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第2話


「クシュンッ……」



 自分のくしゃみで意識が戻ってきた私は、ゆっくりと目を開けるなりブルッと身震いをした。

 ああいう状態になったら薬を飲まないといけないのに、薬を取りに行く気力が端からなかった私はいつしかトイレから出た廊下で眠っていたらしい。


 虚ろな状態で体を一通り触って異常がないか確認する。

 怪我はないし、少し頭が痛いくらいで呼吸も正常だ、と安堵を覚える。


 それでも薬は飲まないといけない。


 死んだように冷たくなった体はとても怠くて、体に鞭を打ちながら起き上がり、壁伝いに歩いてリビングまで移動する。ソファに座って一息つくとかそういう寄り道は一切せず、棚に隠してある薬を取り出して、棚の横に常備してあるペットボトルの水で胃に流し込んだ。


 常温の水で流し込んだというのに、何故かキンキンに冷えた水のような感覚を覚えた。

 自律神経が乱れているってことを再確認しながら私はようやく時計を確認した。


 時計の針は5時を指している。

 今日もまだ外が暗い時間に必然と起きてしまった。ううん、今日も同じ時間に起きてしまった。アラームもなしに、毎日毎日同じ時間に起きてしまうのはある意味病気なのだろうか?

 これ以上、自分が病気ということを自覚したくないんだけどなぁ。



 カーテンの隙間から見える真っ暗な空を見ながらそんなことを思い、6時半までに身支度、洗濯、朝ご飯を終わらせないといけない事に思わずため息が漏れてしまう。


 何故、6時半までなのか。

 それは、駅のカフェが6時半からしかやってないから。


 出社は8時でいい。けれどその時間までこの家に居ないといけないのは、あまりにも地獄すぎる。だからカフェでコーヒーをテイクアウトし、電車が来るまでコーヒーを飲んで時間を潰す。


 まあ、家から出ても地獄はどこまでも続いているんだけど。

 私が行く所は全て──地獄だから。



 ズズッと一度鼻をすすり、気合を入れる為にいつも先に身支度から済ませてしまう。

 着替えをして、それなりにスキンケアをしてからベースメイクをするために再度、鏡の中の自分と目を合わせる。そこには目の下に酷い隈が出来ている自分の姿があって、思わず顔を背けた。


 顔を背けたことによって、私は自分の影が視界に入る。ゆっくりとその影を撫でる。

 いつだったか影を撫でたことによって自分の背中を撫でられているような感覚を覚え、それから自分の影が目に入ればこうしてよく撫でている。


 辛くても大人になると誰もこうやって慰めてはくれないから自分自身で慰めるしかない。

 本当は弘樹に背中を撫でてもらいたいけど、それは夢のまた夢だから。


 この家は唯一休める場所だったのに、笑えることが出来た場所だったのに……早くこの家から出て行きたいだなんてとても悲しい。

 緩くなってしまった婚約指輪を見ながらそんなことを考えて、深くため息をついてからようやくメイクをし始める。



 リップを塗り終わった頃、ふと思う。

 私はいつからメイクが楽しいと思えなくなったのだろう、と。


 色がついていない自分の唇を見て悲しい気持ちになった私は、また自分から目を背けた。


 以前までは、リップを塗るのが楽しくて楽しくて仕方がなかったのに、マスクで隠れるからって薬品リップだけになったのはいつからだったかな……?

 こうやって何もかも目を背けないとやっていけない自分があまりにも情けなくて、毎日のように自分がとても弱いという事実を突きつけられて、心臓が縄か何かにきつく縛り付けられてしまったみたいな痛みが走った。


 膝に手をついて立ち上がろうとしても弱い私は、中々立ち上がることが出来なかった。



 ──お前は一生、こうやって生きていく運命なんだ。


 自分の声でも、弘樹の声でもない。けれど、耳元で誰かがそう呟いた気がして悔しかった。

 ただ悔しかったという気持ちしか生まれない。


 だって実際、そうだと思うから。

 出口が全く見えない。どれだけもがいても、前へ進んでも、全く光が見えない。


 私に救いの手を差し伸べてくれる人など、誰一人としていない。頑張ったねって、辛かったねって、そう言ってくれる人も、弱音を吐き出せる人も誰一人としていない。



 私は独り。

 結婚したとしても、この先ずっと独り。


 ──独りぼっちだ。



*


 洗濯物を干し、あとは弘樹の朝ご飯を作るだけ。


 いつか、朝ご飯はコンビニで済ませて。その方が家を出る時間も少しは遅くなるんじゃない? なんて言える勇気が私に生まれるだろうか? いや、言えない。私にはいつまで経ってもそんな勇気なんて生まれない。もし勇気が出たその時は、私が相当精神的にやられている時だけ。


 今までそんなことになったことがないから全て憶測でしかないけど。


 癖になってしまった深く長い溜め息をつきながら、重すぎる冷蔵庫のドアを必死になって開けた。



「ない……」



 昨日の夜に弘樹の為に作っておいた夜ご飯の姿はなく、視線をずらして水切りカゴを見ると使用したお皿が洗って置かれていた。


 どんなに遅く帰って来てもこうやって全部食べてくれることに嬉しさを覚えるけど、複雑な感情が生まれるのも事実。


 向こうで食べてきたくせに、無理をしてまで私のご飯まで食べて……色々周りを見渡しても紙などなく、美味しかった、美味しくなかったの感想もないから作り甲斐も何もない。もういっそ、黙って作らないでいれば浮気のことを勘づいているって分かってもらえるだろうか。

 何も言わずに作り続けているから、弘樹は私に一ミリも申し訳ないっていう気持ちが生まれないんだろうね。


 私なら、理解してくれるだろうっていう気持ちでいるだろうから。


 鼻にツンとした痛みが走り、じわりと浮かんでくる涙を手の甲で拭い、色んな思いを抱きながらも私は今日も弘樹の朝ご飯を作る。でもその前に、自分の朝ご飯を済ませる。さくっと飲めるゼリーを一気飲みし、そこまで手の込んだものは作る気にもなれず、作り慣れた握らないおにぎりを作った。


 完成したソレをじっと見つめてから目を閉じる。



[今日も朝ご飯作ってくれてありがとう。めっちゃ美味しかった!]



 以前だったら、写真付きのメッセージを欠かさず送ってくれていたけど今はそれもなくて。味の感想すらもなくて、ただただ虚しく弘樹の胃袋の中に入っていくだけ。



 ゆっくりと目を開けて、心の中でソレに問いかける。

 キミたちは美味しいの? それとも不味いの? 私には分からないからさ。もう何ヵ月と自分の作ったご飯を食べてなくて、ちゃんとした味付けになっているか分からないんだよね。だからさ、キミたちが教えてよ。



「……馬鹿みたい」



 話し相手が、慰めてくれる相手が自分の影とこういう物だなんて。それを毎日続けているだなんて。同情なんかしたくないのに、どうしても自分に同情してしまう。そんな事をしたって、何一つと解決なんてしないというのに。自分の心が楽になるだなんてことないのに……どうしても自分を可愛がってしまう。


 対して価値のある人間でもないのに。



 ──だから私は、浮気なんてされてしまうんだ。


 能天気な人間になりたい、とつくづく思う。

 生きているだけで幸せだって、思えるような能天気な人間になりたい。


 まぁ、そんな生き方は一生出来るわけもなく、6時半を過ぎたからさっさとこの家から出て行こうと床に置いていた鞄を持ち上げた瞬間、胃に強烈な痛みが走る。



「いっ……」



 立っていることもままならないくらいの痛みに、発作とは違う辛さが私を襲う。


 あの薬を飲むと代謝が悪くなったりと、どうしても太りやすくなる。普通の量のご飯を食べると太るし、運動するなんて気力も今の私にはないし、食べると胃の痛みも覚えるようになったから食べる量を極端に減らした。ゼリーとかゆで卵とか、とにかく少量でもお腹に溜まる物を食べるようになった。


 そんな物しか食べていないというのに食べる度に、水を飲む度に胃が痛くなるようになっていたが、今では胃に何かを入れてなくても痛くなるようになってしまった。


 最初はストレスで胃が痛くなっていたけれど、今はストレスだけでこうなっているとは思っていない。けれど病院には行かない。だって既に〝病院〟には行っているから。


 これ以上薬が増えるのも嫌だし、自分が病気だってことを再確認するのも嫌だ。その為、市販の胃薬や鎮痛剤を飲んで痛みを和らげていたけれど、今ではそれらも効かない。だから痛みが少しだけ収まるのを、ただひたすら待っているようになった。


 声には出さず、心の中で『痛い痛い』と言っていると次第に痛みが和らいでいく気がして、私はひたすら心の中で『痛い』を繰り返しながら床でのたうち回っていた。



 発作でも、胃痛でも体力を無駄に使い、私は朝から既にヘトヘトで。額にじわりと浮いた脂汗を拭った際に先程よりかはだいぶ良くなった胃の様子に気づいた私は、体に鞭を打ちながら立ち上がって仕事へ向かう為に玄関に移動する。


 お洒落な靴なんて履かずに歩きやすい靴を履く。

 姿見で自分の格好をチェックもしないで玄関のドアを開けた。


 ただ、そのまま家を出るのではなく、一度踏み止まった。



 いってきますも、いってらっしゃいもなくなって、もう長い間私たちには会話がないことを弘樹は何とも思ってないのかな。



 ねぇ……本当にこれで──婚約してるって言えるの?



 胃のあたりの服を力一杯握りしめて、家の中ではなくドアノブを睨みつけてから、私は家を出た。




*


「お待たせいたしました。ホットコーヒーです」


「ありがとうございます」



 ショートサイズのホットコーヒーをテイクアウトし、一口も飲まないで改札を抜ける。

 プラットホームまで来たら電車が来るまでベンチに座って少しずつコーヒーを飲む。キリキリと痛む胃を無視して。


 疲れた。まだ一日が始まったばかりだというのに。

 このまま、誰にも言わずにどこか遠くに行ってしまいたい。遠くじゃなくても、誰の視線も気にすることのない静かで、ちゃんと息が出来る場所へと行きたい。


 羨ましいなぁ。家が休める場所と言ってる人が、仕事が楽しいと言ってる人が。私も頑張っていれば、いつか仕事が楽しいって言える日がくるのかな?



「……くるのかな?」



 職場であった出来事が走馬灯のように頭の中で流れてはズキッと胃が痛み、それがきっと表情に出てしまっている。


 これから行こうとしている場所では、一切それが許されない。喜怒哀楽、どれも許されない。

 感情を持たない人形のような笑みを浮かべるのを望まれているわけでもない。とにかく視界に入らないことを求められている。そんなの無理な話なのに。


 どの表情を浮かべても癪に障るって、ある意味すごい。


 何かをしてしまった記憶がないから、どうしてこんな仕打ちを受けているのか理解が出来ないけど、私は根っから人に恨まれる人間なんだなってつくづく思い知らされる。



 本当、人間関係って難しい。

 昔の私はどうやって人間関係に溶け込んでいたのだろう。


 最近、昔のことを思い出すのが難しくなっている。

 別にこれに関しては故意に思い出さないようにしているわけではないのに。



 やっぱり、飲んでいる薬のせいなのだろうか。そうとなれば私は諦めるしかない。

 飲んでいる薬を突然すっぱりとやめることは出来ないから。



 プラットホームにアナウンスが流れて、少ししてから電車の姿が見えたため、ホットコーヒーだというのに一気飲みをした。飲み切ったカップをゴミ箱に思い切り投げ捨てたい衝動をグッと堪えて、置くように静かにカップを捨てた。


 田舎ではないからこんな朝早い時間帯に電車に乗る人が沢山いる。

 既に何人か並んでいる列に私も並ぶ。その後ろに仲良しであろう学生二人が並び、会話の内容まではよく分からないけどとても楽しそうに笑っていた。その子たちがどんな表情で笑っているのか見ようと振り向こうとしたけど、咄嗟の判断で振り向くのをやめた。


 小さくプシューと音を鳴らしながら開いたドアを共に、乗車していた人が降りてくる。前の人が歩き出すと同時に私も歩き出し、それぞれが椅子に座ったり、入ったドアに向かって立ったりとしている中、私はドアに背を向けた状態で吊り革を握った。


 どんな事でも振り返ったら、もう頑張れないことを私はちゃんと理解している。だから私は後ろを振り返らないように、今日も必死にもがいていくことを想像しながら、足元に落ちている自分の影を目的の駅に着くまで見つめ続けた。



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