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バエルは内心で深い憂慮を抱いていた。
サイラスが家族の虚像にとらわれ、それを妨害しようとする他の者達に敵対しようとしているのではないかと。
冷たい泥の様な重苦しい殺気がサイラスの背から漏れ出ている。
バエルは本気のサイラスをただ一度だけ見た事がある。
その時の業から鑑みて、この場の全員がサイラスの殺刃圏内に在る事を理解していた。
ビエッタもゴロリもマロも、各々が既に臨戦態勢を取っている。
三人とサイラスは友好的な関係にあるが、無抵抗で刃を受け止める程の関係ではない。
サイラスの肩が僅かに動いた。
ビエッタが前傾姿勢を取る。
紙がこより状に巻かれていくように、周囲に漂う緊張感が引き絞られていく様だった。
彼我の距離は3、4mだ。
ビエッタの速度なら瞬きの数十分の一の時間程もかからないだろう。
言葉に出来ない何かが破裂するかと思われたその瞬間、その場に妙に明るい声が響いた。
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「おいおい、どうした?おっかねえ顔をしてよ。あの石像に何か厭なモンでも見せられたかぁ?」
振り返ったサイラスはいつも通りヘラヘラしており、やけに陽気な調子で一同に声をかけた。
「俺はよ、あの石像におっ死んだカカァと娘の姿を視た。それが本物じゃないって、偽物なんだって言うのは分かってたが…どうにもなぁ、あんな風に生きている様な姿を見せられるとグッとっきちまうもんだな」
サイラスの陽気な声は仄かに湿り気を帯びている様であった。
だが、とサイラスが続ける。
「バエル、何を心配しているのか大方見当がつくが、余計な心配ってモンだぜ。俺はとっくに割り切ってるんだ。リラの奴を弟子に取った時から、俺も前を向いて歩こうと、そう決めたんだよ。あの像には驚かされたけどな。罠か?それとも遺物って奴か?まあ何にしてもある意味危ねぇ代物なのは分かる。こりゃあお宝とは言えねぇな。…これは提案だが、一端帰還しないか?この寺院の場所っていう情報だけでもそれなりに金になると思うぜ」
サイラスの提案を皆が吟味した。
そうだな、とバエルが呟き、サイラスを目を正面から見つめた。
その視線はサイラスの瞳に揺蕩う何かを視通す様に鋭く、そして透徹していた。
バエルは内心で、サイラスが本当に石像を忘れたのか、それともそれを隠しているだけなのか疑っていたのだ。
「…そう、だな。私もサイラスと同意見だ。まだ余力はあるが、この寺院はあの石像を除いても、どうにも得体が知れない部分がある。一度帰還が良いだろうな」
バエルの言葉が決め手になったか、一同は帰還をすることに決める。
帰路。
魔物とは一匹も遭遇しない。
荷物にも余裕がなく、少なからず体力を消耗している一同にとって、それは運が良い事の筈だ。
しかしそれを喜ぶ者は一行には一人もいない。
何かに視られている気がする。
何かに追われている気がする。
皆が皆、そんな気がしてならなかった。
ただ一人以外は。
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街の灯りが彼らを迎えた。
皆は大きな安堵の息をついた。そしてビエッタが明るく提案する。
「よし、到着!ちょっとしたアクシデントもあったけど皆生きてるね!よかったよかったっ。という事でさっさと素材を換金して、その次は酒場に行こう!」
マロがジトっとした目でビエッタを見る。
彼は酒が飲めないのだ。
それは未成年だからではなく、単純に不味いからである。
だからマロとしては酒場よりも、しっかりした料理を出す飯屋のほうが良いという訳だ。
もっとも、ビエッタ、ゴロリ、マロの三人パーティでは常にビエッタの意見が採用されるが。
序列云々という話ではない。
単にビエッタの声が一番でかいからである。
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ギルドにはエイダとリラが居た。
「あ、サイラス」
「師匠!」
二人は頻繁に一緒に迷宮を探索している。
基本的には二人での探索だが、他のパーティと組むこともある。
そしてエイダとリラはビエッタたちとも顔見知りであった。
「おう、お二人さん。探索帰りか?俺たちもだ。どうだ、一杯やりにいくか?」
サイラスがくいっと酒杯を傾ける仕草をする。
酒呑みのエイダは目を輝かせ頷き、バエルの方を見た。
バエルはやや呆れながらも頷く。
バエルにとってエイダは優秀で忠実、有用な弟子だが、それでも彼はエイダにも欠点はあると思っている。
その一つが酒であった。
エイダという女性はとにかく酒が好きなのだ。
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エイダとリラを加えた飲み会は明るく、そして賑やかだった。
マロが果実水を飲み、ゴロリと話している。
ゴロリが飼っている犬の話だ。
ビエッタとエイダはまるで競う様に酒を呑みあっている。
二人は共に酒が好きで、更に酒に強い。
ビエッタは元暗殺組織の一員という素性もあって、毒物への耐性を訓練でみにつけているのだが、エイダの方は素で酒に強い。
バエルは黙って静かに酒を呑んでいる。
機嫌が悪いのではなく、何か考え事があるらしい。
そういえばさ、とビエッタが話の矛先をその場の者達全員に向ける。
"こんな事があったんだよ" とビエッタが迷宮での出来事を語り始めると、リラはサイラスに向かって静かに質問した。
「サイラスは何を見たの?」
サイラスは少しの間を置いた後、亡き妻と娘を見たと告げた。
しかし彼は念を押すように、「でももう過去は振り切っている」と付け加える。
それはリラには彼女を安心させようとする優しい嘘に聞こえた。
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やがて飲み会も終わり、ビエッタたちは別々の道を選んで帰路についた。
サイラスも常宿へと去っていく。
リラは既にサイラスとは別の宿を取っていた。
エイダと同じ宿だ。
同じ部屋ではないが、夜、お互いの部屋を行き来する程度には二人は親しい。
サイラス、ビエッタ、マロ、ゴロリが去り、その場にはバエルとエイダ、そしてリラが残された。
それじゃあ御師匠様、とエイダがバエルに別れを告げると、バエルは二人を呼び止めた。
その表情は夜陰に隠れて見づらいが、発する雰囲気が尋常の話ではない事を二人に悟らせる。
「二人とも、いや、特にリラ。サイラスには気をつけておいてくれ。迷宮の石像がまだ彼の心を捉えているかもしれない」
バエルはそう告げた。
(あの時、サイラスは異常がないように見えた。それからの言動も不審な所は無かった。石像に囚われたというのは考えすぎなのだろう。私もそう思う。だが、それならばなぜあの様な殺気を放った?)
あの時、サイラスから放たれた冷たい殺気は、明らかにこちらを意識して、そして排除すべき敵として認知している様に思えた。
バエルはサイラスと無二の親友というわけではないが、それでもあのような殺気を向けられる程関係が冷え切っているわけではない。
リラはそれを聞いて静かにうなずいた。
動揺は小さい。なぜなら彼女もサイラスに小さい違和感を覚えていたからだ。
彼女の知るサイラスという男は、頼り甲斐があり強く、ぶっきらぼうに見えて実は優しく、そしてひねくれ者なのだ。
辛い事があり、それをどうしても口に出さないとやっていられない様な時。ひねくれ者のサイラスはどこか婉曲的にそれを言う。
何事も素直に直接的に言う男ではない。
悲しい過去があったとして…それを乗り越えた、吹っ切った事をあのように穏やかに、そして明るい表情で話すだろうか?
リラは内心で首を振った。
何か確信、確証があっての事ではない。
しかし、サイラスが何か嘘をついているとリラの女の勘が告げている。
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夜が深まると、サイラスの部屋の扉が静かに開いた。
ここはサイラスの常宿だ。
木陰亭という小さいが小綺麗な宿屋で、閑静な場所に建っている。
サイラスはこの静けさが好きで長く木陰亭を常宿としている。
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彼は足音を立てないように宿を抜け出し、迷宮へと向かっていく。
瞳は爛と輝き、しかし瞳に宿る光は健全なモノではない。
一種の妖気とも言えるなにかをその目に宿し、サイラスは足早に迷宮へと歩を進めていった。
だが、彼の背後にはリラの姿がある。
サイラスが気づかぬうちに、彼女は彼の後を追って夜の闇に消えていった。
そして、そんな2人を草陰から一匹の蛇が見詰めている。