備品室の前まで来たが、中からピアノの音は聞こえない。それどころかドアに手をかけて横に引くが開かない。
当然か。金曜日の夕方に施錠したのは他ならぬ俺だ。
俺は生徒会室から拝借した合鍵で中に入った。いつも思うが、この部屋は埃っぽい空気の塊が押し込められてる。人の残り香がなく、時が止まってるみたいだ。
その中で鍵盤を覆う蓋だけは美しい光沢を放っている。ここでピアノを弾いていた誰かさんが埃を拭き取ったのだ。
蓋を開けると象牙のごとき白亜の鍵盤が姿を現した。
適当な鍵を押し込む。ポーンと耳障りの良い音が響く。
ピアノに触るなんて小学生の音楽の授業以来だ。今なった音はドかな、それともミかな?
「ド、ド、ソ、ソ、ラ、ラ、ソ……っと」
右手の人差し指だけで弾いたのは『きらきら星』。音楽経験のない俺の唯一の持ち曲である。
拙い指遣いで氷姫の真似をしてみたが、やはりあんなに上手には弾けない。だが案外楽しいものだ。
幼稚園、小学校、中学校と勉強ばかりでそれ以外のことに触れた記憶がない。今思うとすごくもったいない。
あんなに上手に弾けたら、もっと楽しいんだろうな……。
旋律を奏でる氷姫の夢心地な表情を思い出した、その時だ。
「今の、きらきら星?」
「えっ?」
不意に横から声をかけられる。
同時にビュウッと廊下から一陣の風が吹き込む。その風はどこか懐かしいみかんの甘酸っぱい匂いを孕んでいて、カーテンを窓の外に放り出し、バタバタと音を立てた。
振り向いた先にあった顔を見て、口から心臓が飛び出しそうになった。
入り口に立っていたのは氷姫だった。
氷姫は風に弄ばれて乱れた髪を耳にかけて整えた。細い白魚のような指と露出した耳は女性らしい繊細さを象徴しているようでつい目を惹きつけられる。
髪を払う時の氷姫は煩わしそうでアンニュイだが、どこか絵になる表情だ。
「あなたもピアノ弾くの?」
氷姫は断りもなく備品室に入る。今朝告白を断った時と変わらず涼やかな表情。それに気づいた途端、俺は冷や水を浴びされらた気がして無意識に背筋に力を込めた。
トントンと規則正しい足音を鳴らしながら氷姫は俺の真横に立ち、鍵盤を指先で撫でた。
ふと、さっきと同じ甘酸っぱいみかんの香りが鼻を掠めた。香水でもつけているのかな? すごくいい匂いだ。その匂いが氷姫の存在を一秒ごとに意識させた。
「い、いや、全く。弾けるのはきらきら星だけ。って、きらきら星なんて弾けても自慢にならないか」
「そう? 素敵な曲だと思うわよ。私も弾けるの」
自分の拙い演奏を聞かれたのが照れ臭くて、自嘲気味に答えた。
するとおもむろに氷姫は椅子に座って鍵盤に指を置き、奏で始める。
曲は同じくきらきら星。だが同じとは思えない旋律だ。手つきは軽やかでリズムは規律的。人差し指だけでなく薬指と小指でも器用に鍵を押さえて音が多彩だ。
「おぉ、上手いな」
「これに低音を加えると……」
「あ、曲っぽくなった」
休んでいた左手が演奏に加わる。重い低音が重なって旋律に厚みが出た。
右手でメロディを、左手でベースを、淀みのないリズムで奏でる。
同じきらきら星でも和音と低音が入れば別の曲のよう。俺の演奏がただの星なら氷姫のは星と星を繋げた星座のように形を持っている。
ふと、氷姫が手を休めてこちらを見上げて笑った。その表情は得意げで、利発な少女を思わせる無邪気さを孕んでいる。
氷姫が笑った。しかも俺の顔を見て。だが瞬きする間に彼女は真剣な顔でピアノに向き合ってしまった。
まるで流れ星のごとき一瞬の輝き。
笑わないと噂の氷姫の笑顔だなんて、いいもの見たな。
そんなじんわりした喜びを抱いた次の瞬間、俺の視界は満天の星々に支配された――!
氷姫の手が、指が走り出し、テンポが急に早まる。
変化はテンポだけではない。曲を作る音の厚みが増している。
惑星の単音――
星座のコード――
その間を埋める名も無き星々のアルペジオ――
流星のごとき氷姫の微笑み――
一つ、また一つと音が備品室に響き、曲が星空を作っていく。
それはまさに星が降ってきそうな夜空。昔、長崎のばあちゃんと見上げた満天の星空を俺は思い出していた。
やがて曲が終わる。東の空が白むように響いていた音が消え失せ、静寂が訪れる。氷姫はふぅっと息を吐き、両手を膝の上にそっと乗せた。
「すごい……すごいよ、氷姫様!」
俺は興奮を抑えられず力いっぱい拍手した。朝を迎えて騒ぎ出すスズメのように。
「今のもきらきら星!?」
「『きらきら星変奏曲』。モーツァルトの作曲よ」
「すごっ! モーツァルト弾けるとか、プロになれるんじゃないの!?」
「大袈裟ね。練習すればこれくらい誰でも弾けるわ」
氷姫は口をへの字にして謙遜する。でも心なしか目尻が下がってる気がするので、褒められるのは満更じゃないのかも。
「ところで、今日もピアノを弾きに来たのか?」
氷姫が備品室を訪ねる理由はそれしかない。だが、
「いいえ、あなたを探してたの」
予想外過ぎる答えが返ってきた。
「俺を?」
「えぇ。生徒会室に行ったらここに居るって聞いたから」
「そうなのか。実は俺も君を探してたんだが、すれ違いになったんだな。それで、俺に何の用事だ?」
「これを渡そうと思って」
氷姫は椅子のそばに置いた鞄を取り、中に手を入れる。差し出したるは……
「クッキー?」
透明な袋とリボンでラッピングされたクッキーだった。
「近くのお菓子屋さんで買ったものだけど」
「くれるの?」
「いらないなら無理に受け取らなくていいわ」
「いや、ありがたく受け取るよ」
くしゃっとビニールが音を立てて俺の手のひらに収まる。その時、少しだけ氷姫の指が俺の手に触れた。井原と同じ女の子なのに妙に意識してしまった。
「でもどうして俺に?」
まさか全男子注目の氷姫から贈り物をされるとは。しかもこんなに可愛らしいお菓子を。予想外に予想外が重なって嬉しさより戸惑いが勝った。
そんな俺に氷姫はクールな表情を崩さず淡々と理由を話した。
「金曜日の夜、助けてくれたでしょう? しかも腕を怪我させてしまったわ」
「もしかしてお礼?」
こくり、と深く頷く。やや緊張気味の表情から、俺の怪我を案じてくれていたのが伝わって嬉しかった。
「お礼なんていいのに。大したことしてないし、怪我も軽かったから」
「そうはいかないわ。私のせいで怪我させたんだもの。お見舞いくらい当然よ」
「結構優しいんだな」
「優しいのかしら……?」
氷姫の目が大きく見開かれる。
こんな反応するんだな。
あだ名通り、何があっても常に凍りついたような固い顔をしてるものだとばかり思っていたが、普通の女の子らしいところもあるようだ。
「そ、それじゃあ用は済んだから帰るわね」
誤魔化すように咳払いし、踵を返す氷姫。だが俺は慌てて彼女を引き止める。振り返った氷姫は不思議そうに首を傾げた。
「実は俺も、氷姫様に渡すものがあるんだ」
そう言って俺もカバンから袋を取って差し出す。氷姫はますます不思議そうに首を傾げ、おずおずと受け取る。「開けていい?」と確認を取ってから包みを開いた。
中から出てきたのは白いレースのハンカチ。ようやく渡せた。
「これを私に?」
「うん。この前、手当してもらった時に俺の血で汚しちゃったろ? 多分落ちないだろうから弁償させてくれ」
「気にしないでいいのに」
「そうはいかない。俺のせいでハンカチをダメにしたんだから責任取らないと」
氷姫はしばしハンカチを見つめ、かと思いきや少し顰めた顔で俺の目をまっすぐ見据えた。
ようやく目的を果たせてスッキリしたのも束の間、妙な緊張に包まれる。
もしかして気に入らないのかな?
「えっと……趣味じゃなかったら無理に受け取らなくていいけど」
「いいえ、せっかくだから頂くわ。すごく、綺麗だもの」
居た堪れず辞退を申し入れたが、意外にも気に入ったらしい。今度は淑女のようにしっとりと笑ってくれた。
その顔も綺麗でつい見惚れてしまう。
しかし何だったんだろう、今の見透かそうとするような視線は。
「氷姫様のお眼鏡に叶ったようで良かったよ」
「その氷姫っていうのやめてくれないかしら?」
ムッと唇を尖らせる氷姫。
「あだ名で呼ばれるのイヤか?」
「周りが勝手に呼んでるだけよ。やめさせるのが面倒だから放置してるけど、面と向かって言われるのは面白くないわ」
木枯らしみたいな乾いた口調からは本気で不快に思ってることが分かった。
まぁ、さもありなんだ。俺だって『御曹司』と呼ばれるのはイヤだし。
「それは失礼した。と言っても君の名前知らないな。なんていうんだ?」
そういえばまだお互いに名乗ってなかった。氷姫のことも知ってるのはあだ名だけで本名は知らない。
俺が尋ねると氷姫は一瞬、逡巡するように目を細めて俯いた。だが真っ直ぐ俺の目を見て名乗った。
「一色、氷雨」
「一色氷雨、か。何だか綺麗な名前だな」
氷混じりの雨が奏でる音楽が聞こえた気がして、そんな感想が漏れ出した。
「綺麗……。そうね、大切な名前なの」
そう自らの心持ちを漏らす氷姫――もとい一色氷雨はどこか寂しげであった。
「あなたの名前は?」
「ん、俺か? 俺は……」
名乗ろうとして一瞬躊躇う。『大隈』の名前にはイヤでも余計なものがついて回る。なので多少世間知のある人間が聞くと(良くも悪くも)一目置かれる。俺はその時に生まれる微妙な空気のせいで自己紹介が苦手だ。
だが向こうが名乗ってこちらが黙秘するのは無礼だ。
「大隈天人。よろしく」
「生徒会の大隈くんね、よろしく」
と、返ってきたのは存外淡白な反応だった。しかも大隈病院よりも生徒会と紐づけられるなんて、珍しいこともあるものだ。
「どうかしたの?」
「いや、何でもないよ」
皆が皆、色眼鏡で見るわけない。少し考えすぎだった。
そう思ってもやっぱり嬉しい。
俺を一人の人間として見てくれる人もいるんだ。
「それにしても、困ったわ」
何やら真剣な表情で考え込む一色。悩んでるところ悪いが、下顎に手を当てて唇を尖らせる顔もなかなか人間味があって可愛らしい。
「何が困るんだ?」
「貸し借りが清算されない」
「は?」
「そのクッキー、この前助けてもらった借りを返すつもりだったの。それでプラマイゼロになるはずなのに、ハンカチをもらったらゼロにならない」
「そんなこと気にしてるのか? 銀行じゃあるまいし、貸し借りなんて気にしなくていいぞ」
「借りっぱなしにしない主義なの。借りたまんまだと気持ち悪いでしょ?」
「律儀だな」
氷姫こと一色氷雨は案外お人好しな性格かもしれない。
「そう言う訳だから、ほしいものや私にしてほしいことはないかしら?」
「ほしいもの……してほしいことか……うーん、ないな」
パッと考えたが思い浮かばない。目下欲しいものはないし、あっても自分で買う。『してほしいこと』というのもこの場合は当然『常識の範囲内で』という意味だ。「交際しろ」とか「身体を触らせろ」なんてのは絶対ダメ。
「本当に何もないの? 私にしてほしいこと」
「あ、一つあった」
「何?」
「夜遅い外出は控えてほしい」
ポカン、と小さな口を開ける一色。そんなに変なこと言ったかな?
「そんなことでいいの?」
「この前みたいに危ない目に遭ってほしくないからな」
生徒会役員として生徒が事件に巻き込まれるのは胸が痛む。だから一色が危険を避けるように心掛けてくれれば俺も安心できるって寸法だ。
一色は薄く頬を染めながら、「ふふっ」と小さく吹き出した。
「あなたの方こそ優しいのね。分かった、約束する」
最後に一色はほっぺたを緩めた優しい笑顔で約束して去っていった。
一色氷雨。氷姫と呼ばれるだけあって少し変わった子だ。でもイヤな感じはしない。
ツンとした態度を取ったと思えば甲斐甲斐しく手当てしてくれた。男をにべもなく振ったと思えば俺にはクッキーをくれたし、得意げな顔でピアノを弾いてくれた。なかなかどうして、親切で面白みのある女の子じゃないか。
それに他の連中と違い、俺を色眼鏡で見てない気がする。ルイのように距離感を測ってくれる人はたまにいるが、それとは少し違う。
「不思議な子だな……」
胸の奥でトクンと何かが跳ねる感じがする。なんでこんな気持ちになるのか分からないけど、いなくなってもしばらく一色のことを一人で考えていた。