その日、読書が趣味のアメリアはアマンダと共に国立図書館に足を運んでいた。
最近恋愛ものの小説が流行っていると小耳に挟んで興味を持ったけれど、自分で買うのはなんだか気恥ずかしくて、一度どんなものかだけでも見てみようと思って探しに来たのだ。
さすがは国立図書館。
所蔵している本は数え切れないほど。
棚の上から下までびっちりと本で埋まっている。
何百年もの歴史を持つ本もあるけれど、どれもきちんと手入れされていることがよく分かる。
静かで穏やかな図書館特有の雰囲気が、アメリアは好きだった。
「アマンダ、私は上を見てくるわ」
「かしこまりました」
このままだと日が暮れてしまうからと、手分けして探すことに決めた二人。
アメリアは四階まで階段を上る。
デスクで読書に耽る老人が数人いるぐらいであまり人はいなかった。
(あ、)
物音を立てないようにしながら本棚の間を見て回っていると、元々探していたものとは違う、少し気になる背表紙を見つけてしまった。
図書館はこんな風に新たな出会いがあって、とても楽しい空間なのだけど……。
(うーん……届かない……)
背伸びをして必死に手を伸ばすけれど、背の低いアメリアではなかなか届きそうにない。
職員さんを呼んできて取ってもらうこともできるけれど、忙しそうな彼らの手を煩わせるのは気が引ける。
(しかたないわ……)
諦めようと手を下ろしかけた時、背後から手を伸ばした人がアメリアの代わりにその本を棚から抜き取った。
突然背中に感じる鍛えられた男性の気配に、アメリアは身を竦める。
まるで後ろから抱き締められているような。
誰なのかわからないのが怖くて、恥ずかしい。
アメリアが固まっていると、背後の彼は静まり返った空間に配慮したのか、ひそひそと彼女の耳元で囁いた。
「欲しかったのはこちらですか?」
思わず漏れそうになった悲鳴を咄嗟に抑えたことを褒めてほしい。
アメリアの目の前には、本を差し出すルーカスの姿があった。
「あ、ありがとうございます……」
小さな声でお礼を言って、アメリアはおずおずとそれを受け取った。
もう会えないと思っていた相手に早々に遭遇することになってしまい、ルーカスの目を見ることができない。
たとえベール越しだとしても、彼の瞳にまっすぐ見つめられると心臓が飛び跳ねて、胸の奥が疼いてしまうから。
「それでは私はこれで……」
本をぎゅっと抱きしめて火照った顔を隠そうとする姿を満足そうに眺めたルーカスは、丁寧にお辞儀をすると階段を降りていった。
(他の階に用事があったのかしら)
もしかすると五階から降りてくる途中、必死に手を伸ばすアメリアをたまたま見つけて助けてくれたのかもしれない。
『貴方の気持ち、気づいてますか? ~運命の人と幸せになる方法~』
こんな胡散臭い本に興味があるのだと、ルーカスにそう思われてしまったかもしれない。
アメリアがそのことに気がつき、どうしようもなく慌てふためくのは、彼が立ち去ってすぐのことだった。
◇◇
アメリアは朝からうきうきしていた。
二ヶ月程前に頼んだ新しいドレスが、やっと完成したと連絡があったのだ。
噂のせいもあってパーティーに呼ばれることは滅多にないけれど、ドレスで着飾った姿を見るとなんだか違う自分になれた気がするから。
着る機会なんてエマとのお出かけかお茶会ぐらいだけどいつも大袈裟なまでに褒めてくれるから、アメリアもそこは素直に受け取るようにしていた。
「アマンダ、早く行くわよ」
「はい」
わざわざアメリアが行かなくとも、アマンダや他の使用人が受け取りに行けばいいのかもしれない。
でもアメリアは、真っ先にその目で新しいドレスの出来を確かめたかった。
いつもより早く目が覚めたアメリアは、アマンダを急かしながら馬車に乗り込んだ。
街の仕立て屋はもう何度もオーダーメイドでドレスを作ってもらった、信頼のできるお店。
アメリアが普段着るものは、ピンクや赤の暖色系ばかり。今回は初めて仕立て屋に似合うと勧められた水色にしてみたのだ。
期待に胸を弾ませて、仕立て屋の重厚なドアを開ければ、カランカランとドアについたベルが鳴る。
デスクの前に腰掛けて、型紙を作成していた初老の男性がズレた眼鏡を直しながら顔を上げた。
「ああ、アメリア様、お待ちしておりました。今用意いたしますね」
「はい、ありがとうございます」
アメリアを見てにこっと笑った品のある仕立て屋は、奥に引っ込むと大事そうにドレスを抱えて戻ってきた。
「まぁ、素敵ですわ」
アマンダがそんな声を漏らす。
アメリアはベールに隠した瞳をキラキラさせて、頬を上気させた。
「細かいところを直すので一度着てみますか?」
助手を務める仕立て屋の奥さんが、花が咲くようなオーラをふわふわ飛ばして嬉しそうなアメリアに声をかける。
その提案にこくりと頷いたアメリアは、試着室に向かった。
アマンダに手伝ってもらいながら新しいドレスに袖を通していると、カランカランとベルの音が聞こえてきた。
他のお客さんと鉢合わせるのは気まずい。
しかし、常に時間に追われている忙しい仕立て屋と奥さんのためにも、ここでぐずぐずしているのは申し訳ない。
着替え終えたアメリアがおずおずと試着室から顔を出すと、すぐに気がついた奥さんが「まぁまぁ」と嬉しそうに近づいてくる。
アメリアが開けられずにいたドアを引っ張ると、その姿を上から下までじっくりと観察して頷いた。
「すごくお似合いだわ」
初めての挑戦である寒色系。
自分に似合うのか不安だったアメリアは、開口一番にそう言ってもらって胸を撫で下ろす。
ホッと息を吐くアメリアに、じいっと突き刺さる視線。
そんなに見られたらさすがに無視するわけにもいかなくて、アメリアがデスクの方を向くと、真顔でこちらを見つめるルーカスの姿があった。
(なんで、彼がここに……)
ぶわっと熱くなる頬。恥ずかしい。
まだ手直しが済んでいないとはいえ、初めて見せる相手がルーカスになるとは思ってもいなくてドキドキが止まらない。
(似合わないって思われてたらどうしよう……)
不安がぐるぐると巡る頭の中で、新たに疑問が湧いてくる。
(そもそも挨拶をするべきかしら。
彼も目的があってここに来たのだから、見て見ぬふりをするのが良いかしら。
でも、しっかり見られているのだから、無視する方が失礼よね。)
こういう時、どんな行動をとるのが正解かわからなくて固まってしまうアメリアを他所に、ルーカスは仕立て屋に断りを入れるとアメリアの前までやってきた。
「アメリア様、こんにちは」
「……こんにちは」
「まさかこんなところで会えるなんて。どんなアメリア様もお綺麗ですが、今日は一層素敵で驚きました」
「ありがとうございます……」
真っ向から褒められて、もごもごと言葉に詰まってしまう。
そんな姿でさえも目に焼き付けようとしているのか、まっすぐに視線を送ってくるルーカス。
彼のことを寡黙だと言ったのは誰だろう。
前よりも遠慮がなくなっているような気がするのは、果たして気のせいなのか……。
「新しいドレスを着た姿を一番に見られて光栄に思います」
「そんな大層なものじゃありません」
「貴女の貴重な初めて……ゴホン、いえ、とにかく貴女に一目でも会えてよかったです。では、私はこの辺で」
何を考えたのか、頬を少し染めたルーカス。
アメリアが首を傾げている間に、彼はそのまま仕立て屋に一言声をかけると、足早に店を出ていってしまった。
「アメリア様、どうぞこちらに」
「……」
「アメリア様?」
「あ、はい」
その後ろ姿をぽーっと見つめていたアメリアは、仕立て屋に声をかけられて慌てて返事をするのであった。
◇◇
それから数日が経ったある日のこと。
アメリアは、アマンダを連れてずらっと出店が並ぶ路地を物色していた。
昨日、遠くの地で仕事に励んでいる兄・ノアから手紙が届いたのだ。
アメリアを溺愛する少し変わった兄は、いつものように長々と妹に会えない辛さを嘆いていたが、すぐに返事を返さなければ次に会った時に引っ付いて離れなくなるだろうことが容易に想像できた。
(便箋が少なくなっていたし、お出掛けしたかったからちょうどよかったわ)
目立たないように下を向いて歩くアメリアは、ここ暫く会っていない兄を思い出してくすっと笑う。
(元気にしているかしら)
多忙のせいか、妹不足のせいか、最後に会ったときは少し窶れていたからそこだけが心配だった。
だけど妹のことになると残念になるだけで、ああ見えて頭は切れるし、要領は良いからきっと大丈夫だろう。
そんなことを考えながら歩いていると、とあるお店の前でアメリアが足を止める。
「お嬢さん、何をお探しで?」
ぱたと足を止めたアメリアに声をかけたのは、雑貨が並ぶお店の店長だ。
指輪やネックレスといったアクセサリーから、便箋やペン、栞といったものまで綺麗に陳列されている。
あっちに行けなんて、言われなくてよかった。
そうアメリアは内心ほっとしながら口を開く。
「便箋を探してるんです」
「それなら沢山用意があるよ」
気前のいい店主が、後ろの荷物から両手いっぱいの便箋を出してくれた。
見ているだけでワクワクしてしまって、どれがいいかなって悩んでいるうちに時間はあっという間に過ぎてしまいそう。
うーんと吟味しながら唸っていれば、先を急いでいたのか、小走りした粗暴な男にぶつかられてしまう。
「お嬢様……!」
小柄なアメリアはその勢いによろめくも、咄嗟に助けに入ったアマンダのお陰で転ぶことはなかった。
「もう、危ないわね」
「時々いるんだよ、ああいう奴」
アマンダと店主が背後で憤慨しているのを聞きながら、アメリアは立ち尽くす。
何の謝罪もなく、こちらを見向きもせずに立ち去っていく後ろ姿を見つめていると、濃紺のコートを着た男が風のようにアメリアの横を駆けていく。
――あ。
いつもの無表情を貼り付けた横顔。
彼が誰かを認識すると、一気に鼓動が速くなった。
行き交う人々を押しのけて逃げる男。
ひらりと身軽に交わしながら追いかけるルーカス。
普段から鍛えているであろう騎士の実力は本物で、あっという間に追いついてしまった。
ルーカスの後を追いかけてきた部下に引き渡すと、彼はその場に居合わせた人たちの賞賛を浴びた。
「街の平和のためにいつもご苦労さまです」
「流石ルーカス様よね」
口を一文字に結んだルーカスはそれに答えることもせず、アメリアの元にやってきた。
(どうしてこちらに……?)
困惑するアメリアは、迫ってくるルーカスから逃げ出してしまいたい気持ちと葛藤する。
「アメリア様、こちらを」
「あ、ありがとうございます」
男はスリだったのだ。
ぶつかった際にアメリアが身につけていたブローチを盗んでいたらしい。
目の前に跪いて恭しく差し出されたブローチを見て、驚くと同時にほっと息を吐くアメリア。
彼女からのお礼に口角を上げたルーカス。
柔らかい微笑みにアメリアはドキドキしながら会話を続けた。
「この頃、よくお会いしますね」
「最近いつも貴女のことばかり考えているので、自然と足が向いているのかもしれません。不快にさせてしまったらすみません」
「……?」
社交辞令でもなんでもない、ただの事実である。
だが、彼がストーカーであることを知らないアメリアは言葉の意味を理解できず、首を振った。
「騎士様に守っていただけるなんて、喜ぶ方はいても嫌がる方はいませんよ」
「アメリア様も?」
小さく頷けば、ルーカスは嬉しそうに破顔した。上機嫌になった彼は会釈をすると、そのまま男を連行する部下の元に戻ってしまった。
アメリアは頬を紅潮させて、心のざわめきを鎮めようと必死になった。
もう会わないと願ったはずなのに、街に来たら必ずと言っていいほど彼に出会してしまうのだ。これまでそんなことはなかったのに……。
ルーカスに助けられた日から、彼が気になるせいで視界に入るようになってしまっているのかもしれない。
(もしかしたら、これまでもお見かけしていたのかもしれないわ……)
でも、それなら令嬢たちが騒いでいるから気がつくはずなのだけれど。
アメリアは彼女には決して解けない簡単な謎についてうーんと考え、首を傾げるばかりだった。
◇◇
ルーカスは、すべて知っている。
アメリアが気になっている本も、頼んでいたドレスも、今どこにいて何をしているのか、アメリアのすべてを知っている。
だけど、ルーカスは唯一知らない。アメリアが直接目が合った人の心を読めることを……。
そんなこともつゆ知らず、業務に励むルーカスの脳内ではミニルーカスくんたちが小躍りして祝福の盃を掲げている。
(我が聖女、アメリアよ。なんと素晴らしく愛らしい容姿に、天使のような優しさ……。貴女は無垢で、関わる度に穢してしまいそうで怖くなる。だが! 彼女自身が! 俺に守られることを嫌がらないと宣った! つまり! それは! 俺に守られたいということ! はぁぁぁぁぁ、このルーカス、貴女が望むならすぐに、いつでもどんな時でも馳せ参じる、アメリアのためだけの専属騎士になるのに。皇帝の犬になっている今の状況は気に食わないが、貴女にならどんな言うことも聞く利口な犬になってみせましょう。……いや、やはり俺は貴女と恋に落ちる騎士がいい。もちろん、貴女のペットとなり、かわいがられたり躾られるのも……あ、いい。ちょっとお馬鹿な犬を演じて、アメリアに「こらー!」と怒られるのもめちゃくちゃいい。普段お淑やかなアメリアだからこそ、躾のときはSになるのもすごくいい。想像しただけで新たな性癖の扉か開きそうだ……。これまで彼女を組み敷くことばかり考えてきたが、逆に妖艶なアメリアに惑わされて上に乗られるというのも…………ぐふっ。これ以上は今はいけない。そんな淫らなこと、彼女はしない! そう厄介オタクのルーカスが主張するが、新たに誕生したMなルーカスが「夜のアメリアも最高じゃないか」と囃し立てる。鎮まれ、清純なアメリアを汚すな。今は落ち着く時だ。……今夜ゆっくり、その妄想の続きをすればいい。)
ルーカスが真っ昼間からそんなことを考えているなんて思ってもいない街の人々は、今日もルーカスに熱い視線を送っている。