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第7話 渋谷区、シトロンビル②


 薄原すすきはら一暉いつきは、ひと言そう言って沈黙した。

 沈黙の中に放り出された鹿野と薄原カンジは顔を見合わせ、


「まあ、言いたいことはなんとなく分かるよ」


 と臥瀬ふせがどこか苦く笑う。


「女王蟻……って。不動ふどう繭理まゆりのことですか」

「さすがスモーカーズの斬り込み隊長。話が早いね」


 鹿野の声に、一暉が軽やかにウインクをして応じる。異性に対する良く分からない尻の軽さが兄弟揃って良く似ている。


「女王蜂じゃなくて?」


 会議室のテーブルに頬杖を付いた薄原カンジが尋ねる。弟の問いに兄が小さく首を横に振ったところで、会議室の扉が開いた。アロハシャツにショートパンツというラフな出立の女性が鹿野、薄原兄弟、そして臥瀬の前にグラスを置いて回る。中身はどうやらアイスティーらしい。


「臥瀬さんお砂糖は〜?」

「もう味が付いてる」

「さっすが〜!」


 飲み物を持ってきた女性は、すぐに会議室を出て行った。「話を続けよう」臥瀬が言った。


「女王蜂ってのは、まあ俺も虫の生態に詳しいわけじゃないけど、『王台』とかいう場所に生み付けられた卵から生まれた幼虫にロイヤルゼリーを与えて育てる……とか言うじゃない」


 薄原一暉が滔々と語る。


「だからさ、決まるのよ、女王蜂は」

「後から」

「『王台』がひとつだったら女王蜂候補も一匹だ。でも、軽く検索しただけでも『王台』はひとつじゃないって研究結果が山ほど出てくる。つまり女王蜂は──生まれ付いての女王じゃない。ま、条件を満たさないとスタート地点にも立てないってのは間違いないけどね」

「女王蟻は違うんですか?」


 鹿野の問いに一暉は軽く首を縦に振り、


「違うらしい……ってことしか分からない。生まれ付いてのその資格がある個体に蜂と同じように特別な食べ物を与えるって説もあれば、雄にも何かの特徴があるって説もある。ああ、それから単為生殖で子どもを残せるって話もあるね」


 なかなか本題に入らない。いや、既に入っているのか?


「意味分からん」


 アイスティーを飲み干したカンジがくちびるを尖らせた。弟のカンジがこういう反応をするということは、


「もういっつも周りくどい! 臥瀬さん、トイレ行ってきますね!」

「はいはい」


 薄原カンジが去った会議室は、人間がただひとり減っただけだというのにやけにがらんとしている。手持ち無沙汰になった鹿野は、アイスティーのグラスに刺さったストローをぐるぐると回す。最近流行りの紙ストローではない。見慣れたプラスチック製のストロー。


「鹿野さん」

「うわ、はい」


 薄原一暉に呼ばれ、鹿野は弾かれたように視線を上げる。弟のカンジに良く似た男が、じっとこちらを見詰めている。


「俺はですね、劇団傘牧場の正式メンバーではなかったんです」

「は……と言うと」

「父が、薄原かなえという人間なんですが、彼がススキ大道具株式会社という会社を経営していて」

「存じております。今は、カンジさんが代表をしているという……」

「そう。年功序列でいえば俺が継ぐべきだったのかもしれないけれど、俺はなんというか──すっかり嫌になってしまって」

「……嫌に?」


 臥瀬は口を挟まない。鹿野と一暉、ふたりだけが言葉を発していた。


「劇団傘牧場はメインメンバーの大学卒業と同時に解散することが決まっていた。彼らが四回生になる前に、それは既に決まっていて、誰にも動かすことはできなかった。劇団傘牧場の代表である能世春木は、俺の父、薄原叶を含めた外部関係者にも決定事項として解散を告げ、他言無用の念を押した」


 それと──これと。どこで何が、繋がってくる。

 黙って瞳を瞬かせる鹿野に、一暉はゆっくりと続ける。


「そこで俺は、父からバトンを受け取った。父はもう劇団傘牧場に関わる気はなくて、だが劇団傘牧場はススキ大道具株式会社を必要としていた。傘牧場にはね、鹿野さん。と、と、それにしかいなかったんですよ」


 どういう意味なのか図りかねる。そういう劇団は別に少なくはない、と演出助手の鹿野素直は思う。むしろ、演出家・演出助手・舞台監督のみで回しているスモーカーズの方が鬼っ子扱いされることが多いというのに。


「当時俺は……通ってた大学を中退したところで。ススキ大道具でバイトをして過ごしてました。で父から傘牧場を任されて。年内に一度、それから解散公演があるから、そのふたつに舞台監督として関われ、と」

「関わったんですか。……台湾にも、行きましたか?」

「もちろん。しかしね鹿野さん。劇団傘牧場というのは本当に──妙な集団で」


 ねえ臥瀬さん。不意に話を振られた臥瀬が、肩を竦めて笑った。


「急にそんなこと言われても」

「臥瀬さんだってあの頃俳優やってたでしょ」

「もう大学生じゃなかったけどね。傘牧場は年齢的には後輩だよ。まあ、知名度や人気を考えれば、当時の私にとってはまるで巨人のような存在だったけど……」


 しかし──と柔らかな黒髪を揺らして、臥瀬が呟いた。


「女王蟻。言い得て妙だ」

「単為生殖で子どもを増やす。雄を必要としないという説がある。女王蟻が産む卵のうち、受精したものはメスの蟻、しなかったものはオスの蟻になるという話も聞いたことがあるし、俺が傘牧場に抱いている印象とぴったりだ」

「どういう意味です」


 身を乗り出した鹿野に、臥瀬、一暉の視線が同時に向く。


「能世春木はだという噂がある」

「は……!?」


 あまりにも急だった。薄原一暉の声は冷えていた。


「名誉毀損過ぎる噂だから、表に出ることはまあまあ少ないけどね。でも傘牧場の関係者は全員知ってる話だし、たった一年彼らに関わった俺も嫌というほどその噂を吹き込まれた」

「どう……どういう」

「つまりだよ鹿野素直さん。能世春木と不動繭理。伝説の劇団傘牧場のトップふたりのあいだに生まれたサラブレッド、石波小春の父親は……誰?」

「──な」


 その名前を、言ってはいけない。


なだ一喜いっき

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