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第14話


「弘樹さん」



 後ろから猫撫で声で俺の名前を呼んで抱きついてくる後輩の彼女に、俺は「ちょっと」と言っていつものように彼女を引き剥す。



「別にいいじゃないですか」


「やめてっていつも言ってるよね」


「私たち恋人同士なんですから受け入れてください」


「……恋人じゃない」



 俺がそう言えば、彼女はいつも怒った表情を浮かべる。

 どうしてそんな表情をするのか俺は到底理解が出来ない。


 まず初めに、俺は君の恋人にはなれないと言っていた。

 そばには居る、とは言った。けれど、君を好きになることは奇跡が起きたとしてもない、俺が愛してるのは弥生だけだから、とはっきり伝えていた。それだというのに、彼女はきっと俺の言葉を忘れてしまっているのだろう。



「弘樹さん」



 異様な雰囲気の中、突然名前を呼ばれたから顔をそちらに向ければ、彼女の目は恐怖を覚えるくらいつり上がっていて、俺は眉間のしわを深くする。


 あぁ……いつものだ。



「好きって言ってください……」



 当然、言いたくない。

 でも言わないと彼女は癇癪を起す。



「早く言って! ねえ!」



 最初は頑なに言わなかった。でも半年間、この声を聞いていると精神的に参ってくるのも当たり前。



「……好きだよ」



 渋々こうやって心にもないことを言っている。

 それをまさか、あの時弥生に聞かれてるだなんて思っていなかった。


 でも、弥生は気づかなかった。

 俺が渋々言っていることに。


 ソファの元に行き、クッションを手に持った彼女は今にもそれをこちらに投げてきそうだったから俺は急いで彼女のそばに行き、手に持っているクッションを奪って元の位置に戻す。目がつり上がったままの彼女の肩に手を置き、ゆっくりをソファに座らせた。たったそれだけだというのに意味も分からず機嫌が良くなった彼女は、満面な笑みをこちらに向ける。そんな彼女を見て、俺は心の中で盛大な溜め息をついた。


 自分が蒔いた種だから自業自得だというのに、誰かに八つ当たりをしたい気持ちが俺の中にじわじわと生まれてくる。



「そんな薄着でいたら体に障るでしょ」



 近くにあったブランケットを彼女にかけると、彼女はまた俺に抱きついてくる。



「離れて」


「やっぱり弘樹さんは優しいですよね。ますます惚れちゃう」


「……最近、体調はどうなの?」


「え? 大丈夫ですよ。弘樹さんがそばに居るし」



 また、同じ返事。


 彼女の言葉に不信感をずっと抱き続けている。そうなっても仕方がないと思う。

 彼女が言う、余命半年はとっくに過ぎているんだから。


 そばに居ると言った日からずっとそばに居たけれど、彼女は一度も病院に行っていない。もう病院に通わないでいいと言われたからなのかもしれないが、体型だって告白してきた時と何も変わらない。会社だって一度も欠勤してないし、辛い表情だとかも一切浮かべたりもしない。



 ──私だって……私だって、病気なのに。


 そんな中、思い出すのはやっぱり弥生で。泣きながら、そして苦し気にそう言った弥生の顔が忘れられない。



 あんなに感情を出すのも、一杯一杯な弥生の姿を見るのは初めてだった。

 5年一緒にいてもまだ見たことがない姿を見れるんだと、あの状況の中そう思ってしまっていた俺はやっぱりクズだ。


 〝別れよう〟

 その一言が弥生の口から出なかったことが全て物語っている。



 人として最低なことをしたのは俺で、馬鹿な選択をした俺を引き留めてくれたというのに、そんな弥生を無視して家を出てきたのは俺で。あんな眼差し……弥生に向ける立場じゃなかったはずなのに。

 2日前のことを思い出せば、無性に弥生に会いたくなってくるのも当たり前で。彼女の死と、弥生を失うとじゃ当たり前に弥生の方が重いに決まっていて……こちらを見上げている彼女から目を逸らし、俯いたまま俺は彼女の隣に腰を下ろした。



「もう、終わりにしよう」



 やっと言えた。

 ずっと言いたくて仕方がなかったその言葉を口にするのって、こんなにも心が軽くなるだなんて思ってもいなかった。


 こういう雰囲気に一度もならなかった、と言えば嘘になる。けれど、必ず彼女は癇癪を起し、そんな彼女を静めることで精一杯だった俺は結局終わりにする話しを進めることは出来ず、ずるずるとこんな関係をここまで続けてしまった。


 やっとそれを言えたことによって喉に詰まっていた物が取れ、俯いていた顔を上げて真っ直ぐ彼女を見据えれば、彼女は俺の口からはっきりそう言われたことが心底信じられないとばかりの表情を浮かべていた。表情を崩し、いつものように癇癪を起すかと思っていたのに、彼女はこちらを見つめたままピクリともしなかった。



「俺はこの先、どれだけ君と一緒にいても君を好きになることはないし、これ以上弥生を悲しませたくないんだ」


「……でも、喧嘩したんですよね?」


「そう、だね……」


「なら! もう弘樹さんのこと好きじゃないかもしれないじゃないですか!」


「そうかもしれないね。でも、少なからずそういうことを言う君とはもう一緒に居たくない」


「なんでそんな酷いこと言うんですか……私、もうすぐ死んじゃうんですよ!?」


「…………」


「お願いです。それまで一緒にいてください……」


「……ごめん」



 ここまで縋りついてくれているのにそれを突き放すのは心苦しいけど、弥生を失うくらいなら切り捨てることなんて簡単だ。



 「何もしてあげられなかったけど、今までありがとう。体、お大事に」



 彼女の気持ちには応えられないというのに、半年も一緒に過ごしてしまった。それが彼女にとって思わせぶりな態度になっていたのも確かで。申し訳ない気持ちが生まれながらも、残りの人生を思う存分楽しんでほしい。そう思いながらソファから立ち上がり、ハンガーに掛けていたダウンを手に取ってリビングのドアノブに手をかけた俺の後ろで鋭い舌打ちの音がしたのは、きっと聞き間違えではない。


 ドアノブに手をかけたまま後ろを振り返れば、髪をかき上げながら盛大にため息をついて足を組み始めた彼女の姿に俺は目を疑った。



「はぁ……せっかく手に入ったと思ったのに……」



 そう呟きながら、顔つきがガラリと変わった彼女に俺は息を呑む。

 いつもニコニコしていて、そしてどこ不安そうで。そんな彼女しか見たことがなかったから、今視界に映っている彼女はあまりにも別人で、俺は一瞬、彼女が誰だか分からなくなった。



「結局こうなるんだったら、バカみたいに病気のふりなんかするんじゃなかった」


「……ふり?」


「え? もしかして、本当に私があと半年で死ぬって信じてたんですかぁ?」



 右側の口角をキュッと上げながら目を細めた表情も癪に触るし、何よりも俺のことを馬鹿にした鼻につく話し方が決め手で、自分の表情が険しくなったのを自覚なんてしなくてもすぐに分かった。


 彼女が告白してきた時と何も変わらない様子はそういうことだったのかと、ようやく気付く。



「嘘に決まってるじゃないですかぁ。あー、だからいつも体調の心配をしてくれてたんですね」


「嘘……」


「あははっ、弘樹さんってやっぱりピュアですよね。だから好き」


「…………」



「ねえ、弘樹さん。私の方が彼女さんより満足させてあげられますよ?」



 弥生のことを何も知らないくせに、どうしてそんなことが言えるんだ?

 俺は君の気持ちに応えられないと、弥生以外の女性に興味がないと言ってるのに、何が満足させてあげれるだ。それに……散々騙しておいて。



「私なら毎日ご飯作りますし、家事もちゃんとしますし、尽くしますよ。弘樹さんの隣にいても恥ずかしくないように普段から気を付けていますし、あんな骨だけの体型なんて魅力ないでしょう?」



 腕に体を寄せてきた彼女を俺は容赦なく引き剥し、勢いよくリビングのドアを開けて玄関へ向かう。

 何がそんなに面白いんだか、彼女はクスクスと笑いながら当たり前のように俺の後ろをついてくる。



「怒ったんですか? こんなことで?」


「別に怒ってないよ」


「そんなに怒らないでくださいよ。騙されて勝手に私に同情したのは、弘樹さんじゃないですかぁ」


「…………」


「弘樹さん可哀想ですね」


「可哀想?」


「だって、誰にもこんなこと言えないじゃないですか。浮気相手に騙されてた、なんて」


「……浮気じゃない」


「半年も婚約者じゃない女の家で過ごしている時点で浮気ですよ」



 こんなことを浮気だなんて認めたくなかった。けれど、弥生ではなく彼女に時間を使っていたという現実を突きつけられた時点で、これは浮気だったんだと認めるしかなくて……俺は微かな胸の痛みを感じていた。



「弘樹さん。世の中にはね、どんな手を使ってでもその人のことが欲しいって思う人がごまんといるんですよ。そういう人たちって、絶望の極致に立つだなんてことが一生ないんです。いや、そういう思考にならないって言った方が正しいのかな?」



 なんて恐ろしい人間に関わってしまったのだろう。

 普通はそんな思考にはならない。


 いや、本当か?

 俺は一度も、そういう考えになったことがないのか?


 弥生を自分だけのモノにしたくて……あの時の俺は、どんな手を使ってでも弥生が欲しいと少しは考えたことがあるんじゃないのか?


 過去の自分を振り返って、彼女と少しでも同じ思考がある自分に反吐が出る。



「自分がどんな立場になっても、私は弘樹さんを手に入れたい」


「……本人の前でよくそんなことが言えるよね」


「バカみたいに縋りついてもダメなら、こうするしかないでしょ」


「ごめんだけど、もう君と関わることはないから宣言しても意味ないよ」


「そんなの無理ですよ。同じ職場なんですから。弘樹さんがどんなに意識して私を避けても、必ず私のことは視界に入る」


「入らないよ」


「会社を辞めても意味ないですからね。どんな手を使ってでも、私はあなたのそばに居ますから」



 にんまりと笑う彼女が気色悪くて、表には出さないようにしているものがチクチクと刺激され続けて今にも爆発しそうだった。



「だから、私が変な行動をする前に彼女さんとは別れてくださいね」


「あのさ」


「大切な人が傷つく姿を見たくはないでしょう? それに、女として終わってるあんな人と一緒に居たら弘樹さんが」


「あのさ!」



 心に沸々と湧き上がっていた怒りが我慢できなくて、気づいたら俺は怒号のような声を出していた。それによって先程まで饒舌に話していた彼女は、怯えた様子で慌てるように口を閉じた。そんな彼女を見て、今までの勢いはどこに行ったんだ、と思わず鼻で笑いそうになった。



「俺のことは別に構わないけど、弥生のことを悪く言うのだけは許さないよ」



 先程までと違って今度は俺がよく知っている彼女の表情になり、うっすらと涙を浮かべながら俺に手を伸ばしてまだ縋りついてこようとしてくる彼女の手を振り払い、玄関のドアを開ける。その瞬間、氷のように冷たい風が俺の頬を掠めた。



「君の本当の姿を知っても尚、好きでいてくれる人と出会えればいいね」



 格好悪い捨て台詞を吐いて、俺は家を出た。


 怒りが滲み出ている表情で歩いていれば、そりゃあすれ違う人たちが珍しいものでも見るかのような視線を俺に送るのも当たり前で。そのことに気づきながらも、俺は一切表情を変えずに2日も帰っていなかった自宅へ向かう。



 ──私の言葉より、浮気相手の言葉を信じるのっ!?



 頭の中で弥生の声が響き渡る。


 何故俺は、弥生の言葉を信じなかったのだろう。

 あんなに必死になって俺に訴えていたというのに。


 彼女の言う通り騙されたのは俺で。弥生に悪いと、早くこの関係を終わりにしないと、と思いながらも続けていたのは俺で。弥生の言葉を信じなかった俺が何もかも悪くて。抑えられない怒りが俺を支配したことによって頭をガシガシと激しく掻き、居た堪れなくなった俺は気づけば走っていた。



 弥生に会いたい。でも会いたくもない。 

 今度こそ、弥生になんて言えばいいんだ。


 俺は罪を重ねただけ、今度こそ許してもらえるチャンスを逃した。


 それでも、弥生の顔を見て今度こそきちんと謝りたい。

 叩かれようが、罵声を浴びせられようが、それは当然の報いなわけで。会いたいという気持ちが少しずつ戻ってきた俺は、心臓が破裂しそうなくらい全速力で走った。



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