放課後、俺は下駄箱で氷姫を待っていた。ここで氷姫を捕まえ、ハンカチを渡すつもりだ。
放課後の下駄箱ならあまり人目にもつかないので噂になることもないだろう。断られるリスクもあるが、その時は引き下がれば良いだけのこと。
下駄箱に生徒達が続々とやってきた。その中に氷姫の顔はない。
待っている間もパパ活疑惑について考えてしまう。
人間誰しも裏の顔を持つもの。だから氷姫にも裏の顔があっても不思議じゃない。
……と、以前の俺なら噂を信じてただろう。だが今は疑っている。
氷姫は男子に素っ気ないことで有名だ。その理由はよほどの男嫌いか、さもなくば理想が高いと見做されている。そんな孤高の氷姫がお金欲しさで男に媚びる姿は想像できない。
それに俺の傷を手当してくれた優しい心の持ち主が見知らぬ男に金で買われるのがやはり信じられないのだ。
もっとも、彼女の名前すら知らない俺にはどうすることもできない。生徒会役員としては生徒の非行は見過ごせないが、噂の域をでないのでは注意のしようがない。中傷じみた噂であっても払拭は不可能だ。
そうやって疑念と無力感を胸に抱えていたその時だ。
「大隈くん?」
不意に声をかけられ顔を上げる。声の方を見ると生徒の集団が目に入った。女の子と彼女を取り巻く男達のグループだ。
「やっぱり大隈くんだ! 久しぶり!」
満面の笑みを浮かべた女の子は取り巻きを置き去りにして俺の目の前まで駆け寄ってくる。栗色の髪をカールさせた、可愛らしい見た目のこの子に見覚えがあった。
「えっと……井原だっけ?」
「そう、覚えてくれてたのね!」
井原は女の子らしい小さな手で俺の両手を握り、ハイテンションでブンブン振り回した。
彼女は井原。下の名前は知らない。クラスは別だったが同じ中学出身で、蘭陵高校に進学が決まった時に「仲良くしようね!」と今みたいな調子で自己紹介してくれた。しかし当時の俺は第一志望にスベって虚無状態だったので印象がない。高校では別のクラスだし、春先は不登校だったので顔を合わせず久しい。
「本当に久しぶり! 元気してた?」
「えっと、おかげさまで」
「良かった。クラスが違うからなかなか会えないもんね。ほら、私って気にしいでしょ? 大隈くんがどうしてるか心配してたの」
「それは……ご心配をおかけしました」
おかしいな。俺って心配されるほどの友達だっけ? なんならほぼ初対面ですらある。
だからニコニコ笑顔と甘ったるい声で再会を喜ぶ井原のテンションについていけない。
「水臭いわね。同中だし、困った時はお互い様でしょ? 遅くなったけど、これからは仲良くしようね!」
くりくりした目と丸みのある可愛らしい顔でこちらを見つめながらぎゅーっと手に力を込める井原。その後ろで放置されてる男子達が睨みつけてくる。
たった今思い出したが、井原は恵まれた容姿を武器に男を手玉に取る小悪魔ちゃんだ。おかげでいつも男子に囲まれている。一方、女子とはいつも揉めているトラブルメーカーと聞いた覚えがある。
差し詰めあの男どもは井原の親衛隊か。男たらしは高校でも健在らしい。
「ところで大隈くん、お父さんとお母さんが年末年始に日本にいないって聞いたんだけど本当?」
「え、なんで知ってるの!?」
父さんは十二月から仕事でしばらくフランスで過ごす。母さんもそれについていく予定だ。その間俺は日本でプチ一人暮らしをする。
「私のお母さんは大学病院のナースなの」
「あ、そうなんだ」
それで井原の耳にも伝わったのか。でもそれが井原となんの関係があるのかな。
俺がそんな疑問を抱くと、井原はなぜかにんまり妖艶な笑顔を浮かべ、こんな提案をしてきた。
「ご両親がいないってことは、大隈くんはお家に一人きりなのよね? 男の子だと洗濯も料理もできないだろうし、クリスマスとお正月を一人で過ごすのも味気ないでしょ? だからさ、私が家事しに行ってあげようか?」
「…………はい?」
なぜそうなるの?
「なんで井原がうちに?」
「遠慮しないでいいよ! 私、こう見えて家事得意だし、結構気が利く方なの。大隈くんは特進クラスだし、お家を継ぐために医学部の受験勉強もあるから、そっちに専念できるようお手伝いしてあげる。私も花嫁修行と思えば身が入るしね!」
勝手に話を進める井原。
井原は可愛いしスタイルも良く、『彼女にしたい女の子ランキング』でトップランカー(ルイ調べ)。そんな女の子から熱烈なアプローチをかけられたら大抵の男は舞い上がってしまうだろう。
俺としても面倒な家事を任せられるなら渡りに船だ。
それなのに俺の心はちっとも揺らがない。むしろ冷めていた。
彼女の魂胆が透けて見える。要するに金持ちに取り入りたいのだ。
どいつもこいつも大隈大隈って、好きだな、うちの名前。しかも二言目には御曹司だの跡継ぎだのと持ち上げてくる。
母さんもそうだが、学校の連中も俺を跡継ぎとしてしか見ない。少しのことなら我慢できるが、こんな露骨に媚びられると嫌気が差す。しかもそういう奴ほど俺が苦しい状況に置かれると真っ先に離れていく。
経験上、それが分かってるから俺は内心辟易しながらも丁重に断った。
「ありがとう。でも心配いらないよ。最初から一人暮らしの練習のつもりだから」
「そうなの? 本当に遠慮しなくていいのに」
遠慮も何も、最初からお呼びじゃない。大体俺達ってそこまで親しくないよね?
「それじゃあ連絡先だけでも交換しよ! 同中なんだからもっといっぱいお話ししようよ!」
「今日スマホ忘れたからまた今度ね」
そんな建前で断ったのは親同士が同じ職場なので波風立てなくなかったから。本心では一刻も早くこの人から、この場所から離れたい。
周囲には野次馬が集まっていた。皆が使う下駄箱で女の子と手を繋いでいれば好奇の目に晒されるのは当然だ。
そして野次馬の中からこんな囁き声が聞こえてきた。
「(あれって大隈の御曹司じゃね?)」
「(だな。皆の前で女の子引っ掛けるなんてよくやるぜ)」
「(さすが上級国民様だ)」
「(犯罪者の孫のくせに。金持ちなら何やってもいいのかよ)」
どこからともなく聞こえてくるやっかみの声。しかも俺から粉かけたみたいに。聞こえてないとでも思っているのだろうか?
こんなに悪目立ちしては氷姫が来ても声をかけられない。それに気持ちがささくれ立ってお礼どころじゃなくなった。
人混みに紛れて氷姫にこっそり話しかけるはずが裏目に出た。これじゃあ計画が台無しだ。
「生徒会の仕事思い出したからもう行くね」
「あ、待ってよ、大隈くーん!」
井原の手を解いて踵を返す。
ため息を溢しながら廊下を歩いていると、ふと窓から特別教室棟最上階の角部屋――備品室の窓が目についた。
そして氷姫がピアノを弾く姿が脳裏をよぎる。俺はピアノの音色が聞こえた気がして、誘われるように方向転換した。