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第7話【試し】


 ■


 サイラスはやや俯いていたが、不意に前方の薄暗がりを見つめながら言った。


「お嬢ちゃん、戦闘経験はあるかい?」


 リラが首を振るが、サイラスは背を向けている為仕草が見えないだろうと気付く。


 だがリラが"いいえ"と声を出そうとすると、サイラスはそうかい、と返事をした。


(こっちを見なくてもわかるのかな)


 リラは思うが、これは種がある。


 サイラスとしては返事はどちらでも構わなかったのだ。


 戦闘経験があるにせよ、ないにせよ、やらせる内容に変わりはない。


「お嬢ちゃん、足音が聞こえるだろ? 緑小鬼だ。1匹じゃあない。……そうだな、3匹くらいかな。あれを殺れ。3匹ともな。そうしたら拾ってやる」


 この時サイラスは少女が臆するだろうと考える気持ちと、いやあるいは、と考える気持ちを半々に抱いていた。


 前者であるならそれはそれで良かった。


 少女は如何にも"重い"。


 死ぬまでの時間稼ぎをしているような生き方をしているサイラスにとって、少女の重さを抱え込む事は難儀だろう。


 だが後者であるなら"適正"を見る必要がある。


 適正とは何か? 


 短剣の腕か? 


 罠を見抜く注意力か? 


 魔術の冴えか? 


 そういったものも大事かもしれないが、何より大事なものがある。


 それは精神力だ。


 緑小鬼と聞くと、新米ほど第一階層最弱の雑魚だと侮る。


 事実、この魔物は小賢しくはあるが新米でも撃退できる程度には弱い。


 小柄ながら力はあるので組み付かれれば厄介だし、執拗に傷口を狙ってくるという注意点はある。


 しかし動きは直線的だし、特殊な能力を持つわけでもない。


 突撃してきた所を足をかけて転ばせてから短刀でも何でも急所に突き立ててやれば済む話だ。


 しかし、多少なり場数を踏んできた探索者は緑小鬼を侮ったりはしない。


 なぜならば彼等の目を見れば侮って良い存在ではない事がよくわかるからだ。


 憎悪という短い単語だけでは表現しきれないほどに、昏くて刺々しくて、うすら寒い何かが緑小鬼の目には宿っている。


 いや、緑小鬼だけではない。


 迷宮の魔物達全てにそういう感情が宿っている。


 迷宮の魔物たちの中には人語を解する者もおり、一部の能天気な探索者は魔物と交渉を持とうと考える者も居るが、そういう者達の3分の1は殺され、もう3分の1は仲間を殺され、残る3分の1は身体のいずれかの箇所を欠損するなりして二度と馬鹿な事は考えないようになった。


 自身に対する打算の無い憎悪、謂れのない憎悪、理不尽な憎悪。


 そういうものを日々受け続けて平気で居られるか、それが迷宮探索者としての適正だと思って良い。


 サイラスが彼女を緑小鬼にけしかけたのは、その憎悪を受けて精神に変調を来たさないかどうかを確認するためというのもある。


 これは机上ではなく実地で体験しなければ分からない事だ。


 もしビビり散らす様なら、自分が出て行って緑小鬼を蹴散らし、そのまま都市に連れて行って孤児院にでも放り込むつもりだった。


 だがサイラスがそこまで少女の世話を焼いてやる必要がどこにあるのか? 


 それはサイラス自身にも分からない。


 しかし、少女の髪の色は死んだ娘を彼に思い出させた。


 サイラスは内心で自嘲の笑みを浮かべる。


 いつまでも未練ったらしく家族の事で思い悩み、自暴自棄にもなりきれない自身の中途半端な生きざまに。


「ほら、得物は貸してやる。そのボロじゃあ折れちまうかもしれないからな」


 サイラスは腰から小ぶりの鞘に収まった一本の短剣を差し出した。


 それは何の変哲もない短剣だったが、リラの持っている錆びた短剣とは違って、命を奪う為の機能を十全に備えているように見えた。


 リラは恐る恐る短剣を受け取り、鞘を引き抜く。


 刀身は良く研がれている。


 鈍色の光が"お前は本当の意味で奪う側になったのだ"と告げている様にリラには思えた。


 迷宮の薄暗がりの奥から足音が近づいてくる。


 ひた、ひた、ひた、と。


 やがて影から醜悪な三匹の小鬼が現れた。


 デコボコとした緑色の皮膚、鋭い爪。


 血の様に赤い瞳には憎悪が揺れている。


「農村の生まれかい? 筋肉の付き方で分かる。奴等は野犬より馬鹿だが野犬より危険だ。傷口を狙ってくる習性がある。無傷の相手には小賢しい真似をしてくるんだが、血の匂いがする相手にまっすぐ突っ込んでくるぞ。例えばその腕の傷だ。あいつらにやられたな」


 サイラスは迷宮の壁に寄りかかってリラを見つめながら言った。


「お嬢ちゃん、短剣は斬るんじゃなくて突くもんだ。寝首を掻くなら話は別だけどな」


 ■


 リラは自分でも特に意識していたわけではなかったが、これまでの事を思い出していた。


 村での暮らし、だんだんと貧しく、苦しくなっていく日々。


 身売り。


 商人の馬車に乗り込んだ時の心細さ。


 馬車が襲われ、男たちに攫われた時の恐怖。


 心と体をこれ以上ないほどに蹂躙され、死のうとして尖った石片を喉に当てた所で男たちにバレて、さんざんに殴られた時の痛み。


 彼女はさんざんに殴られ、散々に犯された。


 絶望に色があるなら、あの時下腹部から漏れ出るドス黒い血のような色をしているのだろう……リラは我知らずに歯を食いしばる。


 やがて街道は警戒され、思うように"獲物"を襲えなくなると、男たちは迷宮都市に移動した。


 他の街道は既に別のならずものの縄張りだったからだ。


 都市に来てからは新米冒険者を相手に"客"を取った。


 勿論男たちの指示だ。


 リラは自身の神経回路に恐怖と屈辱、怒りと憎悪の混合物が流れるのを感じた。


 戦え、殺せ、人生を変えろ


 リラの視野が憎悪で急速に狭窄していく。


 ・

 ・

 ・


 リラは不意に自身の眼前に醜い顔が迫っている事に気付いた。


 集中できていなかったのだ。


 緑小鬼の一匹が、リラの腕の怪我を見て興奮して突進してきた。


 小鬼が突進してきたらどう動こう、ああ動こう、こう動こうという算段はあったが、リラはどれ一つとして実行できなかった。


 決定的に実戦経験が足りない。


 その時頭をよぎったのはサイラスの言葉だ。


『お嬢ちゃん、短剣は斬るんじゃなくて突くもんだ。寝首を掻くなら話は別だけどな』


 色々な偶然が一致したのだろう、リラがつたないながらも突き出した短剣は、その切っ先を緑小鬼の向かって左目に深々と突き刺さった。


 血ではない生温かい液体と、血と。


 そして苦痛に満ちた絶叫がリラへ降り注ぐ。


 残る緑小鬼達はその絶叫に瞬間足止めされ、憎悪に濁らせた彼らの瞳に僅かな恐怖の色が浮かんだ。


 しかしリラの心身は緑小鬼たちのように凍りついたりはしない。


 リラは殺しが初めてではないのだ。


 といっても誰かと戦って殺害したのではなく、男たちが散々に嬲った"獲物"をリラが止めを刺しただけではあるが。


 それでも人殺しには変わりはない。


 男達はリラに共犯者意識を植え付けるために彼女の手を汚させた。


 リラの深層意識が『"これ"が最後だ』と囁く。


 要するに、"これ"が体と心、尊厳を穢されてきた自分が、僅かにでもまともに生きるチャンスだということだ。


 リラは目の端に涙を浮かべながら叫んだ。


「私の、邪魔をするな!!!」


 リラは自身でも制御できない激情のままに緑小鬼達に飛び掛かる。


 ■


 悲壮感すら漂うリラの様子にサイラスは辟易した。


 なぜ世界はこれほどまでに不幸で溢れているのだろうか、と思わざるを得なかった。


 眼前では滑稽な死闘が繰り広げられている。


 サイラスがどれ程手を抜こうと緑小鬼とあれほど接戦を演じる事はできないだろう。


 迷宮の魔物に対して油断は出来ないが、雑魚が雑魚である事実には変わりはない。


 そんな雑魚にリラは苦戦している。


 偶然にも1匹上手く仕留められたようだが、後は泥死合も良い所であった。


 リラは2匹から責め立てられ、全身が傷だらけだ。


 だが緑小鬼たちも無傷ではない。


 でたらめに振り回された短剣が皮膚を切り、肉を裂いている。


 サイラスはリラがもし臆したなら彼女を少なくとも孤児院には連れていこうとは思っていたが、自分から危地に飛び込んだのならば手を出すつもりはなかった。


 仮にリラが緑小鬼に殺されてしまったとしてもだ。


 しかし、とサイラスは思う。


 ──俺がここであの嬢ちゃんを見捨てるとする


 ──それはどうなんだ? 俺がくたばった後、ユリアとエマに逢えるのか? 


 ──嬢ちゃんをけしかけたのは俺だ。嬢ちゃんを助ける事も難しい事じゃあない


 ──ここで嬢ちゃんを見捨てるのは、はて、もしかしたら悪い事じゃないのか? 


 サイラスが見ている前で、リラは小鬼2匹に押され始めていた。


 1匹が足に組み付き、もう1匹がリラを押し倒す。


 リラは転倒し、その拍子でサイラスと視線が合った。


 助けを求められたなら助けよう、などとサイラスは考えたが、リラは一向に助けを求めようとしない。


 ・

 ・

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 ユリアとエマとはサイラスの亡き妻、そして亡き娘の名前だ。


 何より大切な家族が死に絶えて以来、サイラスは死に場所を探している。大切な者亡き世界に生きている意味を見出せなかった。


 自殺は駄目だ、自殺をした者の魂は昏い地の底に堕ちて行ってしまうというから。


 だが"良き者"は死後に天に昇るという。


 ユリアとエマはサイラスにとって"良き者"そのものであり、彼は妻と娘に逢いたいと願ってやまない。


 "良き者"となる必要があるのはサイラスにも分かる。


 だが何をすれば"良き者"になれるのか? 


 それが彼にはわからなかった。


 実力差も分からず絡んできた馬鹿を見逃すのも、実力不相応なまま迷宮に挑んで、見事に玉砕した間抜けの遺品をひろってくるなんていう依頼をこなすのも、彼なりに"良き者"になろうとした努力の結果である。


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 緑小鬼がリラの首筋に食いつこうとしている。


 それを見たサイラスは、まるで散歩でも行くような歩調でリラの方へと歩き出した。



 ■


 剥き出しの牙、首筋に迫る醜悪な緑の顔に、リラは男たちのそれを重ねた。


 同時に、自身に暴虐の限りを振るってきた男たちの死に様がリラの脳裏を過ぎる。


 男たちは決して弱くはなかった。


 野盗時代、行商を幾度も襲ったが護衛がいた事も珍しくはないが、時には押し、時には引き、脅し、すかし、騙し、略奪を成功させてきた。


 野盗団は多くのならず者を抱えていたが、都市に来たのは頭目と幹部を含めて5人だけである。


 それが男たちで、無能であるはずがなかった。


 昨今はどこもかしこも戦争なりなんなりで殺伐した世の中だ。


 男たちは表向きは戦火をさけて都市から移動してきた新米探索者集団で、日々新米が消える数を計算しながら不自然にならない程度に"ハメ"てきた。


 そんな彼等を他愛もなく皆殺しにしてしまったサイラスに、リラは陳腐な言い方だが運命を感じてしまったのだ。


 それは男女の情などという甘ッちょろいものではなく、人生を変える分水嶺ともいうべき切羽詰まったものであった。


 この先の人生を死んだ様に生きるくらいなら、まともに生きようと希望を持って死んだほうがマシだとリラの心は叫び、どうあっても助けを呼ぶことを拒絶していた。


 そして緑小鬼の牙がリラの華奢な首に触れた瞬間、ゴツンという鈍い音が顔の横で響いた。


 リラはふと顔の横を見て声をあげそうになる。


 それは緑小鬼の首だった。


 だがその目はぎょろぎょろと動き回っている。


 まるで死んだことに気付いていないかのようだった。


 緑小鬼は首を落としたまま佇んでいる自身の肉体を見て一瞬困惑を浮かべ、続いて爆発的な恐怖で破裂しそうになった瞬間、その時ようやく瞳から生命の気配が消えた。


 サイラスがリラの襟首がつかみ、強引に立たせる。


 それと同時に地面に斃れた緑小鬼の首の切断面から血が溢れだし、周辺に悪臭が立ち込めた。


 緑小鬼の血は臭いのだ。


 衣服に付着すればその服は使いモノにならなくなるだろう。


 だから少し工夫して殺した。


 リラがあっけにとられてもう一匹の方をみれば、そちらの緑小鬼も首を断たれている。


 自身が助けられたのだという事実はリラを安堵させることはなかった。3匹とも殺せという条件を満たしていなかったからだ。


 もう一度チャンスを請おうとするリラにサイラスが言う。


「サイラスだ。多少は仕込んでやる。俺はお前を犯したりはしないが、覚えが悪いようなら殴る事もある。辛ければ逃げるといい」


「私は、リラ……です」


 そうかい、とサイラスは答え、背を向けてその場を去ろうとした。


 足取りは早く、その背は迷宮の薄暗がりに消えようとしている。


 リラはついていっても良いものかどうか悩むが、それも僅かな間の事。


 過去を振り切るようにサイラスの背を追っていった。

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