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第19話【馬鹿は死んでも馬鹿のまま】

 ■


 リラは疾走しながらも周囲を必死に見回す。


 しかし、彼女の視界に入るのはただの壁、柱、廊下だけだ。それでも彼女は見つけ出す。いや見つけなければならない。


 そして目に飛び込んできたものがあった。


 ──…水瓶?


 リラの脳裏にいつかのサイラスとの会話が閃光の様に閃いた。


『サイラスは苦手な相手とかいないの?私は大きいのが苦手だな…急所に手が届かないんだもん』


『ん?苦手な相手?それなりに居るよ。俺は剣しか能がないからな。例えば実体を持たない魔物だとか、あとは所謂不死者みたいな連中は苦手だ。急所が急所じゃない奴らっていうのは剣士の天敵だよ。殺りようがないわけじゃあねえが…面倒だ』


『そういう相手の時はどうするの?』


『聖水を使うか、聖別された得物を使うかってのが一般的だな。魔術でもいいが、俺は使えねえし。聖水っていうのはこの前教えただろ?呪いを祓う、不浄を祓う、魔を祓う。どうみたって邪悪だなーって連中と戦る時は必ず持っていくモンさ』


 ・

 ・

 ・


 聖水には邪悪な力を追い払う力があり、不浄な存在への対抗手段として使われることが多い…というのは何も特別な知識ではない。


 ある程度場数を踏んだ探索者なら誰でも知っている事だ。


 ──ここは、教会なのかな。だったら、あの水瓶の中には…


 リラは弾かれる様に疾走の軌道を変え、腰元の水入れに手を伸ばした。


 水瓶に何も入っていない可能性など考えもしなかった。


 リラが水瓶の中をのぞき込むと水面に自分の顔が映る。


 ──入ってる!


 流れるような動作でリラは水入れに水を汲む。


 彼女はそれが聖水である事を疑いもしなかった。


 そしてそもそもの話になるが、聖水が悪魔という存在に何某かの効果を及ぼすかどうかも彼女には不明瞭だ。


 それでも彼女は巧遅よりも拙速を選んだ。


 投術という技術がある。


 それは投げナイフ、投石…様々なモノを対象に命中させる技術で、地味だが非常に探索の役に立つ技術だ。


 リラもサイラスからこれを仕込まれており、聖水がいれられた水入れは一直線に悪魔の頭部へと飛び、ぶちまけられた。


 途端、響き渡る苦悶の絶叫。


 ドス黒い肌に浴びせかけられた聖水が、まるで強酸性の液体であるかのように悪魔の肌を焼いていた。


 そして位置的に、サイラスも聖水を浴びる事となったがこちらは悪魔とはまた違う効果を及ぼしていた。


 聖水の冷たさがじわりと彼の意識に沁み込む。


 サイラスはまるで寝起きに冷水を頭から浴びせかけられたような気分であった。


 現実が彼の視界に戻ってくると、最初に目に飛び込んできたのは悪魔の醜悪な姿と、彼を一途に見つめているリラの瞳だ。


 ■


 サイラスは思考を走らせるより先に剣を走らせた。


 薄闇を引き裂く様な鮮烈な銀の軌跡が、悪魔の胴体を逆袈裟に深々と切裂く。


 右下から左上へと斬りあげる反動をそのまま回避運動のエネルギーに転用し、後方転回をくり出して距離を取る。


 先ほどまでサイラスが立っていた場所に悪魔の剛腕が叩きつけられるが、サイラスはすでに回避行動を取った後だった。


 それから繰り広げられたのは、サイラスと悪魔の間の壮絶な戦いだ。


 サイラスはぶらりと剣をぶらさげ、足取り緩く悪魔との距離を縮めていく。


 まるで散歩でも行くような風情に悪魔は一瞬呆気にとられ、馬鹿にでもされているとおもったか、女性器にも似た腹の口を大きく広げた。


 たちまち周囲に悪臭が立ち込める。


 これは強い酸の香りだと気付いたサイラス。


 その次にやってくる事も想像がつく。


 腹の口がすうっと大きく息を吸った瞬間に、サイラスの緩い歩調は雷光の様に峻烈で鋭いものへと変調した。


 突然眼前に現れたかの様なサイラスに、悪魔は驚いたのか腹の口から何かを吐き出すような動作を中断し、太い腕を振り回し始めた。


 しかしサイラスには当たらない。


 バツン、と音がした。


 悪魔の腹の口が自身の肉体を丸々呑み込める程に大きく広げられ、バネ仕掛けの様に凄まじい速度でサイラスに食いつき、閉じられた。


 空気が破裂するような音は悪魔の腹の口が閉じた音だ。


 それを見ていたリラは蒼褪める。


 サイラスの姿が無くなっていた。


 食べられてしまったのだろうか、とリラの心が狭窄していくが、すぐに喜色を取り戻す。


 悪魔の背後に回り込むサイラスの姿が目に入ったからだ。


 余りに速い悪魔の攻撃と、余りに速いサイラスの回避にリラの眼がついていかなかっただけであった。


 サイラスの歩調が目まぐるしく変転していく。


 時には稲妻の様に鋭く、時には牛の様に鈍重に速さと遅さが細かく切り替わる。


 これを目の前でやられると、やられた方は相手がまるで複数いるかのように錯覚してしまう。


 それは悪魔も例外ではなく、見当違いの方向を殴りつけては、懐に潜り込んだサイラスに斬りつけられていた。


 ──凄いっ!


 リラは目を輝かせてサイラスと悪魔の戦いを見守る。


 サイラスはいとも容易く悪魔の攻撃をかわしているように見えるが、リラはそれが見た目ほどに容易い事ではない事をしっていた。


 ■


 このまま行けば勝てそうだ、そんなリラの予想はサイラスのそれとは真逆であった。


 ──無理だな


 サイラスは冷えた頭で目の前の悪魔に勝てない事を認めていた。


 確かに相手の攻撃は当たらないままに、こちらの攻撃は当て放題だ。


 だが、それはサイラスが少なからぬ体力と気力のリソースを支払っているからであり、いつまでも続けられるものではない。


 悪魔自身には体力という概念がないのか、最初と同じ勢いで暴れ続けている。


 雑な大振りには技巧の欠片も感じないただの暴力だが、耳の横を掠めていく風きり音はサイラスの心肝を寒からしめるものがあった。


 ──まともに当たれば死ぬ。そしてまともに当てても相手は死なない


 そもそも攻撃を当てる事自体が有効かもよくわからないのだ。


 悪魔の肌に刻まれた傷があっという間に消えてしまうからである。


 一見すると、戦闘は互角どころか、サイラス優勢にさえ見える。


 しかし、サイラスと比べて悪魔はまるで無尽蔵の体力を持っているように思える。


 僅かずつ、蝋燭の芯が燃え尽きていくようにサイラスは疲弊していった。


 叫ぶ体力もなくなってしまう前に、とサイラスは叫ぶ。


「リラ!逃げろ!そして悪魔が出た事を伝えろ!俺に体力が残っているうちに、助けを呼んできてくれ!」


 それを聞いたリラは強い拒絶感が自身の内に沸き起こるのを感じたが、弾かれるようにして出口へ駆け出した。


 しかし、それは叶わない。


 大広間の出口は外に繋がっている通路への扉があるのだが、その扉が薄い靄の様なものに包まれている。


 リラは恐る恐る靄に触れ、きゃ、と声をあげて手を引く。


 指先の皮膚が爛れていた。


 周囲を見回し、手頃な石をみつけて放り投げてみるが床に当たる音は聞こえない。


 宙空で溶けてしまったのだろうか?


 リラの顔色がみるみる蒼白になっていく。


 閉じ込められた、とリラは思う。


 恐らくは、あの悪魔の手によって。


 ■


 扉の前で立ち尽くすリラに、悪魔が邪悪な笑みを向けた。


 サイラスとの戦闘中にこのような仕草をする余裕があるというのは、自身が絶対にサイラスの剣では斃れる事はないという自信の現れであろうか?


 はん、とサイラスは鼻で嗤った。


 嗤いは過剰なまでの悪意でデコレーションされており、舐められている事への強い不快感を感じさせる。


 実際、サイラスという男は決して殊勝な性格ではない。


 自身の腕への強い自尊心をもっている。


 自分が達人であることをサイラス自身がよくよく理解していた。


 ──ならよ、斬ってだめなら叩いてやるか?


 サイラスは再び剣を構え、今度は餓狼が獲物に飛び掛かる様な早さで悪魔へと突進していった。


 悪魔の方もリラからサイラスへと視線を移すが、その表情には濃い侮蔑が浮かんでいる。


 サイラスは特に工夫もなく剣を悪魔へと叩きつけた。


 そう、斬りつけたのではなく、叩きつけたのだ。剣の腹で。


 それは斬撃ではなく、打撃であった。


 平たい鉄こん棒で引っぱたいたのだから、少なくとも斬撃ではないだろう。


 衝撃が悪魔へと伝播すると見るや、サイラスは空いている腕をひいて剣の腹を殴りつけた。


 剣腹での殴打の衝撃が悪魔の体内をくまなく伝播し、拳打の衝撃がそれを活性化、励起させ体内で爆発させる。


 これはサイラスが騎士団長時代に編み出した対重装用の技だ。


 名前はない。


 ないが、全身を分厚い甲殻で覆った魔物を爆発四散させる程度には恐ろしい技でもある。


 ■


 悪魔の穴という穴からドス黒い血が噴出した。


 衝撃が悪魔の体内を食い荒らしているのだ。


 初めてのダメージらしいダメージに、サイラスは嗜虐的な笑みを零す。


 しかしその笑みはたちまち不機嫌そうなヘの字型へとゆがめられてしまった。


 流血はすぐに止まり、悪魔はサイラスを睨みつけた。


 傷が癒された様だったが、先ほどの様に侮りの表情を浮かべてはいない。


「まあ、治るってのは…通用しねえのとはちょっと違うもんなァ」


 サイラスのいう通りである。


 悪魔であっても過剰な痛みは不快であり、時には苦痛でもあるのだ。


 悪魔には不死性があるが、だからといって痛みを感じないというわけではない。


 そして問題はこの不死性である。


 斬っても内臓を破壊しても死なないというのは、生物としてやや埒外に過ぎる。


 だがそれもそうなのだ、この時代の者達が知る悪魔とは厳密な意味で生物とは言えない。


 そう、サイラスの目の前に立つ悪魔は"本体"ではない。


 彼の本体は古代王国の王や神官達がその身を賭して封じており、迷宮に現出する悪魔とは精神体の様なものなのだ。


 古代、人間種は悪魔達との戦争によって多くの学びを得、悪魔に対しての有効な技術をいくつも考案してきた。


 封印術はそのうちの一つであり、迷宮が悪魔を外界へと出さないのも迷宮そのものが儀式装置である為だ。


 この時代の者達でそのことを知るものはほんの一部しかいない。


 他にも迷宮を隔離せず探索者達に探索を続けさせている理由、白バケツ達が迷宮の入口に陣取っている理由…そういう秘密を知るものは極々限られている。


 ■


 悪魔はに染まった表情で何事かを呟いた。


 何を言っているのかサイラスには分からないが、彼は急速に膨れ上がる圧迫感が魔術の予兆だと気付いた。


 屋内だというのに酷く冷たい風を頬に感じたサイラスは、詠唱を完成させてはならないとばかりにおどりかかろうとする…が、出来なかった。


 ぽとりと何かが落ちたのだ。


 サイラスは怪訝な表情で一瞬だけ足元を確認し、ゆっくりと左耳を触ろうとしたが、本来あるべき場所にあるはずのそれがない。


 代わりに鈍い痛みと生暖かいナニカの感触がサイラスの指を濡らした。


 そう、耳だ。


 サイラスの耳が切断され、床へと落ちている。


 いつ魔術を完成させたのか

 詠唱中ではなかったのか

 このような魔術は知らない

 そもそも魔術なのか


 様々な疑問がサイラスの頭に浮かび、消えていく。


 それは時間にすれば瞬きにも満たない時間だろう。


 だが決定的な隙でもあった。


 気付いた瞬間、悪魔の巨大な拳がサイラスを殴りつけ、吹き飛ばした。サイラスは壁に叩きつけられ、吐血する。


 ──油断だ、ちくしょう


 全身の骨をバラバラに砕かれたかのような激痛がサイラスを苛み、しかし皮肉にもその激痛のせいで意識を失う事もできない。


 だが彼にはそのほかにものうのうと失神しているわけには行かない理由があった。


「リ、ラ…ッ!」


 リラが鬼の様な形相でこちらへ向けて駆け出してきている。


 斃れたサイラスを見て自身が代わりに戦おうというのだろう、だがサイラスから言わせればそれは積極的な自殺に過ぎない。


 何か出来ないか、何かなにかとサイラスは周囲を見回し、ある違和感に気付く。


 その違和感は床にあった。


 悪魔の足元のやや後方、他の場所と比べて少し高く、不自然な凸面になっている。



 ──罠…か?


 罠。


 そう、罠だ。


 迷宮には数多くの罠が存在する。


 天井に、壁に、床に。


 それらの罠は子供だましのようなものもあれば、極めて悪辣な致死的なものも存在する。


 誰が何のために設置しているのかは分からない。


 しかし、一度解除しても次の日に別の罠が仕掛けられているという事などはままある。


 そして、この寺院に罠がある事は何もおかしい事ではなかった。


 この寺院もまた迷宮の一部なのだから。


 ──これは、なんだ?


 ──罠だとして…何の罠だ


 サイラスは一瞬考え、そしてすぐに考えるのをやめた。


 試してみたい事が一つだけあり、それにはタイミングが重要だからだ。


 余計な事でそれを逃してしまってはたまらない。


 汗か、先程浴びた聖水か。


 サイラスの頬を冷たいものが伝った。


 悪魔はリラを見つめ、にたり、という擬音が相応しい気味の悪い笑みを浮かべている。


 腹の口も口角がひきつり、まるで嗤っているように見える。


 ゆっくりと。


 悪魔がリラの方へ向き直り、一歩を踏み出そうとしたその瞬間。


 サイラスが立ち上がり、悪魔に向かって突進をした。


 丁度一歩目を踏み出す所でサイラスの突進を受けた悪魔は、巨体であるにも関わらず僅かに体勢を崩す。


 そこを満身の力で更に押し込むサイラス。


 腹の口が閉じられ、手をかけていたサイラスの指を食いちぎる。


 だがそんなものにはかかわずらうことなく、サイラスはただただ押し続けた。


 体格差は歴然として存在しており、時間をかければ逆に悪魔に押しつぶされてしまう事は明白であったが、ほんのわずかな時間であるならサイラスの勢いの方が勝っている。


 そして、悪魔は後退し…その足が凸面を踏んだ。


 ・

 ・

 ・


 床からは突如として複数の針が飛び出し、悪魔とサイラスを纏めて貫く。サイラスも悪魔も全身を血まみれにするが、この罠はそれだけでは終わらない。


 貫かれた部分から灰色へと変色していくではないか!


 石化針の罠だ。それは邪悪な呪いが込められた針で、一度刺されると刺された部分から石化し、動きを封じられてしまう。


 石化は放っておけば全身にまで広がっていき、ひとたび全身石化してしまえばもはや元の身体へ戻る事は出来なくなる。


 石化の速度は恐ろしく早い。


 サイラスも悪魔も、瞬く間に下半身が灰色へと染まり、その変色は腹部、胸部、そして首元へと波及していった。


 サイラスは残された時間が僅か…本当に極めて少ないと知り、家族を想いながら逝こうかとも考えたが、それはやめた。


 代わりに眼だけを動かし、走り寄ってくるリラを見る。


 ──最期に、何と言おうか


 そんなことを考えながら、サイラスの思考は停止した。


 ・

 ・

 ・


 斥候の少女、リラの眼前でサイラスと赤い肌の悪魔が床から突き出した何十何百もの太い針に貫かれている。


 ただの針ではない、石化の呪いがかけられた凶悪な針だ。


 男は悪魔の腰に組み付くような態勢で微動だにしない。


「サ、サイラス…」


 リラが掠れたような声で問うが答えはない。


 男も悪魔も既に物言わぬ石像と化していた。


 ばきり、と石像に罅が入る。


 リラがびくりと肩を揺らすと、石像は見る間に砕けていき、破片が迷宮の床に散らばった。


 その破片も粉と砕け、砂となり。


 リラは絶望と砂塵に瞳を曇らせて、ただただその様子を眺めていた。


 ◆


「え?」


 リラが呟く。


 砂埃が収まった後、リラの視界に在ったのは石像であった。


 サイラスの石像だ。


 砕けたのは悪魔の石像で、サイラスの石像は無事だった。


 それは偶然だろうか?


 リラがよろめく足取りで石像へ近づくと、ぴしりぴしりと音がする。


 今度こそはあの悪魔の石像のように割れてしまうのではないかとリラは慄くが、現実は無情だ。


 サイラスの石像にはどんどん罅が入っていき、ついには欠片がポロポロと床へ零れ始めた。


 だが見守るリラの瞳に曇りはない。


 罅の下から肌色が見えていたからだ。


 ──そうか、聖水!


 針に込められている石化の呪い、それを祓ってしまえば後に残るのはただの針である。だがリラがそれに思い至ると同時に、生身の、全身を針で貫かれたサイラスが今にも倒れようとしていた。


 リラは慌てて駆け寄り、サイラスを抱える。


 ぬるりとした感触、錆の匂い。


 リラは顔を蒼褪めさせ、サイラスを抱えたまま出口へと向かっていった。


 霧はもう無い。


 出ようと思えば出られるだろう。


 だが──……


 リラの膝がガクンと折れる。


 彼女ももう限界だったのだ。


 しかし唇を噛み締め、口元から血を滴らせながらリラが一歩、また一歩と前へ進む。


 そうしてようやく外へと出て密林の緑が目に飛び込んで来た瞬間、木陰から黒い何かが飛び出してきた。


 荒い息遣い、そして噎せ返る様な獣臭。


 リラの前に立ちふさがるのは"揺れ影" だった。


 大型の肉食魔獣で、 素早くタフ、そして強い。


 姿形は南方に生息する黄色と黒の縞模様が特徴的な肉食獣に似ているが、危険度は比較にもならない。


「そこをどいてッ……!」


 通じるとも思わなかったが、リラは双眼に烈気を滾らせて気勢を吐いた。


 ここで諦めるわけにはいかないのだ。


 疲労で震える手を叱咤し、短刀を握りなおす。


 "揺れ影" の口元がぶるりと震え、そしてリラにも分かる程にはっきりとニタリと歪んだ。


 ──嗤っている……


 胸の奥から湧き上がってくる絶望を、怒りという蓋で押し込めて。


 リラは覚悟を決めて"揺れ影" へ斬り込もうとしたその時。


 凄まじい音と主に"揺れ影" の頭上から雷撃が落ちて、恐ろしい肉食獣は全身を焼き焦がし、どうと斃れた。


 口元には醜い獣の笑みを浮かべたまま。


「サイラスは腕がいい。寺院の方角、ひいてはこの階層を覆っていた薄気味悪い邪気が消えている。大方その大元を斃したのだろう?しかし頭が足りない。君は腕も足りずに頭も足りない。なぜ一人だけで行くのだね?これは君達二人に聞いている。ずっと監視していたよ。迷宮に入ってからは使い魔も送り込めなかったが。魔物に食われてしまうからね。こうしてわざわざ足を運んできたわけだ。どうせ馬鹿な事を考えているのだろうと思っていたが、案の定馬鹿な事をして、しかも死にかけている。馬鹿は死ななきゃ治らないというが、私の所見では馬鹿が死んでも馬鹿のままだ。リラ、君はどう思う?」


 そんな侮蔑の言が投げかけられ、リラが声の方を向くとそこには陰気な顔をした男が立っていた。


「ば、バエルおじさんッ!!」


 バエルはリラの言葉には応えず、懐から一本の瓶を取り出しながら近づき、中身をサイラスの頭からドバドバと注ぎ始めた。


 当然、抱えているリラもびしょ濡れとなってしまう。


「な、なにを」


 リラが困惑を浮かべて問うと、バエルは如何にも悪の魔術師という風情で笑い、答えた。


「魔術師の秘薬さ、私が調合した。非常に高価だ、非常にね。使われた素材、技術。どれも一級品を超えている。斯界に再び我が名を刻むための道具でもある。赤の他人一人の命を救う程度の事に使って良いものではない。……が、君らは赤の他人ではない……。特にサイラスは、友人だしな」


 バエルが苦虫をかみつぶしたような表情を浮かべながら続ける。


「しかし、金は返してもらう。友人だからこそしっかり取り立てる。リラ、君にも秘薬のおこぼれがあるだろう?疲労も抜けている筈だ。いいか、リラ。君とサイラスが私に金を返すのだ。ああ、それと、都市に戻って少し休んだら酒場に顔を出したまえ。エイダが心配していたよ」


 バエルはそういい、背を向けて立ち去っていった。


 リラが慌てて声をかけようとするが「う……」とサイラスが声を漏らしたことで機を逃す。


「サイラス!?」


 リラがその場にサイラスを横たえ、声を掛ける。


「リ、リラ、か。あのクソ悪魔野郎は……」


「それより怪我は!?痛む所はない?」


 リラが見る限り、サイラスの穴だらけだった傷は全て癒えている。


 凄まじいまでの回復力を持つ薬だった。


 まさに秘薬といってもいい。


 リラは涙ぐみ、サイラスに抱き着いて胸に顔を埋めた。


 そうでもしないと涙がボロボロと際限なくこぼれてしまいそうだったからだ。


 だが、抱き着いた事でより多くの涙がこぼれてしまう事に、この時点では気付く事ができなかった。


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