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第1話


 暗闇の部屋で、深夜番組をぼーっと眺めている。

 テレビをつけて数時間が経っているのに、何一つとして頭に入ってこない。


 それもそうだ。消音にしているわけじゃないのに、テレビの音よりも何故か秒針の方が勝っているのだから。

 でも、字幕を読んでいるというのに何も頭に入ってこないのも、また異常だと思う。


 異常な自分を自覚しては心が軋む音が聞こえ、現実逃避をしようと目を伏せた時に瞼が重いことに気づく。故意に見ないようにしていた時計に視線を向ければ、針は夜中の2時を指している。



「今日も、2時……」



 この時計でこの時間を見るのは、一体何回目だろう。その度に心を痛めているのは何回目だろう。途中から教えなくなった私は偉いのか、それとも偉くないのかは分からない。判断もできないくらい、今の私は正常ではない。


 虚ろな目をゴシゴシと擦りながら重くなった腰を上げて、足を引きずるようにしてダイニングテーブルまで行く。ラップをしてある料理のお皿を手に持ち、冷蔵庫に入れる。いつもの定位置にそのお皿を置き、力一杯冷蔵庫を閉めたい欲をグッと堪えて静かに冷蔵庫の扉を閉めた。


 普通ではなくなった頭では色々と判断しづらくなっているけど、私がしている行動はとても愚かだってことだけは解る。



 溜め息をつくと同時に背中を丸め、また足を引きずるようにして歩きながら今度こそ寝室に行く。倒れ込むようにベッドへ横になって目を閉じるが、眠気なんて当然のように襲ってこない。


 自分が不眠症になった正確な時期も分かるし、こんなに酷くなってしまった時期もちゃんと分かっているけど、どうしてもさらに強い睡眠薬には頼りたくなかった。これ以上、飲む薬を増やしたくなかった。


 でも、こんなにも辛い思いをしているのならそろそろ頼ってもいいんじゃないか? なんて思ってしまう自分もいる。

 どんどん自分がダメな方向の考えになっていることが悲しくて、自然と涙が浮かんでくる。それを皮切りに仕事のこととか、私生活のこととかをグルグルと考え込んでしまい、寝たいのにどんどん眠気が遠のいていく。


 もう寝たい。明日も早く家を出て行くというのに。

 今すぐにでも寝ないと体が持たないのに。


 久しぶりに嫌なことを全て忘れるくらい熟睡したい。

 自分のことすらも忘れてしまうくらい、何年と寝ていたい。できるなら一生、寝たままで生涯を終えたい。


 毎日のようにこんなことを考えている自分がふいに馬鹿馬鹿しく思えた。

 もっと違うことを考えたり、楽しかったことを思い出したりすればいいのに、それすら今の私には難しい。


 思い出せることは思い出せるけど、今の状況と比べてはイライラしてしまう。ただ無邪気に笑っていた頃が、幸せだと感じていた頃が自分のことだけどあまりにも羨ましくて故意に思い出さないようにしている。


 それらから目を背けることで、なんとか自分を保っていることが出来る。なんてことはないけれど、そこまでしないといけない状況になっていることがとても悲しくて、泣くのを我慢するように枕に顔を押し付けた。



 グルグルと色んなことを次から次へと考えているうちに欠伸をする量が増え、ようやくうとうとし始めた。


 あぁ、やっと寝れる。

 安堵を覚えたその時、ガチャガチャッと玄関のドアの鍵が開いた音が聞こえ、うつらうつらしていた意識がはっきりと戻ってくるなり、無意識に体が強張った。



 いつから婚約者である弘樹の存在を感じると、緊張するようになったのだろう。



 壁が薄いため、なんでも聞こえてくる。


 小さく水の音が聞こえた後、すぐに寝室のドアが開く。

 すごく緊張しているのに、鼓動は正常のまま。いや、いつもよりゆっくりと鼓動を打っている。それがとても不気味で、思わず布団の下にある掌を力一杯握りしめた。


 ギシ……という音と共にベッドが沈んだ。



「ただいま、弥生やよい



 今日も思わず眉間にしわが寄ってしまうくらい甘い香りを纏いながら深夜に帰ってきた弘樹は、私の髪に触れながらベッドに横になると後ろから私を抱きしめた。


 嫌いな〝ニオイ〟がダイレクトに私の鼻に届くのも、手を洗ったからといっても誰かを愛おしく触った手で触れられるのも生理的に無理。

 今にも吐きそうな思いをしているというのに、私は長い間、弘樹の行動を拒めないでいた。



 胃液が這い上がってくる感覚を、ここでも必死に耐えてしまう。


 早く、早く出て行って……目を閉じて、何度も心の中でそう呟いていると、私の気持ちは弘樹に伝わっていないとしても、さっと私から離れた弘樹は寝室から出て行った。


 完全に寝室から離れたことが分かった瞬間、パンパンと触れられたところを振り払い、弘樹が私を抱きしめていたように今度は私が自分自身を抱きしめた。動悸をし始めた心を落ち着かせる為に。



 弘樹の存在を感じた時からずっとしていたであろう胃の痛みをようやく覚え、キリキリと痛む胃を押さえながらその場に蹲る。ふぅっと吐く息がとても揺れていて、それが無性に悲しかった。



「痛い……」



 抗不安剤を飲んだというのに眠気は襲ってこないし、なんなら今にも発作が起きそうだ。

 息が上がってきて先程までと違って動悸も激しくなり、手の震えも出てくる。ビリビリと指先が痺れだす。その手で口を覆い、必死になって出て行ってしまう息を戻そうとするけど、そんな努力は無駄で。諦めた私はすぐにも鼻呼吸へと戻す努力をし始める。


 早く落ち着かないと弘樹が帰って来てしまう。


 私の今の状況を弘樹は知らないから。気づいてもくれないから。

 ずっと、もうずっと。一人で抱えている。



 結局、弘樹が帰ってくる前に落ち着くことも寝ることも出来ず、先程とは違って落ち着く匂いに包まれた弘樹が布団に入ってくると、また後ろから私を抱きしめてきた。


 本来なら抱きしめられて嬉しいはずなのに、こんなにも苦しくて痛い思いをするハグを私はいつまで耐えないといけないの? そう考えている間も、私は必死に鼻呼吸をして。そんな必死さを弘樹は知る由もなく、少し経ったら寝息がやっと聞こえてきたから私はすかさずベッドから抜け出して寝室を後にする。


 ソファに座ろうと暗闇の中ソファに視線を向けるけど、我慢していた発作が今にも起きそうだったため、急いでトイレへと駆け込んだ。


 結局トイレに駆け込んでも声を押さえるのは同じで、もう……本当に死ぬほど辛い。涙も、過呼吸も、弘樹の浮気も、仕事も何もかも辛い。



 誰かが言ってた。

 別れて辛くなるなら、一緒に居て辛い方がいい──と。


 弘樹と付き合って5年。

 婚約して半年。


 そして浮気に気づいたのは、プロポーズを受けてすぐ。


 この浮気を結婚してからも見逃せと? 

 勘の鋭い女じゃなく、何も気づかない愚かな女を演じていけと?

 この現状に半年も我慢し続けてきた。それなのにまだ、我慢し続けろと?



 体力が底をついた私は、体を支えることが出来ず思い切り壁にぶつかった。

 頭、肩、腕とぶつけた所よりも心臓と胃が痛くて、涙も止まらないから喉も痛くて。そんな自分を落ち着かせる為に、左の薬指してある指輪に触れた。


 私は、私は……幸せになりたくて生まれてきたのに──。



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