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第8話


 いつものように死んだ目でホットコーヒーを買い、電車が来るまでいつものようにプラットホームのベンチに座って飲もうとも思ったけど今日は今すぐに座りたい気分だった。

 カフェを出て外にあるベンチに座って手に持っているコーヒーに視線を落とすけど、飲む気にはなれない。今までで一番キリキリとした胃の痛みが襲っていたから。


 飲まないなら買うなって自分でも思う。でも、買うのが日常になったから。


 最初はそれこそ家にいたくないから時間潰しだけの為にコーヒーを買っていたけど、今では買わないと一日のやる気というか、仕事モードがオンにならずにずっとオフの状態のままでいてしまう。気持ちが沈んだまま、二度と立ち上がれなくなりそうな気分でいるのは仕事にも支障が出る。だから私はその憂鬱さを吹き飛ばすってわけじゃないけど、気持ちのリセットをするためにも今は飲んでいるって言うのが正しいのかもしれない。


 ただ、今日は胃が痛くてそれどころではなかった。

 弘樹の件も勿論だけど、仕事に行きたくない気持ちがピークになっていた。


 あんな理不尽な職場に行きたいって思う方がおかしい。


 自分だけ頑張ってるだとか、大変だとか、なんで私だけ……だなんて思っちゃいけないって分かってる。私だけが頑張ってるわけでも、大変なわけでもないから。ちゃんと分かってはいるんだけど、どうしてもそう思ってしまう。


 二つの気持ちが天秤にかけられた時、私は後者の気持ちがどうしても重くなってしまうから、私はまだやれるって痣や傷だらけの膝を支えて立ち上がり、足を引きずってでも前へ進んでしまう。

 もうとっくに限界を迎えているというのに。



 キリキリとした痛みと、胃に出来た穴がどんどんこじ開けられていくような新たな痛みを感じていると、足元にふと影が落ちた。



 「あの、大丈夫ですか?」



 顔を上げると、私と年が近いであろう男性が私の顔を覗き込んでいた。

 私は急いで体勢を戻し、彼から距離を取った。



「え、あ……大丈夫です……」


「腹痛ですか? それもと胃痛ですか?」


「へ……?」


「腹押さえてたんで」



 そう言われたから私はすぐさま視線を落とす。コーヒーを持っていない方の手で腹部を押さえていたことに気付いた私は、何事もなかったように腹部から手を離し、行き場を失った手を膝の上にぎこちなく置いた。



「いや……別に痛いわけじゃ」


「もう一回訊きます。腹痛ですか? 胃痛ですか?」



 真っ直ぐ私を見据えながらあまりにも真剣に質問をしてくるから誤魔化せるわけもなく、私は彼から目を逸らして、肩がどんどん内側に入ってくるのが分かるくらい私は異常なほど背中を丸めた。



「……胃が」


「胃痛でコーヒーですか」



 誰でも胃痛の時にはコーヒーを避けることなど知っているわけで。それなのに飲んでいるのかと彼に思われてそうで恥ずかしくなった私は、左右に目が泳ぎ始める。そんな私と違って、彼はまた問いかけてくる。



「薬は飲みました?」


「……効かなくて」


「なるほど」



 私の表情や声を聞いた彼は何かをすぐに理解したようで、小さく何度も頷いてから今度は私が持っているコーヒーを指差した。



 「コーヒー好きなんですか?」



 まさかそんな質問をされるだなんて思っていなかったため、すぐに答えることが出来なかった。


 早朝にベンチで蹲っている人など私以外にも山ほどいて、そんな人に「大丈夫?」と声をかける自体珍しいというのに、こうやって会話を続けようとしていることが不思議で仕方がなかった。

 考えても理由なんて解らないけど、彼は苦しんでいる人を放っておけないタイプなのだろう。と、彼を勝手にそういう人物に仕立てあげていた。



「あ……はい……」



 コーヒーを飲むのに好きも嫌いも考えたことがなかったけど、飲まなくても生きていけると感じるなら、私はそこまでコーヒーが好きではないのだと気付く。けれど、早く答えないと……という焦りから思わず「はい」と答えてしまった。



 「随分と嘘が下手なんですね」



 くすっと笑いながらそう言った彼の声は何かを思い出しているような声で。コーヒーに落としていた視線を彼に向けると、「昔を思い出す」とやっぱり追憶に浸っている様子だった。でも私は、そんなことよりも初対面の人に嘘が下手と見抜かれたというのに、婚約者の弘樹は何も気づいてくれないんだ、と。5年も一緒に居るのに……と思った瞬間、ちくりと針で突かれたような痛みが胸に走った。


 唇をキュッと結び、カップを握る力を少しだけ強めれば、それを見兼ねたのか分からないけど彼が口を開く。



 「これホットミルクなんですけど、よかったら飲んでください。まだ口付けてないんで」



 彼は手に持っていたカップをこちらに差し出した。持っていたことにすら気づかなかった私は、結んでいた唇に少しだけ隙間を作り、目を見開いて彼の目を見た。「どうぞ」と言う声が聞こえると同時に私は首を横に振って、体を少しだけ引いて彼から距離を取った。



「だ、大丈夫です……」


「コーヒーなんかより良いですから」


「これ以上、迷惑をかけるわけにはいかないので……本当に大丈夫ですから」


「じゃあ、交換」


「え?」


「そのコーヒーと交換してくれませんか?」



 手に持っているカップを差し出したまま、もう片方の手で私が持っているコーヒーを指差した。



「あ、いや……」


「俺、死ぬほどコーヒー好きなんで。今日はその、異常にホットミルクが目に入ったから頼んだだけなんで」



 私の為に初対面の人がここまでしてくれているのなら、私はその優しさを受け入れるしかなくて。空気を少しだけ吸い込むと同時に彼から目を逸らし、コクリと頷きながら手に持っているコーヒーのカップを差し出した。



「まだ口付けてないので……」


「ごちそうさまです」


「いえ、こちらこそ……すみません……」


「謝らないでください。悪いことなどしてないんですから」



 カップを交換し、私のコーヒーよりも温かいホットミルクに安堵を覚える。

 いつぶりだろう、こんな感覚。全く思い出せないや。



「あの」



 そんな声に、再び私の視線は彼に向く。



「余計なお世話だってことは解ってるんですけど」


「……はい?」


「痛くないふりをしていると、いつか本当に痛くなくなる」



 周りの雑音を排除し、彼の声だけを耳が鮮明に拾い上げた。

 それは気持ちが悪いほどに。



 「負の感情は溜め込むべきじゃない」



 彼の言葉が私の心に深々と刺さり、喉に刺さった骨が抜けないみたいな苦しみが私を襲う。

 ただ、私に言っているはずなのに、彼は私を通して誰かに言っているような気もした。


 目を見開いたまま力を入れて、瞬きもせずに彼を見続けているから痛くて仕方がなくて。半開きになっていた口を閉じて眉間にしわを寄せて俯けば、彼は私から一歩離れた。



「大丈夫か聞かれたら大丈夫としか答えられないですよね。すみませんでした」



 再度顔を上げた私と目が合った彼自身も何故か少しだけ苦しそうで。声をかけようと息を吸い込めば彼は軽く頭を下げて、私に背を向けて歩いて行った。


 申し訳なさが生まれたり、苦しさを感じたりしたけれど、夢かと思うくらいとても心地のいい空間だった。だから彼の後ろ姿が小さくなっていくのを見て、これから仕事に行かないといけないという現実を突きつけられると、いつの間にかなくなっていた胃痛が再び私を襲う。


 放っておけないタイプの人間だとか、お人好しという言葉で片付けられないくらい、彼はとても優しい人だった。見返りを求めないその優しさが今の私には異常なくらい心に染み渡って、これから出勤だというのに、目を赤くしていたら馬鹿にされるって分かっているのに、じわりと涙が浮かんできてしまう。



「先輩」



 先ほどの彼の少し大きめな声が聞こえ、私は釣られるように再び顔を上げた。

 俳優と勘違いしそうなくらい顔が整っている黒髪の男性が彼に気付いた瞬間、自分の居場所が分かるように手を上げて、彼が自分の元に来るのを待っている様子だった。



「外に出たらいなかったから置いて行かれたのかと思った」


「そんなわけないでしょ。でも、すみません」


「どこに行ってたの?」


「まぁ、ちょっと。はい、これコーヒーです」


「……僕、ホットミルク頼んだよね?」



 手に持っているホットミルクに視線を落とす。



「そうでした?」


「僕がコーヒー飲まないって知ってるよね?」


「そうでした?」


「本当……まぁ、たまにはライバル店のコーヒーも飲んでみるべきか」


「チェーン店をライバルとは言わないでしょ」


「ライバルだよ! コーヒーを売ってる時点で」


「世界各国にあるチェーン店がライバルですか」


「久世って驚くほど欲がないよね」


「ありますよ」


「いーや、ないね」


「はぁ……決めつけないでください。元々俺の店なんだから、欲はあるに決まってるでしょ」


「それもそうか。でも自分の欲はないよね」


「もう、勝手に言っててください」



 仲が良いのだとすぐ判る関係性に羨望の眼差しを向けながら二人の後ろ姿を見て『ごめんなさい』と心の中で謝り、躊躇いながらも温かいミルクに口をつけた。



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