「その話は大人になって改めて聞かせてください。その際は一杯ご馳走しますよ、御曹司」


「御曹司が満足する酒なんて奢れねぇだろ」


「これは手厳しい」


 嫌味を吐き捨て門扉の取っ手に手をかける。一色とのやりとりを聞き出せないならこの場に留まる意味はない。

 だがおっさんは俺を逃さなかった。今度は実力行使ではなく、言葉で俺を引き留めた。


「ところで、あのお嬢さんとはお付き合いされてるんですか?」


「……あんたには関係ない」


 おっさんは俺と一色が恋仲と思い込んでいるらしい。否定するのも面倒なので煙に巻く。


「そうですか。それにしても不思議なご縁があるものですね。まさかあの事件の被害者と大隈家の御曹司が恋仲とは。やはり、御曹司なりの罪滅ぼしなんですか?」


 俺は門を開ける寸前で固まった。


「あの被害者ってなんです? 彼女が土地の件になんの関わりが?」


 おっさんはニタリと笑った。今の会話は俺を引き止める作戦で、俺はまんまと術中にハマったわけか。


「土地の件じゃありません。大隈病院の事件ですよ。ほら、十六年前の」


 おっさんの不敵な笑みのせいで背筋に寒気が走る。

 十六年前の大隈病院の事件。


 久しく忘れていた記憶が蘇る。


「『金田朝陽ちゃん誘拐事件』」


 十六年前の事件といえばそれしかない。


「えぇ、誘拐事件ですよ。当時、新生児だった金田朝陽ちゃんがおたくの病院から誘拐され、その後八年間も行方不明になっていた。あ、これも大隈家のタブーなんですっけ?」


 よくもまぁ的確に人の神経を逆撫でできるものだ。


「それと一色氷雨が一体なんの関係があるんです」


「一色氷雨? それが彼女の名前ですか?」


「そうです。金田朝陽ちゃんとは別人です」


 同じ人のはずがなかった。朝陽ちゃんと俺は同い年で、必然一色とも同い年。性別も同じだが、そもそも名前が違う。


 おっさんはしばし無言になり、何かを考え込む仕草をした。それからなぜか一人で納得したような表情を浮かべたのだった。


「ふふふ、そういうことですか。ならばこれ以上は立ち入らない方が良さそうですね」


「もういいですか? いい加減帰ってください」


 この時点で俺はこの人に本能的な忌避感を覚えていた。かつてマスコミにもみくちゃにされたトラウマを刺激されたせいでもあるが、それ以上に不吉さを感じさせるのだ。


「分かりました。今日はお暇しますね。あ、お父様の栄達、おめでとうございます。大学病院の教授だなんて、さすが大隈家のお婿さんですね〜。お爺様もさぞ鼻が高いでしょう。御曹司もどうか頑張ってくださいね」


「大きなお世話です!」


 俺は乱暴に門扉を閉めて家に駆け込み、部屋に入るとベッドにダイブした。


 まだ大隈家の疑惑を追ってる記者がいるなんて……。世間の記憶が薄れ、少しずつ平穏が戻ってきたと思っていただけにショックだ。

 いつもそうだ。人生の大事な場面で大隈の家名が邪魔してくる。そしてきっとこの先も節目節目で足を引っ張られるんだろう。

 俺の気持ちも、家族がやったことと無関係なことも無視して、ただ大隈天人であることにだけ注目し、好き勝手に噂を流したり詰問したりするんだ。


 もううんざりだ。こんな家になんか生まれたくなかった……。


 八つ当たりでカバンを蹴飛ばすと中からクシャリと乾いた音がした。俺は「しまった」と思いながら中を開けると、一色からもらったクッキーを取り出した。幸い割れてない。


 リボンを解くと中からバターの香ばしい香りが漂ってきた。一つ口に入れると塩の効いた甘い風味が広がり心を穏やかにしてくれた。


「ありがとう。美味しいよ」


 できればこの感想を直接伝えたかったな。今度廊下ですれ違った時に声かけても迷惑じゃないかな?


 それにしても、どうしてあのおっさんは一色をよりによって金田朝陽ちゃんと間違えたんだろうか。

 あの誘拐事件は拐われた時も、八年越しに解決した時もかなり話題になった。が、被害者に配慮して朝陽ちゃんの顔写真は出なかった。

 つまりあの人が朝陽ちゃんの顔を知るわけがないのだ。それなのになぜか一色と朝陽ちゃんを混同した。


 大隈家のタブーをつついた嫌がらせとも取れる。それにしては随分ホラがすぎる。荒唐無稽もいいところだ。

 そう思ってもなぜかあのおっさんが意識の中から消え失せない。


 終わったはずの誘拐事件、父の出世のタイミングで現れたジャーナリスト、一色のパパ活疑惑。


 俺の平穏を乱す大きなうねりの気配。その不安から逃れたく、俺はクッキーを封していたリボンを強く握りしめた。


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