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第6話

 能世のぜ春木はるき不動ふどう繭理まゆりは同じ大学の演劇サークルで知り合い、能世が旗揚げした劇団傘牧場という集団で共に活動する仲となった。不動はその圧倒的な美貌と演技力で、能世は演劇を始めたばかりの学生が執筆したとはとても思えない説得力と独特の世界観を持つ戯曲と、活字で描かれた世界を板の上で踊らせる演出家としての才覚、そして自分自身も板の上で観客を魅了するチャームを持ついち俳優として、学生時代の僅か四年間で時代の寵児となるための下拵えを整えた。劇団傘牧場を支える相棒同士という関係を越え、能世と不動が入籍をしたのは未だ学生の頃だ。だが、ふたりが既に書類の上で夫婦という関係になっているということを知る者はほとんどいなかった。不動はこれまでと変わらず奔放に、美しく、淫らに男や女を誘い、能世は恋人である不動公認の愛人・なだ一喜いっきという美貌の男と関係を持ち続けた。

 大学卒業の年。能世春木は新作戯曲を書き上げる。『虚星墜つ』。多くの主要メンバーが卒業するその年に解散することが決まっていた劇団傘牧場の、最後の新作公演となる予定だった。新作のベースとなったのはシェイクスピアの傑作『ロミオとジュリエット』、そして古代ギリシャ三大悲劇詩人のひとり、ソポクレスの戯曲『オイディプス王』だ。能世は時折このように、過去の傑作を翻案するというかたちで自身の戯曲を執筆するというl癖があった。それは今現在も変わっていない。

 ロミオとジュリエットが持つ悲恋要素に加えてオイディプス王が持つ親殺し、近親相姦というテーマを混ぜ込んだ『虚星墜つ』の主演はもちろん不動繭理。そして長らく能世の稽古場代役をつとめた灘一喜が初めて──最初で最後の俳優としての仕事を行うはずだった。


 稽古場で、戯曲を破り捨てたのは不動繭理だ。


「お腹に赤ちゃんがいるのに!」


 未だ稽古は始まっていなかった。稽古場にいたのは卒業を控えた四回生だけで、人数としては両手の指で数え切れるほど。

 まだ然程膨らんでいない腹を撫でながら、不動は能世に食ってかかった。


「嫌がらせのつもり!? この子が──」

「やめよう、やめましょう、繭理ちゃん」


 卒業を控えた四回生は全員、能世と不動の入籍を知っていた。今にも掴み合いになりそうなふたりのあいだに割って入ったなだ一喜いっきももちろん、彼らが既に婚姻関係にあるということを知っていた、はずだ。


「能世も……これはあんまりだよ」


 咎めるような灘の言葉に、能世がどう答えたのかを不田房は思い出せない。


「俺は舞台には立たない。死ぬまで代役アンダースタディでいい」


 能世は──なんと答えたのだろう。


 それから暫く経って、別の戯曲を再演するというかたちで台湾での遠征公演が決まって。楽しかった。とても楽しかった。楽しかったから忘れていた。不動繭理の腹に赤ん坊がいることを。灘にずいぶん厳しく言い含められたらしい能世は、不動の体に負担がかかる演出をすべて取りやめにした。代わりに不田房ふたふさを含む劇団員たちがそれなりに苦労する羽目になったのだが、今回の奇怪な事件が起きるまではただ若き日の楽しかった思い出としてだけ心の隅に引っかかっていた。


 大学を卒業してすぐ、能世と不動は自分たちが既に婚姻関係にあるということを発表した。日本演劇界の至宝ふたりの結婚ということもあり、マスメディアがいつまでもざわめいていたのを覚えている。不田房ふたふさ栄治えいじは劇団傘牧場に関係する人間全員と距離を取り、ひとりで演出家としての活動を始めた。特に能世とは、もうあまり深く関わり合いになるつもりはなかった。どうして忘れていたのだろう。あの戯曲。『虚星墜つ』。灘の言う通りだ。腹に赤ん坊がいる自分の妻に、虚構の世界とはいえ父親との悲恋を経験した上もっとも残酷な方法で命を落とす役柄を演じさせようだなんて──能世の考えが不田房には分からなかった。分からないから、離れた。結婚を発表したのち、不動が俳優業を廃業したという話も人伝てに聞いた。赤ん坊の性別さえも不田房は知らなかった。


 能世春木から久しぶりに連絡があって、「『底無活劇』という芝居を行うんだが、稽古場代役アンダースタディを引き受けてほしい」とオファーがあるまで、何もかも、何もかも全部、忘れていた。

 忘れてはいけなかったのに。


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