この1ヶ月、キジマは無為に過ごしたわけではない。日常的に負荷をかけ、少しずつ身体強化の限界を引き上げてきた。そして今。目の前の怪物に対抗する自信が生まれる程度には強くなった自負がある。
「さあ、こっから先は俺の番だぜ」
ファイティングポーズを執り、不敵に笑う。アラクネはその時にはもう再生を完了していた。
今、地面を蹴った。見上げるほどの大きさの敵にも彼は怯まない。刃に包まれた右の拳が女の体に突き刺さり、胴体に大きな穴を空けた。しかし着地した時には傷はなくなり、全くもって元の木阿弥である。
「ヨウマ、あと一撃いけるか?」
結界に覆われた中で、ジャグによる治療を受けているヨウマを見やる。
「ちょっと……無理かも」
「そうかい。ゆっくり休んでな」
話している内に、グリンサが敵の背後に回っていた。目を合わせ、頷く。キジマは大剣の一撃をすり抜け、脚の1本を砕く。そうしてバランスを崩したところで、彼女が女の部分に斬り掛かった。が、避けられた。後ろに眼があるのではないかと思うほどに。
それでも彼は次の手を考えていた。胴体にナックルダスターの棘をめり込ませ、身体強化を解除してケサンを送り込む。破壊術だ。破裂した肉体から、紫の体液が弾け飛ぶ。それは彼をベッタリと濡らし、腐ったような臭いに包まれた。
その時、陽が差し込んだ。それを受けてアラクネはズルズルと動き出す。体液を垂れ流しながら壁に張り付き、総督府を登る。そして、環に飛び込んだ。
「風呂、入りてえな」
見送りながら、呟いた。
◆
本部に戻って、昼。ある部屋でデブリーフィングを行っていた。
「陽の光に弱いのも再生するのも不死鳥だけかと思ってたけど、もしかしたら怪物全般の性質なのかもね」
グリンサがプロテインバーを食べながら言った。
「その可能性もありますが……ヘッセを用いて呼び出されているという点から、ある種の呪縛であるとも推測できます。決まった時間帯にのみ行動可能な代わりに強力になった怪物……そう考えられませんか?」
オパラの言葉に、4人は幾らか納得のいったような表情を浮かべた。
「呪縛ねえ……」
グリンサは呟く。
「じゃ、討伐するには制限時間があるってことでもあるわけだ」
「ええ、皆さんには余計な負担をかけることにはなってしまいますが、よろしくお願いします」
ヨウマはパックの葡萄ジュースを飲みながらその会話を聞いていた。
「もし呪縛を破ったらどうなるの?」
彼は尋ねる。
「術師によってそこは異なりますが、そうですね、考えられるものとしては朝になれば大きく弱体化することでしょうか。次の召喚に影響を及ぼす可能性も考慮されます。しかし、実際に起こってみなければわからないというのが現状です」
「じゃあ今度は時間が来るまで引き止めてみる?」
「持久戦に持ち込んだらこっちが不利だよ。危険すぎる」
グリンサにきっぱりと言われてしまった。
「イニ・ヘリス・パーディだってずっと維持できるわけじゃないんでしょ? 速戦即決でやるしかない」
「それは……そうだけど」
正当性を認めながら、彼は引き下がった。
「とはいってもさ、どう戦えばいいの?」
「そこなんだよねえ。またヨウマに首を落としてもらうのが正解なのかなあ」
「そもそもどうやったら死ぬんだろう」
「確かに。どっちが本体かわからないもんね」
「全身まるごと焼き尽くす、というのはどうでしょう」
ジャグが言った。
「できる?」
グリンサに問われて彼は少し悩んでから頷いた。
「結界さえなければ」
「結界ごとぶち抜けないと厳しいな……」
悔しそうに下唇を噛む彼を、ヨウマは眺めていた。
「そうだ、イルケの怪我はどうなったの?」
少し沈んだ空気を変えたくて、ヨウマが言った。
「シェーンさんのところで義手の調整中です。そうすぐには動けないでしょう」
「いてくれたらなあ」
ぼやいてしまった。
「術師を増やしましょうか」
「そうだねえ……」
グリンサが顎に指を当てながら言った。
「同時に攻撃すれば結界も破りやすくなる……でもそれだけ連携が難しくなる」
「結界破るだけなら僕もできるよ。連発はできないけど」
「ヨウマには雷滅でとどめを刺してもらう役目があるからね。ケサンも魔力も消耗してほしくない」
彼女は考え込んでしまって、何も言わなくなった。
「まあ、これくらいでよろしいでしょう。後はゆっくり休んでください」
オパラにそう言われて、4人は色々なものを抱えながら解散した。一番最後になったジャグは考える。己にできることを。七幹部イルケの弟子として、師匠の名を背負っていることは重々承知だ。それに見合う活躍をしなければ──
(死んで詫びても足りない)
仮眠室で一人になると、そういう思いに押し潰されそうになる。
「呪縛──」
呟いた。自分が師に追いつくにはそうやって何かを犠牲にしなければならないのではないか。ベッドに腰掛けて、俯く。
ヘッセの修行というのは、術を繰り返し行使して肉体が耐えられる術の上限を上げていくことが主眼となる。その上限の初期値は生まれつきのものだが、継続すればいずれどのような境地にも到れる。つまりは経験が全てというわけだ。そしてその成長速度こそが才能である。
イルケに認められたということは確かな自信になっている。だが、強力な術を平気な顔で扱うヨウマを見ると、それも少し揺らいでしまった。今年で42。ヨウマはその半分にも満たない生で、七幹部に並ぶような実力を手にしている。
「天才、か……」
憧憬と嫉妬の混ざった声を出した。イルケが彼を評した時、『戦うために産まれた子』と言っていたのを思い出す。あの無表情の裏にあるのは、獰猛な闘争心か、それとも冷徹な無関心か。どちらであっても恐ろしいことに変わりはない。
「グリンサさん、かわいいよな……」
横になりながらそう口にした。ゆっくりと、瞼を下ろした。
◆
再び深夜。昨日与えた傷もすっかり癒えたアラクネが総督府の壁を下りていた。
「キモいなあ」
太刀を抜きながらグリンサが言った。
「キモいから殺さなきゃね」
ヨウマは両の掌を敵に向ける。
「轟く雷鳴、嵐中の一閃。稲光の果てに待つ者よ。この手に一撃を齎せ。王雷!」
一直線に飛んだ光線がアラクネの頭部を吹き飛ばす。しかし止められない。飛来する糸を避けている内に、炎が彼女を襲った。足を止めて結界で受け止めたところに、グリンサが雷の槍を投擲する。体液が灰色の壁に散って、鮮やかだった。
アラクネは地に落ちる。
「なるほどね」
グリンサが小さな声で言った。
「動かないっていう呪縛で結界を強化してるんだ」
「でも破れない強度じゃない」
「そうだね。ジャグくん! 結界破りの方法思いついた?」
「チャージで威力を上げます」
「そりゃ最高だ」
ジャグは両手の間に火の玉を生み出す。そこにケサンを送り込み、圧縮する。太陽のような輝きを放つようになった頃合いで、一気にそれを解き放つ。龍の形をした熱の奔流がアラクネの結界を食い千切り、肉体を燃やした。
「やった!」
彼は思わず声を上げた。
「止まるな!」
グリンサに叫ばれて、走り出す。今そこにいたところを糸が過ぎ去った。ヒヤリ、汗が流れた。
「ヨウマ、引き付けるよ!」
「オッケー」
イニ・ヘリス・パーディの力を引き出し人間とは思えないスピードで動き回るヨウマを見ていると、ジャグは自分が凡夫に思えてきた。頭を振ってそんな思いを掻き消し、チャージに戻った。
呪縛──チャージ1秒あたり10%の威力向上を齎す代わりに、チャージしなければ50%まで威力が低下するという己を縛る縄。彼の未熟な手で保持できる限界は15秒だった。それでイルケの劣化版となる程度だ。
アラクネは炎の中から飛び出して、大剣を振り下ろす。突然のことに慌てた彼は格好悪く横に転がって避けた。チャージは止めない。10秒カウントして、放った。今度は熱線。彼女の右腕が焼き切られ、剣ごと落ちた。
「ヨウマさん、首を落としてください!」
「策があるの?」
「感覚器官を喪失すれば、戦いようもなくなるはずです」
「信じるよ」
ヨウマは詠唱に入る。それが完了して剣が雷を纏えば、彼は大きく跳躍して首を刎ねた。
「今なら!」
それを見ながらもチャージをしていたジャグが、ヨウマの離れたことを確認してから炎を吹きかけた。焼き尽くされていく女体。勝ちを確信していた彼の腹を、糸が貫いた。続いて両の太腿。ガクリ、崩れ落ちた彼は大蜘蛛に戻った敵が炎の中から現れるのを見た。牙をカチカチと鳴らし、ゆっくりと迫り来る。
敗北。その二文字が脳裏に浮かんだ彼の前で、蜘蛛の頭が爆ぜた。
「死にますよ! ボーっとしてたら!」
キジマが紫の液体に塗れながら言った。その内に蜘蛛はみるみる再生していき、ジャグが言葉の意味を解した時には元通りになってしまっていた。
彼はごく短いチャージで炎を放つ。蜘蛛は防御する素振りも見せず、再生力に任せて強引に炎を突っ切った。噛まれそうになったところを、キジマが持ち上げて距離を置いた。
「結界を使わなくなっています」
ジャグが肩の上で言う。
「結界を捨てて再生力を増したのなら……一つ策があります」
「なんです?」
「禁術を使って……再生を封じる炎を使って焼き尽くします」
「デメリット、何ですか?」
「使いすぎれば死にます」
「……覚悟があるなら、俺は何も言いません。頼みましたよ」
キジマはジャグを下ろす。
(師匠、禁を破ります)
両手を広げて、蜘蛛に向ける。そこから火花が散ったと思えば、黒い炎が細い線のようになって打ち出される。脚の1本に着弾したそれは少しずつ、しかし確実に蜘蛛を焼いていく。反撃を行おうとした蜘蛛は動かした脚が焼け落ちたのを感じて、動きを止めた。
「
その呪文が叫ばれれば、炎は一気に勢いを増して敵の全身を焼いた。のたうち回り、なんとか火を消そうと足掻く蜘蛛だが、30秒もすれば灰となった。
「なんか、呆気ないね」
ヨウマが言った。
「すみません、ケサンを使い果たしました……救急車を呼んでくれますか」
息切れしながらジャグが頼んだ。
「グリンサ」
「うん、今呼ぶよ」
左胸の無線機に話しかける彼女を置いて、ヨウマが彼に近づいた。
「すごいね、あの炎」
「ありがとうございます」
とだけ言って、意識を失った。
◆
結局、ジャグはその日の夜まで眠っていた。目を覚ました時、ちょうどイルケが入ってきた。左腕は人工皮膚に覆われ、見た目では義手と気づけなかった。
「禁術、使ったそうね」
「どこからお聞きに」
「腕を見ればわかるわ」
彼の両腕には黒い入れ墨のような紋章が刻まれていた。
「その紋章が心臓に達した時、貴方は死ぬの。わかっているでしょう?」
「あの時は……こうするしか」
「だとしても、弟子に先立たれるなんてことがあったら私師匠失格よ」
「……申し訳ありません」
「私の弟子としての自覚があるなら、長生きすることね」
煙管を持たない師というのが彼には新鮮だった。
「師匠はお使いになったことがありますか」
「ないわ。死にたくないからね」
「ならどこで術のことを知ったのです」
「私の師匠が紋章で死んだの。だから私は使わないと決めた」
「それは……すみません」
イルケは微笑んで弟子の頭を撫でる。
「養生しなさい。治ったらみっちり修行するわよ」
立ち上がり、病室を去った。残されたジャグは両手を握りしめ、震えていた。