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第9話


 朝の出来事もあり、今日はいつもより少しだけ頑張れそうって思ってた。


 8時に出勤してくる上司たちに当たり前だけど挨拶をする。いつもならあの嫌な目だけで会話をするというのに、今日は私のことを見てクスクスと笑いながら事務所へ向かって行った。その時点で私の頑張れそうという気持ちはゼロになり、今日も地獄が始まるんだと落胆した。


 現実は当然、自分の想像通りにいくわけもなくて。それを十分理解しているというのに。苦しさは形を変えただけだった。



 今日は2名も体験者がいて、昨日と比べてとても忙しかった。

 普通なら要望日が被ってしまったら必ず日にちをずらすようにしている。その方がこの人はここの仕事がきちんと出来るのか、合っているのか、人間関係で問題はなさそうかなど見極めも出来るし、対応も一人の方が気持ち的にも体力的にも楽だからいいのだけれど、今回は同じグループホームからという事で、施設長が二人同時を了承したから部下の私はそれに従うしかなかった。


 作業内容を一部変更したといっても大変なのには変わりないし、新しい人が増えて情緒が不安定になってしまい泣き出してしまった人の対応だったり、トラブルの元になる会話をしないようにと注意していたら、あっという間に12時になっていた。


 薬を飲む人には一人ずつ聞きまわって、体験者に声をかけて午前中作業をしてみてどうだったかを聞いて、質問された事には答えてもいい範囲は答えて。泣いてしまった人と注意をして少し落ち込んでいる人に声をかけたりしていたら、お昼休みなんて一瞬にして終わってしまった。


 また誰にも頼らず一人で仕事を回し、出来る範囲で一人一人に目を配りながら午後の仕事を始めて少し経った頃だった。作業室のドアをノックされたから慌てるようにそちらに視線を向けると、冷めた目をして私を真っ直ぐ見据えている上司と目が合い、私は『ちょっと席を外しますね』とみんなに言ってから手を洗って作業室から出た。


 濡れた手をハンカチで拭きながらキョロキョロと周りを見渡せば、上司は外からこちらを見ているのに気づき、急いで外へ出た。

 そして私はようやく気付く。上司が書類を手に持っていることに。



「これ頼めるかしら?」



 そう言ってこちらに差し出してきた書類は、生活支援員にかかわらず、サービス管理者以外やってはいけない書類だった。



「あ、あの……私にはこれはやれません」


「適当にやってくれれば大丈夫だから。これ見本ね」


「いや……でも私、サビ管じゃないので」


「上司からの命令!」



 頭にも響く突然の大きな声に、肩がビクリと跳ねる。



「どうせ暇でしょ? たいして仕事もしてないんだし、だったらこのくらいやってよね。私は忙しいの」



 耳を疑う前に、頭の中が漂白されたかのように感じた後、たいして役にも立たない空っぽな頭の中にはぽつりと怒りの炎が立ち上がった。



「……では、皆さんに持ち場から抜けるように伝えてきますので、後はもりさんに任せても大丈夫ですか?」


「は?」


「今日は体験の方が2名います。その方たちにはある程度説明してありますが、何をするにも気にかけてください。少し多動なところがあるので。あと、大声は」


「あのさぁ、私も自分の仕事で忙しいんだって。だからあなたに仕事を頼んだんだけど?」



 ──いい加減にしてよ。


 そう言った上司の表情が、纏う空気がより一層恐怖を感じた私は一歩後ろに下がった。それが負けを表したことになる為、上司は最初からそうしておけよとばかりに舌打ちをし、鼻で笑った。



「それに、中の仕事なんてやったことないから指導なんて端から出来ないわよ」



 私だって……この書類作成なんてやったことないよ。サビ管じゃないんだから。


 私がやるってもう決まったんだから早くどっかに行ってほしい。感情を表情に出さないようにしているのがもう辛いの。早くしないと、あと10秒で眉間にしわが寄る。



「仕事も出来ないし、空気も読めない。人に迷惑ばかりかけてるんだから、ちょっとは役に立ってよね」


「……すみません」



 深く頭を下げると、上司は私にぶつかりながらこの場を去って行った。


 どうせ完成した書類を見て文句を言われるんだろうな。

 そもそも、サビ管の仕事だけをしているっていうのがおかしな話じゃん。


 心の中では色んな事が言える。けれどそれらは当然、消化されずに私の中に残り続ける。そんなの、ただの毒でしかないのに。



 理不尽なことに頭を下げる自分があまりにも惨めで。死んでしまいたくて。ズキズキと痛む腹部の前で、私はきつく掌を握りしめて堪えることしか出来なかった。





 今日はいつもより作業が早く終わってしまい、終業の時間まで20分ほどあった。

 トランプゲームをやったり、スマートフォンを弄ったり、お喋りをしたりとそれぞれに時間を潰してくれているなか、私は胃が痛くてどうしようもなく、効かないと分かっていながらも鎮痛剤を飲んだ。


 14時くらいに飲んだというのに、案の定薬は効いてくれなくて。表情管理すら出来ないほどの痛みに眉を下げながら耐えていると、トンと突然肩を叩かれた。

 驚いた、というよりかは怯えたように肩を揺らした私は、勢いよく後ろを振り返る。あまりにも私が変な反応をしてしまったもんだから、私の肩を叩いた年配の利用者はとても驚いている様子だった。



「あ……ご、ごめんなさい。どうかしました?」



 咄嗟に声を出したから、声が上擦ってしまった。



「いや、なんか辛そうだなって思って」


「腹痛いんすか?」


「少し……胃が痛くて。大したことじゃないんですけどね」


「ストレスじゃないっすか? 職員の人たち清水さんにだけ当たり強いっすもん」


「いい大人がなにをしてるんだって思うよ」


「あはは……」


「胃、大丈夫っすか?」


「はい、大丈夫です。すみません、気を遣わせてしまって」


「謝ることじゃないだろう。いつも弥生ちゃんが頑張ってるのは知ってるし、こうやって長く働けてるのは弥生ちゃんのおかげだし、すごく感謝してるんだから」


「そうっすよ」



 あと少し。あと少しだけ笑っていれば、一人の時間が作れる。

 だから、もう少しだけ頑張ろう。


 心配してくれている彼たちの話を聞いているような反応をしておいて全く聞いていない私は、心の中で自分にそう言い聞かせてその場をやり過ごしていた時、「清水さん」と私を呼ぶ声が聞こえた。

 声がした方に顔を向ければ、いつもは誰とも会話をせずに机に突っ伏して過ごしている30代の女性がこちらを真っ直ぐ見据えながら仁王立ちをしていた。その姿に妙な胸騒ぎを覚えるも、席から立ち上がって『どうしました?』と声をかけると、足早にこちらへ近づいてくる。そして、私を心配してくれていた彼たちを押しのけて私の隣の席に座ってきた。



「聞きたいことがあって」



 彼女の勢いに押されて彼たちは唖然としていて、私も勢いに押されていたけれど、口角を上げて少しだけ首を傾げる。



「はい、どうしました?」


「清水さんって、なにか飲んでる?」


「え? あの、何かって例えばなんですか?」


「わたしと同じような薬。精神の」



 ──心臓が、止まった気がした。


 同時に思考も停止したけれど、早く返事をしないと肯定していることになるから無理やり思考を動かし、動揺が顔に出ていないか内心焦りながらも私はその場を乗り切るために口を開く。



「飲んでませんよ? どうしてですか?」


「飲んでるわけないでしょ。清水さんは職員なんだから」



 ズキッと胸に痛みが走る。



「だって、わたしと同じだから。体は細いのに顔がまるい。それに一時期太ってたからそうなのかなって。職員さんにもそういう人がいるのかなって思って」


「俺たちと同じだったら、そもそも職員になれないでしょ」


「わたしはそう思っただけ。でも飲んでないならスッキリした」



 後ろめたさに胸が締め付けられた後、私はどうやってその場を切り抜けたのか記憶がなく、気が付けば事務所にいた。


 ハッとして時計を見れば17時半が過ぎていて、手元にあるパソコンには、サビ管しかやってはいけない書類の画面が開いてあった。それを一から確認していけば、間違ったことは入力していなかったから仕事だけは無意識にでもきちんとやっていたみたい。



 はぁ……とため息をつき、手で顔を覆う


 まさか、気づかれていただなんて。

 本人たちにしか分からない事だから気づかれても仕方がないとは思うが、あの後ちゃんと納得してくれたのかは覚えていないから分からないけど、彼女だけじゃなくて色んな人から暫くは疑いの目で見られることになるんだろうな。


 それに私は耐えることが出来るのか不安を抱きながら、こういう雰囲気にさせた彼女にどうしても怒りを覚えてしまう。

 彼女は純粋に疑問に思ったから悪気もなく訊いてきたのだろうけど、訊かれたこっちは何かの嫌がらせとか、服薬していることなど何も知らない上司たちが仕組んだのかとか色々勘ぐってしまい、心に余裕など一ミリも残っていなかった。


 二度目のため息をつき、仕事の続きをやってこの感情を一旦忘れようと気合を入れる為に背伸びをすれば、不快な笑い声がすぐ側から聞こえてきてすぐさま上げていた手を元の位置に戻す。そうすれば、ガチャッと荒々しく事務所のドアが開いた。



「終わった?」


「いえ……すみません、まだです」


「相変わらず仕事が遅いわね。引き続きよろしく」


「……はい」


「下っ端なんだから人一倍働かないと。ね?」



 唾を飲み込んだから声を出すことは出来ず、俯きながらコクリと頷けば上司は笑って事務所から出て行った。数秒後には仲良く笑い合っている声が聞こえてきて、私は力いっぱい掌を握りしめる。

 視線の先にある拳で机を思い切り叩いてやりたかったけど、いつものように踏み止まってしまう。そんな自分にまた溜め息をついて、仕方がなくパソコンと向き合う。


 いっそ、放り出してしまおうかとも考えた。この仕事は私の仕事じゃないわけだし、怒られるのだって私ではないし、監査に間に合わなかったとしても私のせいではない。


 色々考えることは出来るというのに、思考とは別に体は動いてしまう。そんな自分が馬鹿馬鹿しくて、きっと今、苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべているに違いない。



 カタカタとキーボードを打つ音が響き渡りはじめて30分が経った頃、休憩室が何やらざわついている。耳を傾けようと一度手を止めたけど、集中が途切れてしまうことを恐れて再び手を動かし始めてすぐのことだった。

 もう開かないと思っていた事務所のドアが開き、勢いよく顔を上げた私と目が合ったのは、日帰りで出張に行っていた施設長だった。



「お、お疲れ様です」


「お疲れ様。いやぁ……こっちは寒いな」


「あ、あの……今日は、直帰する予定だったはずでは……?」


「そうだったんだけど、お土産買ってきたから渡しちゃおうと思って。はい、これ」



 そう言ってこちらに近づいてくる施設長を見て、私はすかさず席から立ち上がる。



「甘い物好きだっただろう? もなかだけどさ」


「ありがとうございます。嬉しいです」



 甘い物が好きと覚えてくれていたことが素直に嬉しかった。

 差し出されたお土産を受け取り、再び頭を軽く下げた時だった。



「今日は珍しく残業なんだな?」



 そう言って、施設長は私のパソコン画面を覗き込んだ次の瞬間、表情が固まった施設長を見て私は自然と息が止まった。


 本来、この仕事は私がしてはいけない。だから見られてはいけないものだったのに、私は画面を隠す暇もなく、ただ施設長を真っ直ぐ見ることしか出来なかった。



「何で君がこれを? これはサビ管の……」



 ──君がやらなくてもいい仕事。


 そう言ってほしかった。

 どこかそう言ってくれるって期待していた。


 けれど私は、解っていたはず。

 現実は、私なんかの味方なんてしてくれないって。



「いや……俺は先に帰るから。お疲れ様」



 逃げるように事務所から出て行った施設長に、私は怒りなど覚えなかった。

 悲しさが心を埋め尽くしていたから。


 期待しただけ傷は大きくなるって解っているのに、馬鹿みたいに期待してしまう自分が嫌いで。殺してしまいたくて。私は倒れ込むように再び椅子に座った。


 休憩室からはいつの間にか騒がしい声が聞こえなくなっていたことに気付いた私は、ポケットからスマートフォンを取り出し、担当医に電話をする為に電話帳を開く。担当医の名前を見つけて、勢いだけで電話をかけた。



「はい」


「あ、もしもし……? 清水です」


「お疲れ様。仕事終わったのかな?」


「あ、いや……残業しないといけなくて。日にちって変更できますか?」


「それは出来ないよ。ごめんね」


「そう、ですよね……あの、20時過ぎても大丈夫ですか?」


「大丈夫だよ。21時までに来てくれたら」


「分かりました。本当にすみません……ご迷惑かけて」


「謝ることじゃないでしょう。迷惑だとも思ってないし、気長に待ってるから慌てないで来るんだよ?」


「……はい。失礼します』



 電話が切れたことを確認してから、はぁ……と深く長いため息をついた。


 19時には仕事を終わらせないといけなくて。けれど終わるわけもなく、家に持ち帰ってやるしか選択肢はなくて。土日に家で仕事をするのと、ここに来て仕事をするのとじゃまだ家の方がいいに決まってる。どっちも休めることはないけれど、いつでも横になれる環境の方がまだいい気がした。


 書類を上書き保存をしてパソコンの電源を落とすと同時にまた溜め息をつき、私は椅子に足を乗せて膝を抱える。


 こういう時に弘樹を頼りたいのに頼れない。

 以前は頼ることが当たり前だったから、まだそういう考えになってしまう自分がとても醜くて仕方がない。


 今は、誰一人と頼れる人が私にはいない。

 それが何もかも物語っていて、膝を抱える力を強めた。



「甚い……甚いよ……」


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