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第10話


 パソコンを閉じてすぐに会社から出ようと思ったのに、暫くあのまま動けないでいた。

 本来予定していた19時には病院に着いていたはずなのに、結局20時近くになってしまい申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら、背中を丸めて待機室で名前を呼ばれるのを待っていた。


 普通の病院と一緒で、待機室はとても綺麗にされている。何なら普通の病院より温かい色を使われている気がするけど、少しだけ独特な雰囲気があるのは否めない。それは、私みたいな患者がいるからだろう。

 いかにも負のオーラを漂わせている。そんな人間が見渡しても私しかいない。それがとても恥ずかしくて、更に背中を丸めた。



 アナウンスで名前を呼ばれ、指定された診察室へ向かう。

 ゆっくりとドアを開けると、パソコンから視線を外して私と目が合った先生は、優しく微笑みを浮かべた。



「どうぞ」


「失礼します」



 椅子に座って、テーブルを挟んで向こうにいる先生と向き合わないといけないのだけれど、私は目を見れずに視線の先にある先生の手を見つめた。



「最近の調子はどう?」


「以前と変わらないです」


「そっか。以前と変わらない、か」



 私の言葉を聞いて、再びパソコンと向き合う先生。

 これから色々質問されるけど、嘘をついてもきっとバレる。定期的に血液検査をしているから。


 それに、ここでは別に嘘をつく必要もない。

 別に大したことではないはずなのにそれが今の私には有難くて、今日も素直に先生の質問に答えていく。



「薬飲んで以前と比べておかしいなってところは?」


「特にはないです」


「眠気は?」


「眠気は……一切ないですかね。喉が渇くくらいで」


「頭痛もしない?」


「はい。一切ないです」


「なるほどね」



 パソコンに慣れた手つきで何かを打ち込み、今なら先生の顔を見れると思って視線を上げれば、パソコンと向き合っていたはずなのに先生と目が合った。

 いつからこちらを見ていたとか考える暇もなく、目を逸らしてはいけないって分かっていながらも私は耐えられなくてすぐに目を逸らしてしまった。



「寝れてないでしょ」


「……はい」


「だよね。今日の睡眠時間は?」


「よく覚えてないですけど……多分、2時間……」


「それがずっと続いてる?」


「はい」


「じゃあ、今回からちょっと強めの睡眠薬を出してみるね。薬も一部変更しておくから、一ヶ月様子見てみてね」


「はい……」



 睡眠薬以外の薬も本格的に強い薬に変えられたってすぐに分かった。

 他の病院はどうだか知らないけど、此処はすぐに薬を変える。


 私が長年此処に通っているからなのかもしれないけど、私はもう完璧──中毒者だ。



「清水さんさ、ちゃんと食事してる?」


「え?」



 突然のことに、声が上擦ってしまった。



「食べてないでしょ?」


「…………」


「昨日の夜は何を食べた?」


「……食べてません」


「もしかして、ダイエットとかしてる?」


「して……ます」


「どうして?」



 何か言わないと。そう思えば思うほど言葉が喉に引っ掛かり、喉が締まって声が出ない。

 口をパクパクとさせながら小さな「あ……」という声が漏れ、息を吸って吐いてを繰り返していると、先生は「ゆっくり深呼吸をして」と意識を自分に向けさせるために手を振りながらそう呟いた。


 震えながら大きく息を吸い込み、ゆっくりと息を吐く。それでも動揺は収まらない。



「前にも言ったけど、薬を飲んで太ってしまうのは副作用だから仕方がないの。でも今、自分がどれだけ痩せているか自覚してる? 以前来たよりも凄く細くなってる。たった一ヶ月のことなのに」



 たった一ヶ月のことだというのに先生は気づいてくれて、弘樹は気づいてくれない。一緒にいすぎたから気づけないのかな。


 まぁ、それもあるだろうけど、私はもう……弘樹の重荷にしかなってないのかな……?



「ダイエットなんてしなくても、あなたは十分に綺麗よ」


「……ありがとう、ございます」



 言えなかった。太るからだけじゃないって。胃が痛くなるから食事が出来なくて痩せていく一方だって。

 言えなくて当たり前か。私が最初にダイエットをしているだなんて嘘をついたのだから。あとから後悔なんてしても遅いというのに。


 どんどん肩が内側に入っていき、背中が丸まってテーブルと額の距離が一段と近くなった時、先生は優しく私の名前を呼んだ。そうすることによって、私がまた姿勢を正すと分かっていたから。



「職場のパワハラ、モラハラはどう?」


「…………」


「何も改善されてないのね。以前から言ってる転職は考えてみた?」


「考えては……います」



 また、嘘をついてしまった。


 この業界には、もう二度と関わりたくない。この業界じゃないところで働きたい。そう、先生には言ったことがあった。でも結局口だけなため、こういうところで働いてみたいだなんて気持ちは生まれてこない。


 今の私に一番必要なことは、休息だろうから。



「婚約者の方には言ってみたのかな?」



 婚約者という言葉が出て、自分がどんな表情を浮かべて首を横に振ったのかは分からないけど、先生は〈そう〉と息を吐くように呟くと、重苦しい沈黙がこの空間に落ちる。それが何を意味しているかというと、私がこの診察室から出ていくことを示している。けれど私は腰が重くて、あとは心を重くしているものを吐き出したくて椅子から立ち上がることが出来ないでいた。



「あの……少しだけお時間ありますか? ちょっと吐き出したくて……」



 勇気を出してそう言ってみると、先生は優しい表情を浮かべながら頷いた。



「好きなだけ吐き出して」



 ふぅ、と少しだけ息を吐き出し、先生にお礼を言った後、私は再び俯く。



「……今日、施設の利用者の方に〝精神の薬飲んでる?〟って訊かれたんです。ちゃんと表情を作れていたかは分からないんですけど、健常者のふりをして咄嗟に飲んでないって答えたんです」


「うん」


「そしたらその人、自分と同じだって。体はすごく細いのに顔が丸いって、一時期太っていたから職員でもそういう人がいるのかなって。そんな私を庇って〝清水さんは職員なんだから飲んでるわけない〟って言ってくれて……これでもかというくらい胸が張り裂けそうになりました」



 思い出すだけで、あの時の衝撃が蘇ってくる。それによって少しだけ呼吸が浅くなっていると、先生が私の隣に移動してきて背中を撫でてくれた。「ゆっくり呼吸して」とこちらを気遣うような声色に、呼吸をするのもだいぶ楽になってくる。


 ただ、ホッと胸を撫で下ろすことは出来なかった。



「私はうつ病なのに職員で、健常者のふりをしていて。施設を利用している人たちは自分の口から精神障害や知的、発達障害と言えていて……どっちが立派だと言えるのでしょうか……」

「人と比べる必要なんてないんだよ」



 先生の言葉は私の耳には届いていなくて。眉間にうんとしわを寄せた私は、膝の上で拳を握っている手に視線を落とす。



「私は……私は……」



 ──生きていていいのでしょうか?


 そう言おうとしたけど、言えなかった。

 先生も私が何を言おうとしたのか分かったのだろう。変に言葉をかけることもなく、先生はその後、一度も口を開くことはなかった。



 職場を辞められるなら辞めたい。でも、私が辞めたらきっと施設は回らない。回らなくなったら利用者が困ってしまう。

 長い人は5年以上あそこで働いていて、1年以上同じ場所で働き続けるのはこういう事業所ではとても珍しい事。だから、あそこが居づらくなって辞めたいとなれば、また行き場を失ってしまうかもしれない。そう思ったら結局、今のままでしかいられなくて……ただ耐えるしかなくて。


 ただでさえ弱っている時に、私には逃げ場所も弱音を吐き出せる相手も、救いを求める勇気も強さもないのだという事実が追い打ちをかけてきて、一人で勝手に深手を負っている気がする。


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