蘭陵高校には『備品室』と呼ばれる部屋がある。
特別教室棟四階の角という非常にアクセスの悪いその部屋は、学校で出た不用品の一時置き場で生徒の立ち入りは原則禁止である。しかし備品管理を任されている生徒会の役員は別。
「ふひー、やっと着いた。本当に不便な部屋だよな」
生徒会の会計の俺は職員室で押し付けられた黒板消しクリーナー二台を両脇に抱えて階段を上っていた。十月になると残暑は薄れるが、最上階までのぼると暑くなる。
特別教室棟最上階の部屋はどこの部活も使っておらず、いつも静かだ。
だがこの日は違った。ポロロンと耳心地の良い音色がどこからともなく聞こえてきた。
「ピアノ……? 変だな」
音楽室は下のフロアなのでピアノの音なんか聞こえるはずがない。聞き間違いかと思ったが、ピアノの音は奥に進むにつれ大きくなる。
ピアノが奏でるのはゆったりと落ち着きのある旋律。聞き覚えはあるが名前は知らない。
「そういえば備品室にピアノがあったな。でも鍵かかっててるのに……」
俺は背筋に冷たいものを感じた。
「もしかして幽霊?」
『夜な夜なひとりでにショパンを奏でる呪いのピアノ』
小学校で聞いた怪談を思い出し、「まさかな」と苦笑する。
さすがにオバケを信じる歳じゃない。
きっと誰かが弾いてるに違いない。
「いったい誰だ……よ……」
備品室に到着すると、ちょっとだけ怖がりながら戸を開いた。
そして中の光景を見て息を呑んだ。
目に入ったのは艶やかな黒いコンパクトピアノと、そのピアノと同じくらい黒いセミロングの髪をした女の子。しかし髪とは裏腹に肌は雪のように白く、スッと通った鼻筋の横顔は作り物じみている。
その表情は自らが奏でる優しい旋律に酔いしれるように優雅。対して白魚のような指は女の子とは別の生き物のように鍵盤の上を忙しなく動き回り幻想的な光景だった。
俺が戸を開けても女の子は一瞥もくれず鍵盤を叩き続けた。静寂の夜道を風と虫の鳴き声を聞きながら歩く情景が浮かぶ、優しい旋律。
やがて演奏が終わり、こだましていた音色が薄れていく。女の子は小さく息を吐き、満足げに鍵盤に微笑みを向けた。
その横顔を綺麗だと思った。完璧すぎるくらい整った面貌に生じた綻びはどこか愛嬌があって、いつまでも見ていたくなる。
「おぉ……」
そのせいでつい口から驚嘆を漏らした。それに気づき、ようやく彼女が振り向いた。
「何?」
一瞬驚いたがすぐに顔が強張る。そして冷たくて棘のある、ツンとした声。突然現れた俺は完全に邪魔者扱い。まるで勝手に部屋に入ってきた親に反抗する小娘だ。
優美な演奏と微笑みから一転、冷たい態度を取る変貌ぶりに俺は混乱した。
そして「何かを言わないと」と迷った末、
「ピアノ、上手だね。今のなんて曲?」
とベタな賛辞と質問が口をついた。
「ショパンのノクターン」
「へぇ、有名な曲だよね。俺でも聞いたことあるし」
情緒的な旋律はテレビCMなんかで何度も聞いた覚えがあった。だがいかんせん曲名が出てこなかったのでスッキリした。
「なんでこんなところで弾いてるの?」
「別に。ピアノがあったからちょっと弾いてただけ」
「ふぅん、そうなんだ。でもここ、生徒は立入禁止なんだけど」
「あなたこそ入ってるじゃない」
ムッとした顔で反論される。
「俺は先生に言われて来たんだよ。それに、俺は生徒会役員だから備品整理のために入ってもいいんだ」
「それは悪いことをしたわね」
口ではそういうものの、女の子に悪びれた様子はない。鍵盤の蓋をそっと閉じて椅子から立ち上がると、カバンを持ってそそくさと去っていった。すれ違う間際、なぜか冷気を孕んだ目で睨んでいった。
「なんだよ。俺が悪いみたいに……」
全くもって理不尽である。立入禁止の規則を破ったのは向こうで、俺は注意しただけ。どう見ても悪いのは向こうなのに、なぜあんなツンとした態度を取られないといけないのか? 頭を下げろとは言わないが、少しくらい悪びれるものじゃないか。その方が可愛げもあるのに。
「さすがは音に聞く【氷姫】だ」
蘭陵高校の氷姫の噂は俺でも知っている。俺と同じ1年生で、入学当初から男子から注目される学校屈指の美少女。しかし数多の男子から言い寄られてもなびかず、凍てつく視線で袖にしてきた高嶺の花。
それが彼女であった。
そしてこれが、俺とあの子の出会いだった。
*
その日の夜、俺は金曜と土曜の夜にバイトしているライブハウス『ミルキーウェイ』から帰宅するところだった。
「お先に失礼しまーす」
時刻は22時手前で高校生が出歩くには遅い時間。良い子は寝る時間だが、大人の街は怪しく活気づく。
大声を出すイカついお兄さん、千鳥足のおじさん、円陣組んで歌を歌うお姉様達。
往来であることなどお構いなしに騒ぐ大人は正直みっともない。
だが俺はこの空気が嫌いじゃない。むしろ好きだ。俺の周りにはいないタイプの大人ばかりで面白い。
だが中には見るに堪えない光景もある。欲望渦巻く歓楽街ではトラブルは日常茶飯事だ。
「やめてください!」
「いいじゃないか、ちょっとくらい」
今も丁度、路地を挟んだ反対側の歩道で男女の言い合う声が聞こえた。
ナンパか、客引きか、それともスカウトか。なんであれ、関わると面倒なので素通りしよう。
「本当にやめて! もう私に……付き纏わないで!」
だが女性の声があまりに悲痛なのでつい足を止め、目を向けてしまった。
トラブってるのは四十過ぎくらいの腹の出たおっさんと、まだ年端もいかない女の子。
「え……?」
女の子の顔を見て、足が凍りつく。
「氷姫……だよな」
車のライトに一瞬照らされた顔にピンと来た。白っぽいワンピース姿なので別人と思ったが、よく観察すると……間違いない。あの顔は夕刻、備品室でピアノを弾いていた氷姫だ。
どうしてあの子がこんな夜遅くに歓楽街に?
しかもあんな年上の男とトラブルになっているなんて。
いや、それより助けないと。
だが頭に反して身体は動かない。自慢じゃないが喧嘩なんてしたことない。
偶然警官が通りかからないか、誰か別の人が助けてくれないかと期待したが望みは薄い。
「つれないなぁ。少し、ほんの少しでいいからさ」
俺が棒立ちになっているとおっさんが氷姫の白くて細い腕を鷲掴みにした。氷姫は必死に腕を振り払おうとするが逃れられない。
「いや! やめて! お願いだから……」
その悲痛な叫びを耳にし、俺はとうとう腹を括った。
「やめろ!」
「うわぁ!?」
怒鳴りながらおっさんに力いっぱいタックルをかます。その拍子におっさんは掴んでいた腕を離し、地面にすっ転んだ。
「大丈夫か、氷姫!?」
「あなたは……?」
「説明は後! 逃げよう!」
呆気に取られる氷姫。しかし説明している暇はない。おっさんは覚束ない足で立ち上がり、俺をギロリと睨みつけた。
俺は先導して咄嗟に元の道を走って引き返した。背後からはローファーをカツカツ鳴らしながら氷姫がついてくる。
「あ、こら、待ちなさい!」
おっさんが怒鳴りながら追いかけてくる。俺達は角を曲がったり細い路地に入ったりするがおっさんはしぶとくついてきた。腹が出てるくせに体力あるな。
「どこまで逃げるの!?」
「もうすぐだから」
氷姫は早くも限界を見せている。俺とて運動部じゃないのでいつまでも走れない。だから安全な場所に隠れるのだ。
逃げ込んだ先は先程までいたライブハウス『ミルキーウェイ』。地下に続く階段を駆け降りてドアを開き、氷姫を誘導すると俺も中に入った。
防音ドアを閉めて中から鍵をかける。まさか俺達が地下にあるこの店に逃げ込んだとは思うまい。案の定、おっさんは追ってこなかった。
「はぁ、怖かったー。ここまで来れば大丈夫だろ」
ドアに寄りかかって床にへたり込む。安堵とともに全身の力が抜けてしまった。氷姫も膝に手をついて荒くなった息を整えている。
「助けてくれてありがとう。あなた、私と同じ学校よね?」
カッターシャツの胸元の刺繍を指差しながら尋ねてくる。どうやら俺の顔を覚えてないらしい。
「夕方、備品室で会ったろ? ピアノの上手な氷姫様」
「もしかしてあの時の? 確か生徒会の……」
ハッとする氷姫。その時だ。
「おい、誰かいるのか!?」
店の奥から張り詰めた声で女性が威嚇してきた。
「店長、俺です。天人です」
「なんだ、天人か。忘れ物か? ていうかそれ誰?」
金髪にピアス、吊り目がちでちょっといかつい見た目の店長は刺股の代わりにモップを構えていたが、俺の顔を認めるや安堵した。それから胡乱げな視線を氷姫に向けた。
「同じ学校の人です。表で変なおっさんに絡まれてたから咄嗟に……」
「助けた、と。へぇ、案外度胸あるじゃん」
なぜかニヤニヤ顔で褒められる。意味深な顔はともかく、いつもぶっきらぼうな店長に褒められるのは悪い気がしない。
「それはそうと、天人。お前、腕怪我してるぞ」
「げ、本当だ。どこかで切ったのかな。いてて……」
確かに左の二の腕を怪我していた。狭い路地裏に入った時に何かで切ったのか、カッターシャツが裂けて赤い血で染まっていた。
「待ってろ。奥から救急箱持ってくる」
「すんません」
「良いって。お嬢ちゃん、そいつのこと頼む」
「は、はい」
店長が事務所にすっ飛んでいく。シンと静まり返ったライブホールに面識のない氷姫と二人きりにされてなんだか居た堪れない気分だ。
「服、脱いで」
「ほへ?」
バーカウンターの丸椅子にかけて待っていると不意に氷姫が命じてきた。
「手当するのにシャツ着てたら邪魔でしょ。だから脱いで」
「あぁ、そういうことね」
納得してTシャツ一枚になる。女の子から「脱げ」なんて言われてドギマギしたが、この状況でそんな展開はないよな。
「止血するね。痛むけど我慢して」
「汚れるぞ」
「良いから」
そう言って氷姫はハンカチで傷口を押さえた。真っ白なレースだがまったく躊躇いがない。表情の薄い顔から心境は推し測れないが、その優しさは嬉しかった。
「ほら、救急箱。ガーゼとか包帯とか、好きに使っていいぞ」
「ありがとうございます。お借りします」
氷姫は救急箱から道具を取り出すと応急処置を始めた。不慣れだが丁寧に処置する表情は真剣そのもので、シャープな顎のラインと長いまつ毛、フェミニンな服装のせいで年上のお姉さんにお世話してもらってるみたいでドキドキする。
「痛みが続くなら病院行った方が良いかもね」
「ちょっと切っただけだし、平気だろ」
「無理しちゃダメよ。それともお医者さんが怖いの?」
「怖いんじゃなくて嫌いなんだ」
「子供みたいなこと言うのね」
氷姫はクスッと不意に表情を綻ばせた。綺麗なだけで愛嬌がないと思ったけど案外可愛らしく笑うんだな。
「何?」
「いや、手当してくれてありがとう、って思っただけ」
氷姫と目が合い、咄嗟に誤魔化した。「笑顔に見惚れてました」なんて恥ずかしくて言えないや。
「助けられたのは私だから、これくらい当然よ」
ドギマギする俺とは対照的に氷姫は本当に何事もなかったかのように呟いた。あまりにサラリとした口調なので俺が勘違いしてるみたいで恥ずかしくなった。
「それはそうと、どうして氷姫様は夜遅くこんなところに?」
傷の手当てが終わったところでふと疑問が浮かぶ。自分で言うのもなんだが、高校生が夜の歓楽街を出歩くのは感心しない。女子はなおさらだ。
「別にやましいことしてないわ。繁華街の方で用事を済ませて帰るつもりだったの。でも乗るバスを間違えて、気づいたらここにいた」
「で、あのおっさんに絡まれた、と。そりゃ災難だったな」
乗り間違えたバスで知らない場所に連れて行かれる心境はさぞ心細かったろう。でもそんなに困ってるなら交番にでも行けばいいのに。
「一人で帰れるか、迷子の氷姫様?」
「バカにしないで。さすがに帰れるわよ。…………多分」
「無理すんな」
この子、きっと方向音痴だ。朝まで街を彷徨う姿が目に浮かぶ。
「バス停まで送ってくよ」
「良いの?」
「構わないよ。生徒会役員だから、困ってる生徒は見過ごせない」
「そう。それは……ありがとう」
ぎこちない感謝の言葉。だが気持ちは十分伝わった。
おかげで俺の中で氷姫の印象が一八〇度変わっていた。夕方に不躾な態度を取られ、随分高慢な娘だと悪印象を抱いたが、根はいい子みたいだ。