普段よりも地味なドレスに身を包み、深く帽子を被ったアメリアは建ち並ぶ店の前を足早に通り過ぎていく。その隣にいつもあるはずの姿はない。
『一時間で帰ってくること、いいわね?』
諦めたようにため息を吐いて、渋々そう言っていた母親の姿が脳裏を過ぎる。約束を破ったらどれだけ叱られるか分からないと、歩くスピードはまた少し速くなった。
バケモノと呼ばれる存在を忌み嫌わず、将来恥をかかないようにと厳しくも愛情を持って育てられたことをアメリアはよく理解していた。そんな両親には感謝してもしきれないし、これ以上の迷惑はかけられない。ましてや今日は我儘を言って一人で街まで出てきたのだ。自分を信頼してくれた母親を裏切ることになってしまう。
明日は幼少の頃からずっとお世話になってきたアマンダの誕生日。彼女の誕生日を祝いたいと相談したら「今日だけ特別よ」と許可してくれた。きっと今頃、母親がアマンダの気を引いてくれていることだろう。
昔の自分なら一人で街に行くなんて周囲の目が怖くてできなかったと思う。でもエマと一緒に街に出掛けるようになって、こんな私でも大丈夫かもしれないと思えるようになった。
目当てのお店はもうすぐそこ。
何度かエマと一緒に来たことがあるから店主とも顔馴染みだ。このお店のハンドクリームは香りも効能もいいと評判だった。仕事の影響で手が荒れがちなアマンダのため、アメリアは随分と前からここでプレゼントを買おうと決めていた。
カランカランとベルの鳴る音がして、店の奥から「いらっしゃいませ」と声が飛んでくる。それを合図に中にいた全員の視線がこちらに集中した気がして、居心地の悪くなったアメリアは耐えきれず顔を伏せた。
帽子だって被ってるから、彼女たちを直視しなくて済む。けれど、彼女たちの反応が怖くて入口で固まったまま動けない。したくもないのに、ぴんと張り詰めた神経が敏感に様子を伺おうとしている。
他人の目を気にして日陰で生きてきたアメリアとは対照的に、自分のやりたいように真っ直ぐに生きてきた令嬢たち。お店に入っただけなのに、心臓がバクバクとうるさい。
住む世界が違うと、はっきり告げられた気分だ。いっそこのままUターンしてしまいたいとさえ思ってしまう。そんな弱い自分に自己嫌悪していれば、ひそひそと話す声が聞こえてくる。
「ねぇ、もしかして噂のコリンズ嬢じゃないかしら」
「やだ、わざわざ一人で何しに来たの」
「お揃いのものを持ってたら馬鹿にされてしまうわ」
「いつも顔を隠してるなんて気味が悪いわね」
不躾な視線、遠慮のない悪口。聞こえても構わないのだろう。アメリアが傷ついたとしても、彼女たちにとってそれは取るに足らない些細な出来事なのだから。
いつも盾になってくれるエマもアマンダも今日はいない。最近は二人が睨みを利かせているから忘れていたけれど、アメリアが嫌われ者であることはいつだって変わらない。
傷つくことに慣れたと思っていても、心は素直だ。言葉のナイフは悪意を持ってアメリアの心にグサグサと突き刺さり、背中をじんわりと嫌な汗が伝った。
「ほんと、バケモノみたいよね」
そんな一言が耳に入った瞬間、アメリアはベールを被るきっかけになった出来事を思い出した。
☆
――それは、遠い昔の記憶。
アメリアがこの国の第三皇子の婚約者だった頃に話は遡る。
先祖代々コリンズ家は宰相を務めてきた、堅実で優秀な家系だった。皇帝陛下の右腕として信頼も厚かったため、アメリアはこの世に生を受けるとすぐに二歳上の第三皇子の婚約者に選ばれた。
物心つく前に決められた運命。アメリアはそれを窮屈に思うことなく、未来の夫のために厳しい妃教育も乗り越えていた。
初めて彼と顔を合わせたのは、アメリアが五歳になる誕生日だった。
将来を共にする婚約者を祝おうと遠路はるばる伯爵家までやってきた第三皇子は少し緊張した面持ちで頬を赤く染め、それでも微笑みを絶やさずに恭しくアメリアの手を取った。
「はじめまして、アメリア嬢。そして、お誕生日おめでとう。貴女が産まれた今日という日にお会いできたことを嬉しく思います」
コリンズ家自慢の庭園の花々がさらさらと清かな風に揺れる。それはまるで二人の出会いを祝福しているかのよう。
顔合わせの日程が決まってから今日まで、夢に見るほど何度も繰り返し作法を練習してきたアメリアは失敗を許さない。ドキドキと高鳴る心臓の音を悟られないよう、綺麗な微笑を浮かべて頭を垂れた。
「はじめまして、殿下にお会いできることを心待ちにしておりました。今日はお越しくださりありがとうございます」
全ての負の感情を隠し通し、マナー講師も感涙するほど完璧に振る舞ってみせたアメリアに降ってきたのは、控えめで上品な笑い声。
「ふふ、アメリア嬢は噂通りの方なんだね」
「……?」
「貴女が私の婚約者でよかったということだよ」
「……もったいないお言葉です」
曖昧に誤魔化されて理解が追いつかないアメリアは、素直に褒め言葉と受け取って再び頭を下げた。
そんな彼女の様子を見つめていた第三皇子は、最初の緊張はどこへやったのか、堅苦しい空気は終わりだと言わんばかりに半ば強引に手を引いた。
「ほら行こう、アメリア嬢と話したいことがたくさんあるんだ」
二歳歳上の婚約者――レオン・ヴェンネルベリは、きょとんと目を丸くするアメリアに向かって悪戯な笑みを零すと、庭園の真ん中に用意されたテラスへ彼女をエスコートした。
最初は緊張していたアメリアだったが、彼は第三皇子という身分をひけらかすような真似をすることもなく、二人の間にはただ穏やかな空気が漂っていた。
幼い年齢の割にやはり英才教育の賜物か、物腰は柔らかいのにユーモアがあって、観察眼が優れているからか、気配りも素晴らしい。彼が笑う度にプラチナブロンドの髪がさらさらと揺れる。あまりにも眩しくて、その煌めきからアメリアは目が離せなかった。
(こんな素敵な方と将来を共にするのね……もっと頑張らなくちゃ)
今のままでは彼に見合わないと、アメリアは内心奮起した。レオンに恥をかかせるわけにはいかない。笑い者にするわけにはいかない。
顔合わせは何の問題も起きず、平穏に終わった。そして、その日からアメリアはこれまで以上に妃教育に熱心に取り組むようになった。
微笑ましい二人を周囲の大人たちも暖かく見守っていた。将来一緒になることが決まっているのだ、仲がいいに越したことはないだろうと。
まだ幼いアメリアはそれが恋なのか分かっていなかったが、レオンが彼女を特別に思っているのは周知の事実だった。
そんな甘酸っぱい関係が突然崩れ去ったのは、アメリアが八歳になったときのこと。レオンと出会って、三年が経っていた。
爽やかな風が吹く、よく晴れた夏の日だった。
いつものように、アメリアたちはテラスで向かい合って談笑していた。背の伸びたレオンは十歳だと思えないほど大人びていて、アメリアの知らないことをたくさん知っていた。
「レオン様は何でもご存知で、すごいですね」
「僕なんて、兄上たちに比べたらまだまださ」
「いえ、そんな風に卑下なさらないでください。私がいつも頑張ろうと思えるのはレオン様のおかげなのですから」
レオンから新しい知識を与えられる度、アメリアは自分の世界がどんどん広がっていくようで、ワクワクが止まらなかった。
彼の話についていけるようになりたいと思うと、学ぶことに対する意欲は止めどなく湧いてくる。だからこそ、尊敬している彼が自分自身を卑下するのを許せるはずがなかった。
もちろん、彼の二人の兄が優秀であることは紛れもない事実であるし、アメリアもそれは理解している。けれど、密かに劣等感を抱いていたレオンはまっすぐなアメリアの言葉に表情をふと崩して下を向いた。
(いつだって僕が欲しい言葉をくれるのはエイミーだけだ)
三年の間に彼女の存在はレオンにとってかけがえのないものになっていた。
真綿のように優しく包みこんでくれる愛が心地良い。いつだってあたたかく照らしてくれる、道標だった。レオンはスっと前を向いてアメリアを見つめる。
(どんなときも、エイミーに誇れる存在でいたい)
「エイミー、」
「はい」
陽の光を反射して、キラリと輝く瞳が宝石のようだと思った。この瞳を曇らせるようなことなど、あってはならないと思っていたのに。
「……っ、」
「?」
一世一代の告白。
僕には彼女しかいない。
改めて将来を誓い合いたい。
そう思ったものの、アメリアがあまりにも眩しくて、なかなか言葉にできない。
どうしたのかしらと不思議そうに首を傾げたアメリアは、そんなレオンの顔を覗き込んで目を合わせた。
(嗚呼、きっと兄上たちならこんなときもスマートに対応するだろうに)
生まれて間もない頃に側室だった母親を亡くしているレオンにとって、二人の兄の母親、つまりこの国の皇后陛下から疎ましく思われていることはよく分かっていた。
――出来損ないの忌み子。
それは皇后から放たれた、呪いの呼び名。
レオンにだけ聞こえるようにこっそりと耳打ちされたため、その呼び名を知る者は彼ひとりしかいない。
一国の皇子であるレオンにとって、あまりにも不名誉な呼び名は彼を苦しめるには十分だった。
レオンは何もしていないのに、ただそこに存在するという事実が皇后の機嫌を損ねたのだ。だから憎悪溢れる瞳で睨みつけられ、時にはいないものとして扱われる理不尽にもただ耐えるしかなかった。
その度に呼吸が浅くなるほど恐怖し、フラッシュバックして眠れない夜を過ごしたのは数え切れないほど。幼い彼は皇后の反感を買わないよう、完璧を演じられるように努力するしかなかった。
そんな彼が初めてそばにいてほしいと願った相手、それがアメリアだった。
この世の悪なんて知らない、純粋な瞳にすべてを見透かされているような気持ちになる。そうして、あの呼び名を思い出してしまって自己嫌悪。
彼女にだけはバレたくない。つきんと胸の奥が痛んで、眉間に皺を寄せればアメリアが口を開いた。
「レオン様、」
宝石の瞳にじんわりと涙が浮かんでいる。理由は分からないけれど、それを拭ってあげたくてレオンは指を伸ばした。
「レオン様は『出来損ないの忌み子』じゃないです。私は、」
――ビクッ。
何を言われたのか、まるで理解できなかった。
驚きで動きが止まって、アメリアが話し続けているのに何も頭に入ってこない。
今、彼女は、何と口にした?
どうして誰も知らないはずの呼び名を知っている?
かあっと頭に血が上る感覚がした。
気づいたときには立ち上がって、ばっと掴んだ目の前のグラスの中身を彼女の頭にかけていた。
「どうしてその呼び名を知っているんだ!」
「ッ、レオン様、」
「近寄るな、このバケモノ!」
そこまで言って、ハッと我に返る。
ポタポタと、綺麗な金髪から雫が零れ落ちるのがひどくスローモーションに見えた。慌てふためいたメイドの声が耳に入ってくる。
戸惑いを隠せない彼女の瞳は揺れていた。
その色は絶望に染まっている。
取り返しのつかないことをした。
そう理解した手からグラスがするりと落ちて、パリンと音を立てて割れてしまった。
貴女だけには知られたくなかった。
このグラスのように、砕け散った自分たちの関係は元に戻れない。
アメリアを傷つけたという事実に自分勝手に傷ついて、大人びたはずの十歳の少年は彼女の全てを失ったのだとすぐに悟った。
綺麗な思い出にするなんて、嘘でも言えなかった。唯一無二ともいえる存在を忘れることなんて、簡単にできやしない。
だけど、無理だった。
アメリアを傷つけておいて、平気な顔をして横に並んでいられるほど、彼は鈍感ではなかった。
こんな自分に彼女を幸せにする資格なんてない。
唇を噛み締めた彼にできることは、後日、婚約破棄の連絡を伯爵家に送ることだけだった。
その手紙を受け取った日からアメリアはベールを被って過ごすようになり、明るい笑顔は滅多に見られなくなってしまった。