ミチルがそこに追いついた時には、すでにアニーがその獣と対峙していた。
黒くて大きい丸い獣。巨大な猪の姿をしたベスティアだった。
「アニー!」
「来るな、ミチル!」
右腕を広げて制しながら言うアニーの声には余裕がない。
その足元には腕を負傷したらしいマリーゴールドが蹲っていた。
「なんだ、君は?」
駆けつけたミチルの一番近くにいたのは、恰幅のいいスーツ姿の男性だった。
アニーとマリーゴールドが庇っているのを見れば、この人がマフィアのボスだとすぐにわかった。
「ボス、その子があれでさあ、アニーの……」
負傷した腕を庇いながら立ち上がったマリーゴールドは、苦悶の表情で言う。
「そうか。ではこの子は私に任せろ。お前達はその獣をやれ」
「アイサー!」
威勢よく返事をしたものの、マリーゴールドは足を震わせていた。腕の他にも傷を負っているのだろう。
「アニキ、ボスとミチルを頼む。こいつは俺がやる」
アニーは腰のバックルからナイフを取り出して獣の前で構える。
「おう、情けねえがこれじゃあ俺は足手まといだな」
言いながらマリーゴールドが一歩下がると、猪ベスティアは低く唸りながら前足で地面を蹴った。
「──それ以上は進ませない!」
アニーが怒気を孕んだ声で怒鳴りナイフを突きつけると、猪ベスティアは一瞬怯んだ。
「アニー!左だ!まずボスと小僧からそいつの注意を逸らせ!」
「オーケー!」
するとアニーはヒラリと身を翻して左へ跳び、猪ベスティアを挑発する。
「こっちだ、デカブツ!」
「ガアアァア!」
猪ベスティアは90度角度を変えてアニーのみと対峙した。
「ダメだよ!そいつに攻撃はあたらない!」
ミチルが叫ぶと、側にいたボスもマリーゴールドも怪訝な顔で振り返った。
「何だって?」
「君はアレが何か知ってるのか?」
二人の反応に、ミチルの方も驚いて聞き返す。
「ええ?あれはベスティアでしょ?知らないの?」
ミチルの言葉にボスもマリーゴールドも揃って首を傾げた。
「初めて聞いたな」
「私も初めて見る。アレは何なのだ?」
「ウッソぉ!ベスティアは影で出来てて、この世界に出没する魔物でしょ!?」
ミチルがそこまで言っても二人は見当も及ばないような顔つきだった。
「おい、アニー、知ってるか?」
「知らないよ、そんなの!話しかけないでくれる!?」
マリーゴールドが聞くと、アニーはナイフで威嚇しながら猪ベスティアの注意を自分に引きつけることで手一杯のようだった。
「ああっ!だからぁ、ベスティアは影だからこっちの攻撃が当たらないんだって!」
「……マジで言ってんのか、ボウズ」
「そうだよ!」
驚愕の事実に棒立ちになるマリーゴールドを他所に、ボスが鋭い眼光でミチルに聞いた。
「では、どうやって倒すと?」
「ええっと、何だっけ、カエ、カエルレウムでは騎士が持ってる魔剣じゃないと倒せなかった!」
「魔剣……西の大陸の技術か」
「ほんとに知らないの?」
ミチルはアニーに言われた事を思い出した。魔法などはここでは皆無の技術だと言っていた。
ベスティアそのものもこちらの大陸にはまだいないのかもしれない。
「テン・イーめ、とんでもねえもん持ち込みやがったな……!」
「むぅ、西からはるばる運んできたか、それともフラーウムにもいるものなのか……」
ボスは何やら小難しい事を考えていそうだが、ミチルにはさっぱりわからないし、目の前の猪ベスティアをどうにかする方が急務だった。
「そんな事よりアニーを助けなくちゃ!一人でなんて絶対無理だ!」
「そうだな、まずはアレを何とかしよう」
ボスはスーツの上着をバサリと脱ぎ捨てる。その様は任侠の大親分という風情だった。
「シブい!」
思わずミチルは声を上げる。シャツの中でパツパツとはち切れんばかりの筋肉は少年なら誰でも憧れる。
「ボスは下がっててくだせえ、俺ァまだやれるぜ」
ずいと前に出たマリーゴールドの腕をボスは軽々と捻った。
「痛え!」
「ふ。痩せ我慢をするな。最愛の
「激シブ!!」
こうなるとVシネも形無しのカッコよさだ。ミチルは任侠もののゲームの主人公を思い出していた。
「ボス!加勢はちょっと待ってくれよ」
「何?」
アニーは猪ベスティアから目を離さずに少し笑って言った。
「カエルレウムの魔剣だけが弱点だと決まった訳じゃない。俺のナイフにだって曾祖父さんの──ルブルムの誇りが込められているんだ!」
「無茶だよ、アニー!」
ミチルが叫んだ声も聞こえないかのように、アニーは猪ベスティアを睨みつけて地面を踏み込んだ。
「俺達の魂はこの地と共にあるッ!」
アニーは風のように跳躍しながら走り、黒い獣の頬を切りつけた。