——— 初任務から3年後。
数多くの任務を経て、斎藤からの信頼を勝ち取り、
更に本部からも高く評価されていた。
そんな中、斎藤は昨日から個別の任務を受けて本部長の秋山とともに、本国であるアメリカへと向かう飛行機の中にいる。
DPAはフロリダ、東京、パリ、香港に各国の本部があり、カリフォルニアには世界総本部が設置されている。
今回斎藤たちが向かったのは、カリフォルニアにある総本部。
不定期に各国のエージェントが招集され会議を行う。
今回の会議は、以前斎藤が言っていた『上海特殊収容所設置』に関することが議題だ。
このまま右肩上がりで増加する犯罪者の数を、それぞれの国だけでは収容できなくなる事が予想されている。
それに伴い、以前から議題にはあがっていた共通収容所の件が具体的に始動することになった。
そこに収容された死刑囚たちを管理するための費用、人材、その他諸々の権利やルールなどを決めるのが今回の目的だ。
そこに入る囚人の人種や数の割合、様々な事柄が絡み合い一筋縄では解決しない事は誰の目にも明らかで、あらかじめ20日間の日程が確保されていた。
そんな場において、瞬時に相手を分析し最適なキャラクターになる事ができる斎藤は、コミュニケーターとして最適だった。
とは言え、言葉のチョイスや言い回し一つで不利な条件になりかねない為、斎藤と秋山も今回ばかりは緊張していた。
その頃、日本では周平に5日間の休暇が与えられていた。
久しぶりのまとまった休みに羽を伸ばす。
日頃の疲れを癒すために、温泉でのんびりと過ごすべく箱根へと向かった。
生まれて初めての箱根。
箱根湯本の駅に着いて周平は戸惑った。
予想以上に人が多い。県内屈指の観光地を舐めていた。
しかし今更別のプランを考えるのも面倒なため、観光は諦めて早々にホテルへチェックインした。
今回選んだホテルは以前SNSで目にしたブックホテルだ。
機会があれば行こうとチャンスを伺っていたタイミングでエージェントとして配属され、そこから今日まで多忙な日々を送っていた周平にとって、この連休はまさに待ちに待った瞬間だった。
無類の小説好きである周平にとって、本に囲まれたそこはまるで夢の国。
しかし、今日は既に家の近所で3冊の本を買ってから来た。
突然の休暇だったが、ふと立ち寄った書店で派手なポップに目が留まる。
【荒井端望 昼下がりの満月 最新刊】
まさか好きな作家の新作発売日に重なるとは、まさに運命だ。
【昼下がりの満月】は周平がエージェントとなった年に、この作品の第一作目が出版され、その翌年に直木賞を受賞した。
しかし、激務のため読もう読もうと考えているうちに、気付くとこんなにも時間が経ってしまっていた。
普段は仕事が忙しくゆっくり小説を読むことが難しい。
それどころかエージェントになってから一冊も読めていない。
今回の休暇は3年分の欲求を満たすためだけに使うと決めていた。
ホテルにチェックインすると真っ先に温泉へと入向かう。
その後ゆったりとした服装で館内を見て回った。
至る所に様々なジャンルの本があり目移りしてしまう。
そして小説コーナーへと辿り着き、そこにも荒井端望の小説が並んでいるのを見つけた。
直木賞を受賞し一躍有名になり世間から評価されたが、周平はそれよりも前、デビュー当時からのファンだった。
なんとも心理描写が上手く、まるで自分が本当に小説の中のキャラクターではないかと錯覚してしまうほどに、のめり込める表現力に周平は虜になっていた。
一通り館内を見て回り、どこにどんな本があるかが把握できた。
今朝買った新作を読み終えたら彼の他の小説でもゆっくりと読み直すか。
そんなプランを立てながらニヤニヤとした表情でリラックスして読書ができそうな席を吟味する。
本棚の奥に隠される様に配置された一人用の個室を選んだ。
セルフサービスのコーヒーマシンでホットコーヒーを入れ、いざ着席。
そしてスマホの電源を切る。
さぁ、集中できる環境は整った。
それでは…と手揉みをしながら、好物に手を伸ばす子供のように目をキラキラさせて表紙をめくった。
——— あっという間に1冊目を読み終わってしまった。
読んでいる間、きちんと呼吸ができていたかが怪しい程に没頭していた。
今まで読んだ彼の作品の中でも、今回の【昼下がりの満月】は桁違いの面白さだった。
心理描写だけでなく世界観の構築など、全てのレベルがこれまでのものとは段違いだった。
今が彼の全盛期なのか、それともまだまだ伸びるのか、ファンとしてとても嬉しくなった。
そういえば映画化も決定したとニュースで見たことを思い出す。
自分の好きな作家が世間に評価されて嬉しい反面、より遠くの存在となってしまったような寂しさも感じていた。
その後、立て続けに2冊目も読み終えたタイミングで夕食の時間が迫っている事に気付く。
読み始めた時はまだ明るかったのに、気付くと窓の外は真っ暗だった。
飲まれる事なく役目を終えた、元ホットコーヒーを、片付けてレストランへと移動する。
食事中も気付くと小説の事ばかりを考えていた。
次の巻ではどうなるだろう、あの人物の伏線が回収されるのか、はたまたまだ泳がせるのか…。
そんなことを考えながら、美味しい食事とワインで一層気分が良くなっていた。
食事を終えて、レストランを後にする。
今すぐ続きを読むのも良いが、せっかくの旅行なのでのんびりする時間も作ろうと、もう一度温泉に入り静かな夜を楽しむことにした。
まだ初日だし、慌てることはない。
あと4日もあると、自分に言い聞かせ、のんびりと夜の温泉を堪能した。
——— 日頃の疲れや、ストレスがお湯に溶け出していく。
夏の暑さが落ち着き、徐々に涼しくなりつつある。
陽が落ちると少し肌寒さも感じてくるがそれもまた心地良い。
薄らと色づき始めた紅葉がオレンジ色の灯りに照らされているのを見ながら入る温泉は格別だった。
夜の温泉もまた昼とは違う風情があり気付くと長湯をしてしまう。
この3年間、色々な事があった。
思えばエージェントになってから今日まで、風景を見て感動した記憶がない。
非日常的な任務によって心が麻痺していたようだ。
無意識のうちに感受性を抑える事で、心が壊れない様に自己防衛をしていた事に気付く。
一時的とはいえ、日常に戻る事でその冷え固まった心が温泉の熱で溶かされていく。
部屋に戻る途中でコーヒーマシンでホットコーヒーを淹れる。
ソファに腰掛け、今度は湯気が立っている間にコーヒーを楽しむことに成功した。
予想以上に疲れていたのだろう。
急激に睡魔が顔を見せてきたため、続きは明日への楽しみにとっておき、今日はこのまま寝ることにした。
——— 翌朝、朝5:30に目が覚める。
ホテル周辺を60分ほどかけてのんびりと走り、朝風呂で汗を流してからレストランで朝食をとり部屋へと戻った。
そこからは再び活字の世界へと没入していく。
——— ゆったりとした時の流れ、都会の喧騒から離れた自然の中で本に囲まれながら好きな小説を読み、温泉にも浸かり、美味しい食事とワインも堪能した。
この上なく幸せな時間をすごし、溜まりに溜まった疲れは全て消え去り、身体が嘘みたいに軽く感じていた。
楽しい時間はあっという間にすぎ、チェックアウトの朝は訪れた。
名残惜しい気持ちを抑え、箱根の山々に別れを告げて現実世界へと戻る。
明日からはまたエージェントとしての日々が始まる。
緩んだ心を今一度引き締め直す。
こうして周平の休暇は終わりを告げた。
翌日、本部に来るよう言われていたため、朝から本部へと向かった。
本部へ着くと、副本部長である榊のオフィスに行く様指示される。
そこで斎藤がまだ本国から帰っていない事を聞かされた。
やはり一筋縄ではいかず、確保してある20日間の日程をフルで使うことになると予想されるとのこと。
オフィスへ行くと、副本部長である
斎藤が戻るまでの期間、周平は特殊任務に就くことを命じられる。
任務の内容は【S】の監視。
本来ならエージェントの任務は2人で行うが、今回は特殊な内容のため、犯罪行為は起きない可能性が極めて高い事から、周平1人で任務に当たる事になった。
単独での任務自体が異例だが、その中でもルーキーが単独で行うなんてことは前例がない。
しかし、これまでの活躍は幹部達の間でも度々話題にあがるほど。
更にバディである斎藤からも、シニアに匹敵する能力の持ち主であると評価されている。
DPA史上初となる、ルーキーでありながらトップエージェントとして認められた唯一の男となった。
この任務を終えた後、正式にシニアへと昇格することが榊により約束された。
一般のエージェントは【M適性】については研修で知らされる。
しかし、【S】の存在については執行部のみが知る最重要機密の一つ。
それを一般のエージェントである周平に、副本部長の榊が自ら説明する。
これだけでも、この任務の重要度の高さを理解するには十分すぎるほどだった。
こうして、周平の人生を左右することになる、トップエージェントとしての初の任務が始まる。