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第7話


 胃の痛みで意識がはっきりとしてくる。

 自分が今まで寝ていたのか、それともただぼーっとしていたのかは分からない。何の判断も出来ない。それは多分、知らない間に薬を飲んでいたから。



 弘樹がいつも通り私を抱きしめながら寝たのを確認してから寝室を出て、いつものようにトイレへ駆け込んだ。


 泣いて、吐いて、発作が起きてと、ここまでは覚えている。普段だったらトイレの中や、廊下で気を失っていることが多いのに、今日は寝室のインテリアが視界に飛び込んできた。ということは発作が起きて、気を失う前に薬を飲むことが出来たから、私は久しぶりにちゃんと寝室へ戻ることが出来たのだ。それが嬉しいのか嬉しくないのかは、よく分からない。


 心の中でなのか、口に出したのかすら判断が出来ない溜め息をつき、不快な痛みが走る胃を撫でようと腕を動かそうとしたけど動かなかった。それは、弘樹が私を抱きしめて寝ていたから。


 驚いて後ろを向けば、気持ちよさそうに眠っている弘樹の顔が間近にあった。

 そんな弘樹を見て、私はただただ苛立ちしか生まれない。


 夜中に浮気相手へ愛の言葉を伝えていたというのに、私を抱きしめて寝るその根性が凄い。ある意味、感心する。



 起こさないようにと慎重に弘樹の腕から抜け出し、暗闇に慣れた目で弘樹のことを見据えるように見下ろす。


︎︎ あまりにも私を馬鹿にしている弘樹の行動に腹が立って仕方がない。

 弘樹のことを叩いて気が晴れるなら叩きたいよ。でもそれで気が晴れるほど、私は出来た人間ではない。


 やり場のない憤りを感じ、気が付けば口の中に鉄の味が広がった。それによって眉間にしわが寄った私は、これ以上自身を傷つけない為にも寝室から出た。



 普通は抱きしめて寝る、なんて出来ないでしょ。

 一緒に寝ることだって、気持ちよさそうに眠ることだって普通は出来ないはず。

 電話だってそう。私に聞かれちゃまずいんでしょう? 家の中で電話なんかして、私に聞かれるって一ミリも思わなかったわけ?


 相手もそうだけど、危機感がなさすぎる。

 いや……相手はバレてもいいって思ってるのかな。


 図太い神経を持っていないと、相手がいるのに手なんか出さないよね。


 もし私の考えが合っているのなら、あまりにも下に見られてるな……なんて。



 私には理解できないことが世の中には沢山あって。それらを考えながら薬が入っている引き出しを開けるけど、最後にいつ飲んだのか分からないのに飲んでいいのか分からず、朝に飲まないと本当はいけないけれど、私はそっと引き出しを戻した。その瞬間から、私はいつもの日課を行っていく。


 夜中の出来事が私のやる気を削いだ為、今日はいつも以上に化粧も料理も適当になった。


 本当は不愉快な弘樹のぬくもりが残っている体を洗い流したかったのだけれど、今日はとにかく早くこの家から出ることが最優先だったからシャワーを浴びるなんて余裕はなかった。ただ、もう家を出れるという直前でまた強烈な胃の痛みを感じ、背中を丸めて今にもその場に蹲りそうになるも、膝に手を置いて痛みに耐える。

 床でのたうち回っていたら家を出る時間が遅くなる。そう考えるだけで抑えきれない衝動に駆られ、プルプルと手が震え始める。


 鞄を持って、玄関のドアを開けたら息がしやすくなるんだよって。一時的にでも弘樹のことを忘れて、怒りなんか覚えなくて済むんだよって、自分にそう言い聞かせている間、息を止めると胃の痛みが和らぐことに気付いた私は、息を止めながら必死に鞄の元へ向かう。

 鞄を手に持ち、息を止めているのが苦しくなって大きく息を吸えばまた痛みが走って。ガクッと膝の力が抜けてその場に倒れそうになるも、壁に手をついて何とか耐えた私は足を引きずりながら玄関へ移動した。



 鉄のように重くなった靴を一生懸命履き、もう家を出るだけだというのに、職場に行きたくない気持ちがドバドバと溢れてくる。


 今まで正常に出来ていた呼吸も乱れ始めて、今日はどんな嫌味を言われるのか。どんなことを言われて辱められるのかなど、色んな事を想像していたらまた胃の痛みが強烈になって……息を止めれば痛みが和らぐことを知っていた私は息を止めようとしたが、既に息を止めていたらしい。


 止めていたのならよかったのだけれど、息が出来ないということにすぐに気づいた私は、助けを求めるように玄関のドアノブに手をかけてドアに額を押し付けたその時だった。



 ガチャッと、後ろでリビングのドアが開く音が聞こえた。



 ドクンと心臓が跳ね上がった感覚によって口から空気を吸うことが出来たけど、大きく跳ね上がった心臓の感覚があまりにも不快だった。それによってなのかムカムカしてきた胃を押さえながら恐る恐る後ろを振り向けば、寝ぼけ眼を擦りながらこちらに近づいてくる弘樹の姿が視界に飛び込んできた。


 なんで……と声を出そうと思ったのに、私は無意識に弘樹の名前を口に出していて。それに気づいた弘樹が薄ら目を開けると、覆いかぶさるように私を抱きしめてきた。


 今日は2時まで顔を見たくなかった。

 それなのに、どうして今日に限って起きてくるの。いつもは起きてこないくせに。



「弥生、もう行くの……?」


「……うん」


「いつもこんな早いんだね……知らなかった」



 そうだよ。いつもこんな早く家を出てるんだよ。

 こんなに早く出て行く理由もそうだし、私が必ず5時に起きてしまうのも、胃痛に耐えながら日課を行なっているのも、職場に行きたくないことも、浮気をしている弘樹は何も知らないよね。


 寝ぼけてなのか呑気にそう言えることに腹を立てているのに、弘樹は更に追い打ちをかけてきた。



「あー……やっぱり、弥生の隣が1番安心する……」



 なによ、それ……私の隣が〝1番〟安心する、って。


 そもそも、1番ってなに? 1番もなにもないでしょ。婚約者なんだから。数字を付けることもそうだし、発言自体もそうだけど──2番目に誰かがいることがまず可笑しいでしょ。


 ふざけてる……夜中からずっと。私を弄んでそんなに楽しい?

 弘樹と恋人になって5年が経っているとういうのに、弘樹はその間に私の何を見てたの?

 私はそんなに鈍感な人間じゃないって知らなかったの?



 ──結婚してくださいっていうプロポーズの言葉は、一体なんだったの?



 私が好きだからじゃなくて、別れるにも別れられない年月が流れてしまったから、よく分からない使命感に駆られて私にプロポーズをしたの?

 結婚せず、私を見捨てるのは自分を殺すことと同じように感じたからとか?



 腸が煮えくり返りそうになりながらも、おさまらない動悸と眩暈を共に堪えて、だらんと垂れ下がっていただけだった手で弘樹の肩を押した。



「ごめん……もう行かないと」


「そっか……気を付けてね」


「……いってきます」


「うん。いってらっしゃい」



 こちらに手を振る弘樹にぎこちなく手を振り返し、家を出る。

 ドアノブを掴んだままドアを閉めて弘樹の視界から私が完全に消えた瞬間、手に持っている鞄をドアに思い切りぶつけてやりたい衝動に駆られたけど、私にはそんな勇気など当然なくて。私はまた、何も出来ずに唇を噛み締めながら掌を握りしめた。


 新しいことを知っていく度に、何かがすり減っていく感覚を覚える。


 帰りが遅くなった事。知らない香水を平気で纏うようになった事。目を見なくなった事。顔が険しくなるようになった事。平気で嘘をつくようになった事。私のことに何も気づいてくれなくなった事。そして、先程の1番という発言。


 力いっぱい掌を握りしめている私の手はプルプルと震えていて。じわりと今にも目に涙が浮かんでくるあの感覚を覚えた私は、その場に蹲って自分を慰めるようにきつく抱きしめた。

 そんな私を、氷のように冷たい風が慰めた。



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