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第7話 世田谷区・スタジオ繭②

 石波いしなみ小春こはるを羽交い締めにしようと試みた不田房ふたふさ栄治えいじが呆気なく跳ね飛ばされている。体格差だってそれなりにあるのに、いったいどういうことなんだ。


「どういうことなの?」


 間宮まみや探偵が眉間に皺を寄せて唸る。


「罪の意識……?」

「そんなもん不田房さんが持つはずないでしょうが! 宍戸ししどさん警察呼んで!」


 もう呼んでる、という宍戸の声を背に鹿野かのは駆けた。コオロギ透夏とうか薄原すすきはらカンジの乱入によって、既にこの稽古場は此岸に引き戻されていた。

 だからもう、何が見えても怖くはない。不動ふどう繭理まゆりの首を絞める石波小春を遠巻きに見つめることしかできない『底無活劇』の関係者たち。青褪めた顔で肩で息をする不田房栄治。そして──


(灘一喜!)


 石波小春と不動繭理を静かに見下ろす、美貌の男。幽霊。

 左手の中指で鈍く輝く翡翠の指輪は、石波小春の左手の薬指で光っているのと同じものだ。

 石波小春の背中に食らい付く。下手に力を込めたら折れてしまいそうな華奢な肉体。「はなして!」と石波小春が叫ぶ。不動繭理の顔が青褪めていく。どこからそんな力が出てくるんだ。



 ──声がする。


「小春ちゃん。もう、やめようよ」


 刹那。

 石波小春の全身から力が抜けるのが分かる。


……?」

「宍戸さあん! 救急車!」

「もう来た!!」


 石波小春の体を後ろから抱え込んだまま、どうにかこうにか不動繭理から引き剥がす。あの声は。鹿野の知らない声だ。灘一喜の声だった。

 姿はもう見えなかった。

 つい先刻まで淡々と実母の首を絞めていた人間とは思えないほどに幼い泣き顔の石波小春が「お父さん、おとうさん、どこなの」と鹿野の腕の中で繰り返している。


「石波小春さん」


 その左手をぎゅっと掴み、鹿野は言った。


「灘一喜さんはもう亡くなりました。二年も前の話です」

「嘘……嘘だよ、そんなの……」


 バタバタと騒々しい足音がする。制服姿の救急隊員たち、それに、


「うわっ、また刑事さん!」

「それはこっちの台詞ですよ薄原さん、宍戸さん、お久しぶりです」

「どうも」


 スーツ姿の刑事──小燕こつばめとかいう名前だったか。鹿野と宍戸、それに不田房が関わる舞台ではなぜだか警察沙汰になる事件が起きることが多く、小燕という名の刑事とも既に何度も顔を合わせている仲だった。


「こっち、救急隊の方こっちです!」

「担架……じゃ下ろせないか、階段が狭すぎる」

「おんぶでいいと思います!」


 不動繭理が稽古場から連れ出される。ようやく稽古場内の時間が動き出す。


「こちらが問題の、舞台監督?」

「そうです。王城おうじょう穣治じょうじ

「問題のって……そんな」

「大問題だろ。おまえのせいで俺らの商売上がったりだぜ」


 透夏が吐き捨てるように言い、小燕の部下と思しき若い刑事たちによって王城もまた稽古場から姿を消す。


「不田房栄治さん、お久しぶりですね」

「あ……おまわりさん……」

「怪我を? 救急隊も来ているので今のうちなら一緒に病院に連れて行ってもらえると思いますよ」

「いや、俺は全然……」

「そうですか。では」


 小燕刑事はスタスタと鹿野、ではなく鹿野の腕の中にいる石波小春に近付き。


「事情を聞かせていただきたい。ご同行願えますか、石波小春さん」


 石波小春は答えない。泣きじゃくっている。

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