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第9話【背】

 ■


 "試しの道"には幾つかの罠が仕掛けてある。


 それらは非致死性で、かかれば即座に死ぬという事はない。


 しかし、例えばボウ・トラップで脛部分を射貫かれたりした場合、とてもではないが"軽傷で済んだ"とは言えないだろう。


 つまり、非致死性とは即座に死なないだけで危険な罠である事には変わりはないのだ。


 通路を進んですぐにリラは立ち止った。


 それはいつか受けたサイラスの教えが頭を過ぎったからだ。


『いいかぁ、リラ。どういう場所にどんな罠が仕掛けてあるか……そういう事を覚えるよりも、もっと根本的な事を考えるんだ。罠にかかる時っていうのはどういう時だ? ……そうだな、油断している時だ。迷宮の罠はその辺に忠実だ。まさかこんなタイミングでこんな場所に罠が仕掛けられているなんてことはないだろう、そういう先入観を突いてくる。もしくは……そうだな、罠だって頭では分かってはいても、進まざるを得ないような時とかな』


 今はどうだろうか、とリラは考える。


 罠が張られている通路とはいえ、足を踏み出した瞬間に罠に引っかかるなんて事があれば、それは意外な事だとは言えないだろうか? 


 リラはかがみ込み、目を凝らした。


 すると膝の高さのあたりの空間に細い糸が張られているのを見つけた。


 左右を見る。


 左方向の岩壁、壁掛け松明が据え付けられている金具の横に穴が開いていた。


 例えば細身の矢とかならば、その穴から発射されてもおかしくはない。


 リラは慎重に糸を跨ぎ、ほっと安堵の息をつこうとしたがすぐに表情を引き締める。


 罠が一つだけだとは限らないからだ。


 注意深く周辺を観察し、そして二つ目の罠がない事を確認するとゆっくりと通路の奥へ進んでいった。


 ■


 サイラスは迷宮の闇に消えていったリラの背を見ながら、ひとつため息をつく。


 彼は自分でも思った以上にリラに肩入れをしている事を自覚していた。


 そしてその理由は、リラに死んだ娘の面影を見ているからだという事にも彼は気づいている。


 ──でもよ、そこまでならいいんだ。そこまでなら俺はただの哀れな中年というだけで済む。でもよ……


 彼がため息をついているのは、それは自身の思い込みでしかないという事を理解していたからである。


 髪の色が同じ……だからどうした? 


 生きていればリラと同じ位の年か少し上……だからどうした? 


 都市を探せばいくらでも同じ条件の娘などは見つかるだろう。


 サイラスがため息をつき、胆汁のような自己嫌悪の苦味を精神の味蕾で感得している理由とは、彼がリラを娘の代替品として見ているという情けない事実をサイラス自身誰よりもよく分かっていたからである。


 ──哀れな中年ならいい。哀れで卑怯な中年なんて救いようがないじゃねえか、なあ? 


 だが最初からそんな心境だったわけではない。


 ではいつ、どのタイミングで変節したのだろう……そうサイラスは考えるが、答えは出ない。


 しかし、リラの境遇が彼自身の境遇にどこか重なる部分があったからというのは間違いないだろう。


 リラにもサイラスにも、家族と呼べる者はいないのだ。


 いや、リラにはまだ家族がいる。


 サイラスのように代替の家族ではなく、本当の家族が。


 しかし、サイラスはまだその事を深く考えたくはなかった。


 ■


 やがてリラが通路の奥から戻ってくる気配がすると、サイラスは自己嫌悪の沼から這い出て平静を装った。


 小さな足音が薄暗がりの奥から響いてくる。


 ──怪我でもしたかね


「待たせたかな。ちゃんと見てきたよ」


 リラが言う。


 サイラスは頷き、どうだった? と尋ねた。


「なんていうか……怖かった。石の像なのに、いまにも襲い掛かってきそうで」


「まあな。あれは触れると石化が解けて襲い掛かってくる。今はまだ早いが、そのうち奴を仕留めてもらうぞ。それでやっと……そうだなあ、半人前は半歩卒業ってところだ。それより左足はどうした?」


 サイラスが尋ねると、リラはバツが悪そうに俯き、そして小さい声で言った。


「なんか……石が飛んできて。床のでっぱりを踏んじゃって……」


「石ね、じゃあ毒は心配しなくてよさそうだな。見せな」


 返事を待たず、サイラスはかがみ込み、リラの靴を脱がせた。


 足首が赤く腫れている。


「まあ、丁度良い怪我だと思っておけ。いいか? この包帯をな……こうして、こう巻いて、こう縛る。力加減も感覚で覚えておけよ」


 サイラスは腰元に吊るしてある道具袋から包帯を一巻き取り出し、リラの足首を固定するようにして応急手当をしはじめた。


 ちなみに世の中には治癒の魔術というものもあるが、これは教会が独占している秘匿技術であるためサイラスには使えない。


 リラはしっかり手当された自身の足首を見て、どこか落ち着かない気持ちになる。


 今、サイラスから受けた手当だけではなく、サイラスから受けた有形無形の恩に対して、感謝の念と同量のねばついた不快な何かが胸をざわつかせていたからだ。


 不快な何か……それは不安感に他ならない。


 ──私は、サイラスに何も返せていない


 受けた恩をどのように返せばいいのか。


 もし恩を返せなければ自分はどうなるのか。


 見捨てられてしまいやしないか。


 当初はサイラスを利用しようと考えていたリラだったが、この時には既にその気持ちを失っていた。


 サイラスは彼女にとって師となるが、同時に兄のようでもあり、父のようでもあった。


 しかし、"では彼は自分にとって何だ"と言われると答えは出ない。


 大切な存在だ、と一言で言えればいいが、リラは"大切"という言葉の意味が良く分からない。


 幼少時、彼女の両親はリラを大切にしてきたかもしれないが、その何倍もの時間を彼女は大切にされないで過ごしてきたのだ。


 膨大な負の時間が"大切"という言葉の意味を彼女の辞書から消し去ってしまっていた。


 サイラスに見捨てられたくない、その思いがリラの表情を曇らせる。


 だが、そんなリラの表情を見たサイラスは少し厳しい口調で言った。


「そんなに痛むようなら口に出せ。我慢をするな。いいか、我慢っていうのはしなきゃいけない時としなくてもいい時がある。我慢しなきゃいけない時に我慢できない奴はいつか破滅するが、我慢しなくていい時に我慢する奴もいつかは破滅するんだ。これは探索者としてだけの話じゃないぞ」


 そういうとサイラスはリラを抱き上げて、器用に背に背負った。


 慌てておろすように頼むリラだがサイラスは聞き入れない。


 リラは抵抗を諦め、サイラスの背に身を預けた。


 広く、安心できる背中だ。


 リラは我知らず、サイラスの首に回す腕に力を込めた。


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