金縛りは、就寝中に意識がはっきりしているにも関わらず身体が動かせなくなることだ。
ほとんどの人は、そう思っている。
でも私の場合、起きている時も時折身体が動かなくなる。
最初は一瞬だけだった。
電車に乗ろうとしたとき、突然足が前に出なくなる。
数秒で収まるから、さほど気にしなかった。
でも、徐々に頻度が増えていった。
そして、動けない時間も長くなっていった。
ある日、駅のホームで突然身体が動かなくなった。
電車が近づいてくるのに、線路に落ちてしまいそうで。
冷や汗が、背中を伝った。
ホームに人がいなかったら、本当に死んでいたかもしれない。
駆けつけた駅員さんに助けられて、なんとか難を逃れた。
流石にまずいと思って、病院に行ってみた。
でもお医者さんは、何にも異常は無いって言うんだ。
「ストレスからくる心因性の症状かもしれません」と言われた。
それでも私が、しつこく症状を訴えて。
睡眠不足を解消するお薬を、もらったんだ。
「睡眠薬を試してみましょう。十分な睡眠が取れれば、症状も改善するかもしれません」
お医者さんの言葉に、すがるような思いで頷いた。
病は気からとも言うし、私はこれで治ったと思い込むことにした。
実際それからしばらくは、金縛りは起きなくて。
私も、ようやく治ったと安堵していたんだ。
でもある日、お風呂に入っていた時のこと。
突然、金縛りが襲ってきた。
身体の自由が効かなくなり、段々お風呂の底に沈んでいく。
次第に口が浸かり鼻が浸かり、息が出来なくなった。
それでも、意識ははっきりしていて。
自分がこれから死ぬのだと、分かった。
そして、その時初めて見えたんだ。
立ち上る湯気の中で、ぼんやりと浮かび上がる姿。
頼りないほど白く細い腕が、私の身体を押さえつけているんだ。
それが、産まれてすぐに死んでしまった娘であることはすぐに分かった。
五年前、難産だった。
医者たちの必死の努力も空しく、娘は生まれてすぐに息を引き取った。
抱きしめる間もなく、冷たくなっていく小さな体。
それ以来、私の心には大きな穴が開いたままだった。
これまで一日だって、娘のことを思い出さない日は無かった。
それでも、私は平気な振りをして毎日を過ごしていたんだ。
家族や友人に心配をかけまいと、笑顔を作って生きてきた。
でもその仮面の下で、私の心は少しずつ蝕まれていった。
「あなたが、私を殺そうとしていたんだね」
金縛りの正体を知って、私はようやく満足した。
これまでの苦しみが、全て意味を持ったように感じた。
「寂しい思いをさせて、ごめんね。私も、すぐにあなたの所に行くから」
心は、異常なほどに落ち着いていて。
娘にまた会えた喜びで、胸の中は満ちていた。
やがて目まで浸かって、何も見えなくなって。
そのまま、水の中に沈んでいったんだ。
「ゴボッ、ガハッ……」
それから、どれだけ時間が経ったのかは分からない。
身体が大きく跳ねるような痙攣と共に、私は意識を取り戻す。
辺りを見回しても、娘の姿は何処にもなかった。
どうして、娘は私を殺さなかったのだろう。
そんな疑念が、真っ先に浮かんだ。
でも、最後に見えた娘の表情を思い出して納得する。
今でも私は、娘の優しい笑顔を忘れられないのだ。
その笑顔には、「まだ死んではいけない」というメッセージが込められていたように思う。
浴槽から這い出し、冷たいタイルの上に横たわる。
いつの間にか、私の心の中の大きな穴は埋まっていた。
これからは、娘の分まで生きていこう。
そう心に決めて、私はゆっくりと立ち上がった。