2021年7月23日
今日は57年振りに、東京でオリンピックの開会式が行われる。
世間はオリンピック一色に染まっており、日本における今世紀最大のイベントの一つだ。
しかし、DPAではオリンピック以上に重要な作戦が行われていた。
夕方頃、1人の作家が件の地下室へと運び込まれた。
ガイドのオフィスには西日が差し込んでおり、この時間はオフィスが最も暗い時間帯だった。
DPAという秘密結社においても世間と同様に節電のルールが導入されてから久しい。
室内の電気を、昼用の電力を抑えたものと夜用の明るいモードの自動切換えシステムを採用しているため、切り替わる直前のこの時間帯がなんとも居心地が悪い。
おかげでこの時間帯には資料を読むのも一苦労だった。
「まったく、なんて環境にやさしい秘密結社だ」
皮肉交じりに溜息をつきながら、黄昏時のオフィスで資料を手に取り老眼に鞭を打つ。
——— 一通り目を通し、再度大きなため息をつく。
先ほどとは違った種類の溜息だった。
デスクの一番上の引き出しから濃い色のサングラスを取り出す。
「はぁ、まーたこのサングラスに逃げる日が来るとはねぇ。捨てなくてよかったよまったく」
ガイドという立場に就いた半世紀ほど前。
あの頃はまだ罪悪感に苛まれ、凶悪犯相手に目を逸らしていることを悟られないよう、目線のわからないこのサングラスをかけてガイドの役目をこなしていた。
数年が経ち仕事にも慣れた頃、今使っている焦茶のレンズのサングラスを新調してからというもの、
何十年も出番がないまま引き出しの奥で眠っていた。
しかし、3年程前にたったの数分間だけ現役復帰させたことがあったが、今回もまた数分間の出番が回ってきた。
「中々隠居させてもらえないってとこまで持ち主に似ちまったなぁ」
本日3度目の大きなため息を吐く。
今回はいつもの資料とは別に分厚い紙の束も一緒に渡された。
1時間ほど集中して読むと、エレベーターで地下へと降りる。
このときも紙の束をペラペラとめくりながら眺めていた。
鉄製の扉を開けて中に入ると一人の若者の姿が目に入る。
どうやら彼もこちらに気付いたようだ。
今日も3年前同様に“普段通りのガイド”の役に入る。
「想像力もここまでくるとサイキックだなぁ。小説家ってのはみんなこうなのか ———」
彼は小説家であり、3年前このサングラスが現場復帰するきっかけとなった男の弟子だった。
彼の師匠、中山望は小説家としての才能を大きく開花させ波に乗っているところを無実の罪で捕らえられ、現在もマイキーとして第二の人生を歩んでいる。
胸がキリキリと締め付けられるのを抑え“役”に徹する。
「せっかくだから教えてあげよう。DPAはDream Project AgencyではなくDream Program Agencyだ」
この男は驚いたことに、エージェントから直接情報を得た中山望とは違い、自身の想像力だけでDPAの存在に辿り着いた、天才的な想像力と創造力を持つ男だ。
仮にこれに辿り着くことがなければ、ここに連れて来るという選択肢からは除外されていた可能性もあったかもしれない。
かつての鳴かず飛ばずの芳田祐介ならば何の脅威でもリスクでもなかったが、才能が開花してしまったが故に、最悪の未来へと進んでしまった哀れな小説家だ。
この男の驚くべきところはDPAという組織名、そしてガイドと呼ばれる人物まで創作していたということだ。
驚異的なイマジネーションは現実との差を埋める。
“事実は小説よりも奇なり”を食ったような小説が危うく世に出るところだった。
立場によってはこれはフィクションではなくただの暴露本の類でしかない。
小説好きなガイドとしては、彼の書く作品をもっと読んでみたいとすら思っていた。
才ある若者の人生を終わらせる役目を2度も経験することになるとは。
そんな想いを胸の奥底にしまい自分の目から遠ざける。
そうして目の前で怯える才能の原石に、いつもの選択肢を与える。
——— 地上へと戻ったガイドのスマホに一通のメールが届いた。
“ mission "S" completed. ”
どうやら、無事もう一人の処分も終えたようだ。
奇しくも同時刻、地上から真相を知る2人の男が姿を消した。
オフィスのテレビをつけるとオリンピックの開会式が既に始まっていた。
ガイドは前回の東京オリンピックの開会式もリアルタイムで見ていた。
この世代の多くは、自分が生きている間に東京オリンピックが再び開催されるということに感動を隠せない。
開会式の終了を見届けるとテレビの電源を切り、サングラスを引き出しにしまいオフィスを後にする。
自宅から10分程の場所にある馴染みのバーに寄り、いつもの席に座る。
かれこれ数十年間、カウンターの端の席がガイドの定位置となっている。
ルーティンを大切にするガイドは、仕事後は毎日この店に寄る。
マスターがおしぼりを出し、“いつもの”を用意すべく、バックバーに鎮座する“ロングモーン16年”に手を伸ばそうとしたとき、ガイドが声をかける。
「マスター、すまないが今日はギムレットを」
「かしこまりました」
「あと、悪いんだがマスターも1杯付き合ってくれ」
「ええ、もちろんです」
そう言って手際よく二杯のギムレットを作る。
シェーカーを振ると小気味良い音が店内に響いた。
「お待たせいたしました」
ガイドに合わせて作られたそれは、フレッシュのライムではなくローズライムジュースを使用したクラシックなレシピ。
「懐かしい味だ、ありがとう」
マスターはニコっと笑顔で応え、そして優しい口調で尋ねる。
「大切な方ですか?」
「まぁ、大切かはわからないが、顔馴染みが、2人ね」
「そうですか」
「過去を清算するにはピッタリなカクテルだろ?」
「ええ」
ガイドは静かにギムレットを味わう。
ノスタルジーに浸りながら、最後の一滴を飲み終えると、グラスを僅かに掲げ、誰もいない2つ隣の席へと別れを告げた。
- 終 -