「此処ですね」
「…………」
「2500円になります。ん……? お客さーん?」
運転手に呼ばれて我に返った俺は、慌てて顔を上げて窓の外を見る。
いつの間にか目的地の場所に着いていて、財布の中から1万円を取り出した。
「着きましたよ?」
「ありがとうございました。お釣りは要らないので」
「え? あ、ちょっとお客さん!?」
1万円を渡してお釣りを貰わず、そして運転手を一度も見ないで俺はタクシーから降りる。
途中で拾ったタクシーで××斎場に来たから予定よりも早く着くことができたけど、タクシーの中と違って当然空気が重苦しい。
斎場に来るのなんて幼い頃以来で、あの時は死というものがどれだけ重いことなのか知らなかったから何も感じなかったけど、20数年生きてきて俺はやっとこの空気感を覚える。
ひゅっと引いた息が喉に詰まって変な汗が額に滲み出した時、受付のところに湊がいることに気付いた俺は、何かに引っ張られるように自分の意思とは別に足が湊の元へ向かっていた。
「み、湊……!」
俯いていた湊は俺の声を聞いて顔を上げると、俺を見るなり眉間にしわを寄せた。
目が合ってすぐに目を逸らされ、そんな湊を見て胸に痛みが走ったけど、自分の立場を考えれば傷つくことこそ間違いで。俺も湊と同じように目を逸らした時だった。
「弘樹……」
「弘樹!」
湊の声を重なるように母の声が聞こえて伏せていた目を上に向けた瞬間、頬に痛みが走った。
「あんた、今まで何してたの!?」
何度も瞬きをし、ジンジンと痛む頬を押さえながら目の前にいる母さんを見上げると、俺と目が合うなり再び頬を叩き、胸倉を掴みながら俺の胸や腕を叩いてくる。そんな母さんを湊が止めに入ってくれるけど、これが俺の報いだから止めなくていいよ、と目で湊に訴える。俺のその気持ちをすぐに湊は理解して目を逸らしたけど、俺から母さんを遠ざけようと今も止めに入ってくれていた。
「こんな大事な時に、何してたのよ!」
「…………」
「母さん、弘樹もちゃんと来たし……少し落ち着いて」
「初めて顔を見せるのがお通夜だなんて……非常識にもほどがあるでしょう! あんたは弥生ちゃんの婚約者なんだから、本当なら病院にもいなくちゃいけなかったんだからね!」
あの電話たちは弥生が亡くなったことを知らせてくれていたという事にようやく気づいた俺は、また罪悪感で心が押し潰されそうになっていた。
「ごめんなさい……」
「謝るのは私にじゃない。弥生ちゃんと、弥生ちゃんのご両親にでしょう!」
そう言いながら母さんは俺の頭を叩き、自然と顔が横を向いた時、俺らの近くで足を止めた誰か。ドクンッと今まで経験したことのない変な跳ね方をした心臓に不快感を覚えていると、「弘樹くん」と聞き覚えのある声に名前を呼ばれ、俺は一瞬息が出来なかった。
母さんの動きも止まり、先程もそうだったが更に目に涙を浮かべた母さんの姿を見たら胸に痛みが走るのも当然で。俺は弥生だけではなく、大勢の人を泣かせていたのだと自覚すればするほど顔を上げることが出来ないでいた。
そんな俺を見兼ねた母さんの呆れを含んだ怒りの声が耳に届いて、恐る恐るだがやっと名前を呼ばれた方に顔を向けると、俺と目が合った弥生の親父さんが再び俺の名前を呼んだ。
「弘樹くん、来てくれてありがとう」
あぁ、これは……皮肉さが含まれている。
看取ることもせず、仮通夜にも参加せず、本通夜になってやっと顔を出した俺のことなど憎くて仕方がないのも当然だと思う。婚約者でありながら、非常識すぎる行動をしたのだから。
自分がしてしまった失態を改めて自覚すると居た堪れない気持ちになり、親父さんから目を逸らそうとした時、どこからか鋭い視線を感じる。気になってそちらを見てみれば、乱れた髪の隙間から俺を睨んでいる弥生のお袋さんと目が合い、思わずブルッと身震いをしてしまうほどの恐怖を覚えた。
そんな俺をよく見ていたのか、「許してやってあげて」と親父さんの優しい声が耳に届いた。
「たった一人の愛娘だったんだ。まさか、自分たちより先に逝ってしまうだなんて一ミリも考えてもいなかったから、今も現実を受け止めきれていないんだ……」
お袋さんの気持ちだけではなく、親父さんの気持ちもその言葉には含まれているからこそ俺は何も言えなかったし、息をするのもやっとなくらい口から吸い込む空気が固すぎた。
「弥生が亡くなった日、本当は電話しようとしてたんだ」
「え……?」
「なんだか胸騒ぎがしてね。ただ、あの子は一人でも大丈夫。親バカもほどほどにしないとって会話を二人でして、結局弥生に電話をかけなかったんだ。もしあの時、自分があんなこと言わなかったらって、電話をしてあげていたら何か変わっていたかもしれない。そうやって一睡もせず自分を責め続けていて、弘樹くんに弥生を任せたことが間違いだったと、君のことを責めることしか現実から逃げることが出来ないんだ」
家族からしたら、俺なんかたった5年で。俺よりも現実から目を逸らしたいに決まっていて……そんなご両親からしたら俺は、娘を見捨てた最低な男だ。
「君も何かしら理由があったのだろう? でもそれは、弥生が亡くなってからじゃ通用しない」
「…………」
「理不尽かもしれないが、どうか妻を許してやってほしい」
許すもなにも、俺はそれを許す立場にはいない。
俺は罪に問われる側の人間で、それを許すか許さないかを決めるのはそちらで……謝らないといけない。咄嗟にそう思った俺は伏せていた目を前にいる親父さんに戻した時、こっちが痛みを感じるくらい親父さんの目が充血していることに気づく。
俺の口からは自然と息が漏れ、無意識に親父さんから距離を取ってしまう。
「あ、あの……俺……」
「もうすぐで通夜が始まる。その前に弥生の顔を見てあげて」
肩をポンと叩かれ、俺に背を向けた親父さんは通夜が行われる奥へと足を進める。俺は勿論ついていくしかなくて。足に蔦が絡みつているかのように足がビクともしなかったけれど、親父さんがこちらを振り向いたことによって何故か一瞬にして足が軽くなった。
大きく息を吸い込み、吐き出すと同時に唇をキュッと結びながら親父さんの後を追えば、俺に冷ややかな視線を向ける人がこの空間に大勢いることにようやく気づいた俺は、歩きながらどんどん肩が内側に入っていく。
奥の広いスペースの先には棺があり、棺をよく見てみれば蓋がされていないことに気づく。
今まで感じたことのない恐怖から呼吸が乱れ、手と膝が震え始める。そんな状態でも足を止めることは許されなくて……ゆっくり、本当にゆっくりと棺に近づいていく。
「安らかに眠ってるでしょ……?」
「っ……」
棺の中を覗き込むと、綺麗にメイクをされて眠っている弥生がいて。そんな弥生を見た瞬間、嫌でも現実が突きつけられて、涙がこれでもかというくらい溢れ出てくる。
身近な人が亡くなるという経験を物心ついてからは経験したことがなかった俺には、この現実はあまりにも辛くて。ただ眠っているだけだと信じたかった俺は弥生の頬に手を添えるが、弥生の頬はとても冷たくて、その冷たさが俺の心を抉った。
「や、よい……」
安らかに眠っているであろう弥生だけど、どこか苦しそうで。嫌がっているようにも見える表情が2日前の弥生と重なり、俺の目からこぼれ落ちた涙が弥生の頬を伝う。まるで弥生が泣いているように見えて、更に俺の目からは涙が溢れ出た。
あれが最後の会話になるだなんて思ってもいなかった。
あの最低な言葉が、弥生にかける最後の言葉になるだなんて……誰が予想しただろうか。
俺がもっと早く弥生に相談していたら、こんな最低な形で終わらなかったかもしれないのに。弥生の病気にだって気づけたかもしれないのに。何よりも一番は、なんで俺は弥生の方を信じなかったんだろうって。なんで後輩の言葉なんて信じてしまったんだろうってそればかり。
弥生は多分、ずっと俺に頼りたかったはず。今までだって何かあると俺の隣にきて、胸の内に溜まった物を吐き出していた。
弥生にストレスを与えている人物の顔や名前を俺は知らないというのに、弥生は優しいからその人が傷つかない言葉でいつも吐き出していた。けれど、それが上手くいかなかった場合はそっと俺の手を握って、ストレスから逃れるようにしていた。そんな弥生を知っているというのに、俺はその道までも失わせた俺は、大罪人だ。
「弥生の得意料理って何?」
同棲するようになってすぐの頃、俺は弥生にそう訊いたことがあった。
あぁ、なんで今思い出すんだろう。
「えー? 随分と急だね?」
「どの料理も美味しいから気になって」
「ありがとう。そう言ってくれて」
「俺こそいつもありがとう。それで? 一つに絞るとしたらどれ?」
「うーん……煮込みハンバーグ、かな?」
頬を赤らめながら煮込みハンバーグと答えた弥生があまりにも可愛くて、それから子供のように毎月煮込みハンバーグが食べたいと言っていた時の事を思い出した俺は、もう片方の手も弥生の頬に添えて子供のように泣き喚いた。
「こんな細くなって……ごめん、気づいてあげられなくて……最低なことして……沢山苦しい思いをさせてっ、ごめ……」
今更謝ったところで、弥生はもう帰ってこない。
後悔をしても、反省をしても全てが遅すぎる。
──これからもずっと、私の傍に居てね。
俺がプロポーズをした際に、弥生が俺にそう言っていたことも思い出した俺は弥生から手を離し、手で顔を覆って嗚咽を漏らしながら泣いている俺の肩に手を置いたのは湊で。「行こう」と何とも言えない声で言われたけれど、俺は動くことが出来なかった。
「置いてかないでよ……」
俺のことは一生許さなくていいから。殺したいほど憎んでていいから。遠くから弥生を眺めているだけでいい。俺の存在なんて弥生に知られなくていい。多くは望まないからさ、だから来世もまた……弥生と出会ってもいいかな?
また出会いたいと思ってしまう俺は、罰当たりだろうか──?
湊が泣き崩れている俺の肩を抱きながらこの場から離れさせようと歩き始める前に、滲んでいる視界の中で弥生の顔を見る。きっと俺の勘違いだと思うけれど、一番最初に見た時とは違った表情をしていた気がした。とても穏やかに見えたその表情はまるで、何かに喜んでいるような表情だった──。
独法師は形影相弔う 本編END