やっとの思いで口にしたというのに、目の前にいる弘樹はうんともすんとも言わない。
胸騒ぎを覚え、恐る恐る視線を上げれば、静かにこちらを真っ直ぐ見据える弘樹と目が合った。
ぐらりと視界が揺れ、ドクンッと今まで聞いたこともない心臓の音が不快なくらい耳に届いた。
忌々しそうに私から顔を背けた弘樹を見て微かな胸の痛みを感じた後、頭に浮かんだ弘樹という言葉は声にはならなかった
「何で嘘つくの?」
「なっ……!?」
「何で今、そんな嘘をつくの?」
「嘘じゃ……嘘じゃない」
「そう言えば、同情してもらえるって思ったの?」
「ち、違う!」
キュッと締まった喉で必死になって声にしても、弘樹は信じてくれなかった。
「普通に不謹慎だろ……」
別に不謹慎じゃないよ。
顔も名前も知らない浮気相手と違って、私はちゃんと病気だよ。
精神科に2年も通ってる、うつ病患者だよ。
「弥生がそんなやつだと思わなかった……」
何よそれ。今更、私に幻滅したってこと?
けれど、そんな強気な発言など私には出来なかった。
「まって……勘違いしてる」
「なんだよ、勘違いって」
嫌われた。
それだけは確実に分かった。
けれど、どうして私がこんな仕打ちを受けないといけないのか解らない。
私は浮気を〝された側〟で
弘樹は〝した側〟
した側を許すか許さないかは私が決めて、その後どう動くかも全て私が主導権を握っているはずなのに、この仕打ちはあんまりなのでは?
「ごめん。頭冷やすために、暫く家空ける」
……は?
きっと、そんな声が漏れていたと思う。
浮気を認め、謝って、どうして浮気をしたのかを全て話した上で、また浮気相手の所に行こうとしてるの?
実際、どうかは知らない。近くのホテルに泊まったり、知り合いの家に行ったりと色んなことが想像できるはずだというのに、私は浮気相手の所に泊まる気だ。というその考えしか頭になかった。
私から離れ、本当に家から出て行こうとしている弘樹に、咽喉の奥からせり上がってきたものを我慢することが出来なかった。
「私の言葉より、浮気相手の言葉を信じるのっ!?」
私の言葉を聞いても尚、弘樹は迷ったりせず、こちらを一度も振り向かないで帰ってきたまんまの、あの嫌な香水を纏ったまま家から出て行った。弘樹の後ろ姿が見えなくなり、玄関のドアが閉まる音が聞こえると、弘樹に対する悲鳴のような糾弾はやがて静かな嗚咽に変わり、私はその場に崩れ落ちた。
浮気相手の言葉は信じて、5年付き合っている私の言葉は信じないんだ。
俺が愛してるのは弥生だけだからって。俺が好きなのも、愛してるのも、大事にしたいと思うのも弥生しかいないって。嘘じゃない、信じてって言ったくせに……私の言葉は信じてくれないんだ。
でも、これではっきりと分かった。
私は〝その程度の存在〟だったということに。
絶望という言葉が今の私を表すのには最適で。その中に苛立ち、不安らがまた一度に襲いかかってきて、発作が起きてしまうと思った私は、這いつくばるように薬を隠している棚へと向かう。
視界は滲み、異常なほど震えている手では薬を上手く取り出せなくて、手のひらにやっと乗ったと思えば、虚しく床へと落ちる。
「っ……」
恐怖を覚えるほど不安が膨れ上がり、何度も何度も床に落ちてしまう薬たちを見て、飲めないと諦めた私は再び床へと逆戻った。
「弘樹……」
震える声で弘樹の名前を呼ぶと、今までさえ沢山の涙が溢れていたというのに、更に涙が目から溢れた。
口から出た声、心の声、全てが耳を塞ぎたくなるくらい異常に大きく聞こえるし、やけに耳につく心臓の音が不快で仕方がない。そして、私は本当に〝独りぼっち〟になってしまったという事実が更に私を追い詰めた。
ポロッと大粒の涙が目からこぼれ落ちた時、自分の影が視界に入ったことから癖のように影を撫でた。
いつものように撫でられているような感覚を覚えた私は、枯れるなんて知らないかのようにまた涙がドバドバと溢れ出てくる。
もう嫌だ。
孤独なのも、寂しいのも、自分の影が慰めてくれるのも──全てがもう嫌だ。
「やだ……わたしには、弘樹しかいないのに……」
やだ……やだやだやだ。
ヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダ ヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダ──。
抑えきれなくなった自分の感情が頭の中で異常なほど大きい声となり、更に不安定になった私は気づけば家を飛び出していた。
どこに弘樹が行ったのかも分からないというのに、必死になって弘樹を追いかけた。そんな私とすれ違った人たちはみんなして困惑していたし、異常者がいると軽蔑した視線を感じたし、鼻でふっと笑う声が微かに聞こえていた。
それもそうだ。髪もボサボサで、メイクもグチャグチャで、ぐずぐすと嗚咽を漏らしながら必死になって走っているのだから。
普段なら人の視線に敏感だけど、今は弘樹に会いたくて、引き留めたくて必死に夜の街を走っていた私は、人の視線や声にいちいち反応している暇などなかった。
夜の街は見づらくて仕方がない。涙のせいか、それとも元からなのかすら判断できないくらい、私の精神状態は不安定だった。こんな状態で弘樹を見つけることが出来るのか。もしすれ違ったとしても、こんな視界の悪さだったら気づかないのではないか、など色んな不安が私を襲う。
それから暫く走り、古いビルが立ち並ぶ一角にやってきた時、ドンッと角を曲がってきた通行人と勢いよくぶつかった。
ただ、私にはぶつかった感覚はなく、何事もなかったかのように弘樹を探しに行こうとした時だった。
「あれ? 弥生ちゃん?」
聞き覚えのある声に、私の足は余韻を残さずに止まった。
絶望という言葉が、更に私に突き刺さる。
無視など絶対に出来ず、キュウッと喉が締まりながら恐る恐る後ろを振り返る。
「やっぱり、弥生ちゃんだ」
親しげに私の名前を呼んだ人物は、弘樹のお兄さんで
両手で数えられる程度しか会っていないけど、私にとても良くしてくれる優しい人。湊さんがその場にいるだけで雰囲気が明るくなるし、何よりも声をかける言葉選びがとても上手な印象。だから弘樹も凄く慕っている。
でも、こんな時に会いたくなかった。
「み、なと……さん……」
「久しぶりだね! 元気……」
元気とまで言った湊さんは、目を大きく見開いて驚いていた。
私は知っている。その次の行動を。
次に来るのは必ず、同情の眼差しだということを。
「弥生ちゃん、凄く痩せたね……?」
湊さんのこの一言で、必死に保っていた何かが崩れた。
なんで……なんで湊さんは気づくのに、弘樹は気づいてくれないの……?
ひゅっと引いた息が喉に詰まり、胸はギュウッと締め付けられ、そして何故か背中までもが痛くなり始める。
「久しぶりに会えて嬉しいよ。この後少しだけでも時間ある? よかったら……どうしたの!?」
私が泣いていることに気づいた湊さんはポケットからハンカチを取り出し、こちらに差し出しながら距離を縮めてくるのを私は何故か他人事のように眺めていた。
魂が今にも私から離れていきそうな、そんな感覚に陥っていたから。
「どうしてそんな泣いて……もしかして、弘樹と何かあった?」
「…………」
「弥生ちゃんをこんなに泣かせるようなことをあの馬鹿は言ったんだね……ごめんね。アイツ一度でも決めたらそれを」
優しい話し方のまま、弘樹ではなく私の味方をしてくれた湊さんはその後も何か言っていたけど、私の耳には面白いくらい届いていなかった。それは多分、無駄に息が上がっていたのと、自分の心臓の音が大きすぎたから。
胃の痛みも今までと比べ物にならないくらい凄まじくて、息が出来ないくらい背中と腹部が痛くて、お腹が変に膨張してきてる感覚もする。
変な汗が浮かび上がってくるし、胃液が這い上がってきて我慢できず今にも吐きそう。
湊さんの姿も、その後ろにある建物も変に揺れている。視界が狭くなって、焦点すら合わない。泣いているからそう見えるのかと思っていたけれど、意識が朦朧としているから何もかもおかしいのだとやっと気づいた私は、そこでようやく自覚する。
──もう駄目だと。
私は、知らない間に〝何か〟に蝕まれていたみたい。
なるほどね。だからあの時、あんな力が出たのか。
あぁ……こんなことになるなら、最期に伝えたかったな。
私はただ、寄り添ってほしかっただけだったんだよって。
自分の体がおかしいことなんて自分が一番解ってたんだから、弘樹を責めずに私を受け入れてもらえる方向に持っていけばよかったと今更後悔する。
湊さんの「弥生ちゃん……?」という声が合図となり、ブチッッ──と何かが物凄い音を立てて切れると同時に、私は全身の力が抜けてその場に倒れ込んだ。その拍子にゴンッと地面に強く頭を打ったけど、痛みは感じなかった。
それどころか、体を蝕んでいた痛みすら、もうなかった。
「弥生ちゃんッ!?」
倒れた私にすぐ駆け寄ってくれた湊さんは周りの人に救急車の手配などを切羽詰まった感じで頼んでいて、そんな湊さんを見て私は心の中で謝った。
ごめんなさい。本当に、ごめんなさい。
私、弘樹に酷いこと言ったんです。それなのに責めるだけ責めて、最後は縋りつこうとした。傷ついて、泣いたのはきっと私だけじゃないというのに。
そんな最低な私となんか弘樹は出会わなかった方がよかったんです。私がもっと早く弘樹を解放してあげていたらよかったんです。そうしたら、お互いこんな思いはしなかったはず。傷は浅かったはず。
「あの馬鹿……何で出ないんだよ……!」
だから、弘樹を責めないであげてください。
どうか、弘樹の幸せだけを願ってあげてください。
狭まった視界で、湊さんが必死に何かを言っている。けれどもう、周りの音は一つも聞こえない。耳の中に水が大量に入ってしまったあの感覚に近い。
楽しかった思い出やら、弘樹から告白された時、プロポーズをされた時の光景や幸福感やらが走馬灯のように駆け巡り、最後まで苦しさを覚えながら私の意識は闇の奥底へと沈んでいった──。