氷姫を助けた金曜日から週末を跨いだ月曜日の朝。
「母さん、おはよう」
「おはよう、天人。あら、今日は夏服なの?」
朝食の支度をしていた母さんは、俺が半袖シャツなのを見て目を丸くした。
「うん。長袖のシャツは洗濯中だから今日はこれで行く」
「そう。最近曇り空だから乾かないものね。一着はこの前ダメになったし」
なぜか最後の一言をことさら強調する母さん。俺は無視して朝食にありついた。ご飯と味噌汁、漬物に納豆、そして鯖の塩焼き。絵に描いた日本の朝食である。
「ねぇ、天人。いい機会だから言っとくけど、ライブハウスのアルバイトはもうやめたら? お母さんね、天人が血だらけで帰ってきたからひっくり返りそうになったわよ」
その話題に触れてほしくないから無視したのに、母さんはずけずけとそんな忠告をした。
「血だらけなんて大袈裟な。シャツが汚れただけだろ」
「でも怪我したじゃない」
「転んだ時にガラスで切ったんだよ。アルバイトは関係ない」
「でもそれで神経痛めて指が動かなくなったらどうするの? 大隈家の跡取りがメスの握れない身体になったら困るでしょ?」
今朝の母さんはなぜかピリピリしている。
母さんの実家の大隈家は江戸時代から医師を
そんな家系に生まれた俺は生まれる前から医者になって跡を継ぐと決まっている。
もっとも、俺が高校受験に失敗してからは腫れ物を扱うみたいに『跡取り』を口にしなくなったのだが。
「メスが握れないなら内科医か病理医にでもなればいいんじゃない? 放射線って道もあるな」
「そういう問題じゃないの。いかがわしいお店のバイトなんかやめて、もっと地に足のついた高校生活を送ってほしいの。大体、内科医になるにしても外科の研修だってあるのよ? ねぇ、お父さん?」
母さんは父さんに水を向けた。父さんはさっきから黙々と納豆を混ぜていたが、話を振られるとボソッと答えた。
「まぁ、研修医もメスを握ることはあるな……」
「ほら、お父さんもこう言ってるでしょ? これを機会にアルバイトはやめて、勉強に専念したら?」
「三年生になるまで続けて良いって約束じゃん」
母さんはさも息子想いな顔で提案する。だが約束を破られそうになった俺は胃が無性にムカムカして、つい強い口調で反発した。
俺がミルキーウェイでバイトを始めたのは今年の四月、高校に入学してすぐのことだ。当時の俺は最難関の私立校にスベった挫折感から不登校になっていた。
しかしとあるミュージシャンとの出会いが俺を挫折から救ってくれた。以来、拠点のライブハウスに通うようになり、好きが高じてバイトするようになったのだ。
バイトを認めてもらうのは容易ではなかった。母さんは俺が受験に滑った上、不登校になって気を揉んでたし、ライブハウスに偏見を持っていた。
婿養子の父さんは見ての通り尻に敷かれているので賛成も反対もしなかった。
結局、学校に通い、上位の成績を維持するのを条件に三年生になるまでの間は許された。
「一年生の今から予備校に通って受験対策しないと間に合わないかもよ? 医学部教授の息子が浪人なんて恥ずかしいでしょ?」
母さんは一人で勝手にヒートアップし、挙句父さんの肩書きまで出してくる。
父さんの勤め先は国立北斉大学附属病院。二ヶ月前に昇進し、晴れて教授となった。
医学部の教授というのは単なる大学の序列に留まらず、医療の現場に絶大な影響力を持つ権力者だ。
父さんは権力者なんて柄じゃないが、当主の爺さんはなんとしても大隈家から教授を出したがっていて、陰に日向に後押しし、ついに悲願が達成された。そのため、あとは俺が医者になれば大隈家は安泰と爺さんは考えている。
母さんが馬鹿に焦ってるのは昨日、爺さんのところに顔を出して発破をかけられたからだろう。
母親の使命感か、世間への見栄か知らないが、なんにせよバイトを辞めるつもりはこれっぽっちもない。本心では医師になりたいとも思ってない。が、それを言うとうるさいので絶対秘密だ。
「学校の成績は上位をキープしてるから問題無いでしょ?」
「そうだけど、医学部を受けるなら学校の成績が良いくらいじゃダメよ」
「模擬試験の結果、この前喜んでたじゃん。言ってることが前と逆なんですけど」
「そうだけど……ねぇ、お父さんはどう思う?」
また父さんに水を向ける。困ったらいつもこうだ。
父さんはずずっと味噌汁を啜り、
「自分で成績を上げられるならバイトでもなんでもすればいい」
とどっちつかずな返答をした。
自分は塾に通わず東都大学医学部に入ったから息子もそれができると信じているのか、あるいは高校受験さえ満足にパスしない俺に関心がないのか、果たして……。
「それじゃあ現状維持ってことで」
俺は考えるのをやめて汁かけ飯にしたご飯を一気に口の中に流し込み、「ごひほうはん」と言って食卓を離れた。
一刻も早く家から抜け出したい。
そんな心持ちで少し早めに玄関を飛び出した。だが、
「やべ、忘れ物だ」
ドアを出たところでふと思い出し、部屋に駆け込んだ。そして机の上に安置していたリボン付きのビニール袋をそっとカバンに入れた。
それから勉強机から視線を感じ、目を向ける。
視線の先にあるのは写真立て。写っているのは幼い頃の俺と死んじゃった父方のおばあちゃん。二人とも顔をシワクチャにして笑っている。
「行ってくるね、おばあちゃん」
食卓での会話のせいで張り詰めていた心が一気に緩んだのだった。