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72話:決戦に臨む

 古来よりインフィニスの地は、神聖な土地として入植が行われてこなかった。そしてどの国も領地としていない。

 見渡す限りの大草原。


「何にもない原っぱだね」

「ええ。遮るものもないから、よく響き渡りそうだわ」


 あと30分で日付が切り替わる。『ヴォルプリエの夜』がくる。

 リリーとダーシー、そしてダーシーの手の中に捕らわれるメイブ。

 メイブは逃げ出さないように、小さな両脚には鎖が繋がれている。鎖の先はダーシーの手首に巻かれていた。


「心がワクワクして胸が躍るわ。わたくしの夢見た世界が、30分後には実現する。待ち遠しいったらないわ。――さて」


 リリーは腰をかがめてダーシーと視線を合わせた。


「良い子のダーシー、あなたの力を高めておきましょうか」

「うん?」

「思い出して、ダーシー。あなたのお母様が、ロナガン伯爵一家に何をされていたのかを」

「ぴっ、ぴよぴよぴよ!」

「お黙りヒヨコ!」

「ぴよっ」


 リリーの弾指が眉間に炸裂し、メイブは意識を失った。


「よーく思い出すのよ。あなたのお母様は何一つ悪くないのに、あの一家が何をしてきたか」

「おかあ…さん…」


 記憶の蓋を開け、ダーシーは暗い過去の深淵を覗く。



* *



 おかあさんはあかぎれだらけの手をしていた。それがとても鮮明に印象に残っている。枯れ木のように細り切った手の皮膚は赤らみ、擦り切れ細かな傷がいくつもあった。幼心にも見ていて痛々しい手。

 薬を塗ってあげたく思っても、薬はなかった。誰も恵んでくれなかった。


「大丈夫だからね」


 おかあさんはそういって悲しそうに笑っていた。

 侍女レディーズ・メイドから皿洗い女中スカラリー・メイドに格下げられた母親アナベラは、もともと安い賃金がさらに減らされ、食べ物も満足に与えられず、寝床すら地下室にごろ寝状態だった。

 朝早くから台所で準備をし、一日中水仕事で手を動かす。そして時折母屋に呼びつけられて、伯爵夫人から暴力を振るわれ、暴言を吐かれ、尊厳を傷つけられた。

 ダーシーも物心つく頃には、母親アナベラと同じように働き、雑用を言い付けられ、伯爵の子供たちに虐められた。


「私のせいで、本当にごめんなさいね…」


 ダーシーも虐めで怪我をするたびに、母親アナベラは泣きながらダーシーに謝った。

 暴力を振るわれる母親アナベラの身体は生傷が絶えず、それは蓄積されて、とうとう満杯になった。身体が負荷に耐えられなくなり倒れた。

 栄養失調に、長年の暴行による傷、そして精神を蝕み続けられた結果だ。


 おかあさんは毎日痛めつけられた。虐めれた。

 誰も助けてくれなかった。

 そして死んだ。



* *



「酷いわね、酷いわ。お母様への仕打ち、本当に酷過ぎる。そしてダーシー、あなたへの扱いも相当惨いわ」


 耳元で囁くリリーの声は、どこか遠くから小さく聞こえてくる。

 怒りのために、頭もお腹も強烈な熱で渦巻いていた。


「おかあさんが生きていた時も、死んだ後も、あの人たちは私も虐めた」

「そうよ。周りの人たちは見て見ぬふり、あなただけが悲惨な目にあい続けていたというのにね。

 憎いでしょう、悔しいでしょう。もっともっと怒って。昔の辛かったことを、いっぱい思い出すのよ」


 リリーはダーシーの心の闇を煽り続けた。


「あなたが怒れば怒るほど、憎めば憎むほど、恨めば恨むほど、『いたずらっ子の脅威トリックスター』の威力は増すの。

 感情は死んだと思っていたでしょう?辛いことから逃げるためには、感情を殺す必要があったわよね。だからあなたは感情が削ぎ落されたような状態だった。でもね、本当に感情を殺すことは出来ないのよ?小さくてもドコかに感情って残っているものなの。感情が死んだと思っていたのは、イコール辛い思い出を沈めておきたい思いの現れ。自分を守るための行為。

 これから世界中に『いたずらっ子の脅威トリックスター』の力を振りまくから、どんどんボルテージを上げてね。感情でいっぱい心を満たしていくの。そうすれば誰もあなたに敵わないから!」



* * *



 真っ暗な天井に吸い込まれるように、うず高く積み上げられた本。それが何本も柱のようにそびえている。

 脚立の上に座り込み、分厚い本を開いて読んでいたトロータは、いきなりグラグラ揺れて顔を上げた。


「いやだ、地震?魔法で固定してあるから本は崩れ落ちてこないけど、地震は止めてほしいわ」


 トロータは眼鏡をクイっと上げて、唇を尖らせた。


「もしかして、グリゼルダ様が暴れていらっしゃるのかしら?メイブちゃんの件もあるし、ありえない話じゃないわね」


 読んでいた本をバタっと閉じる。


「メイブちゃんの救出、上手くいくと良いけど。この件にはもう介入するなってグリゼルダ様から通達がきてるから、動くに動けないんだけどねー。

 ロッティちゃん、フィンリー君、頑張ってね」


 床に置かれた魔女の回覧板の水晶球を見つめ、トロータは祈るように目を閉じた。



* * *



「ロッティ、わらわはフィアンメッタのところへ行って、フィンリーと合流する。儀式は大丈夫じゃな?」

「ええ、一人でも平気よ」

「判った。ではな」


 グリゼルダの指示でカイザーがフィンリーを攫って、フィアンメッタのところへ向かった。

 リリーとの決戦のためのようだが、詳細は知らされていない。それでコンセプシオンが行くことにした。


「レオン、留守番お願いね。私はアデリナを復活させたら、そのままリリーの元へ向かうから」

「判りました。気を付けてくださいね」

「うん」


 チェルシー王女から『魔女の呪い』を祓う時は、『フェニックスの羽根』と『森の種』を使った。

 しかし今回は『ヴォルプリエの夜』の効果を受けて儀式を行う。アイテム類は必要なかった。


「私の魔法で、呪いを祓ってやるわ」


 ロッティはギュッと心を籠め握り拳を作る。


「いってらっしゃい」

「いってきます」


 レオンに見送られて、ロッティは小屋を後にした。

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