結界維持部隊は、ハードワークの中にあった。誰かがケサンを使い果たせば、すぐに補充の術師が送り込まれる。そういう状況が丸一日続くことを覚悟しながら、イルケは結界の中心となっていた。
イルコーの魂が封じられた地下神殿で、イルケは祈りを捧げる。跪き、両手を組む。ケサンが流れ出て、1秒ごとに弱っていくのを感じながら。
「イルケだな」
聞き慣れない、ドスの利いた声。
「あら、外には警備がいたはずなのだけれど」
祈りを続けながらイルケは言う。
「……死んでもらう」
スーッ、と刃物が鞘から抜かれる音。溜息一つ吐いた後、イルケは立ち上がり、振り向いた。剣鉈を握りしめた男オビンカがそこにいた。
「あまり時間を取らせないでちょうだいね」
イルケは熱線を放つ。疲労で狙いがぶれて、オビンカの顔の横を過ぎていった。舌打ち。
「七幹部、それほどでないと見た!」
男が走り出した。その足元に結界の箱が生み出され、派手に転ぶ。そこに熱線が飛んでくるが、頭ではなく腹に入った。またも舌打ち。
「くだらんことを!」
体を起こした男が走り寄ってくる。小さな結界で作った弾丸を飛ばしてその動きを止めようとするが、軽々躱されて、距離はどんどん詰められていく。そして繰り出された斬撃を何度か躱すが、息が苦しい。胸から腹にかけて浅い切り傷ができた。
思うように身体が動かないところで、刺突が来た。少し体を横に撚るだけだというのに、それができない。深々と、脇腹に。引き抜かれて、倒れる。視界に、振り上げられた剣鉈。死ぬ、殺される。イルケは久しぶりに恐怖を感じた。静かに目を閉じようとしたその時、輝ける槍がオビンカの頭蓋を貫いた。
「イルケ!」
グリンサだ。彼女は素早く駆け寄り、応急処置を施した。
「ダメ……私がいなくなったら結界が……」
「ヨウマが帰ってきた。結界は徐々に復旧するから、安心して」
「そう……」
そこでイルケは意識を失った。現在、結界は術師の総力を以てなんとか維持できているが、その直前に入り込んだ一部のオビンカが犯罪を働いていた。
イルケは百年に一度の天才なんだよな、と想いながら階段を駆け上がる。結界術への高い適性と、莫大なケサン。それを併せ持った逸材故に幼い頃から称賛され続けた。それによって醸成された絶対的な自信。そしてそれに見合った圧倒的戦闘能力。
(私も天才の自負はあるけど、イルケには負けるなあ)
羨ましい、と彼女は思った。状態が万全であれば自分はイルケに敵わないだろう、とも思う。近づこうとすれば熱線と結界が、離れようとすれば強力な炎が襲いかかるのだろう。剣の間合いに持ち込めば、一撃必殺の破壊術が待っている。
(このヒトがスパイだったら、私どうしよう)
神殿の戸口から出れば、救急車が待っていた。救急隊員に運ばれていくイルケを見送りながら、そんなことを考える。
(ヨウマと一緒ならワンチャンあるのかな……)
腰の太刀は答えを示さない。
(そうじゃないって、信じるしかないか)
走り去る救急車に背を向けて、近くのパトロールカーに乗り込む。
「次の指示が出ました」
「どこ?」
「ヨウマの家です」
「やっぱりそう来るか」
結界がなくなったタイミングが知られることは想定済みだった。その上でオビンカ・グッスヘンゼがどう動くか。出渕優香を狙うことは、わかりきっていた。
◆
キジマと共に帰宅したヨウマは、優香からの抱擁を受けた。
「このキジマさん、なんていうか……本物?」
「本物だよ、正真正銘のキジマ」
「ご心配をおかけしました」
苦い笑いをキジマは見せた。
「ご無事でよかったです」
優香は彼に握手を求めた。真っ直ぐな目でそれに応じた。
「それで、これからどうする?」
ヨウマに問われてキジマは手を離した。
「入り込んだオビンカからお嬢様を守らなきゃな。ヨウマ、動けるか?」
「余裕だよ、キジマだけ戦わせるわけにもいかないし」
「俺は外に出て冬路さんと一緒に警備に当たるよ。だいぶケサンを使っただろ、休んどいてくれ」
「──そうだね、そうするよ」
僅かな逡巡の後、ヨウマはそう言って頷いた。
キジマは家を出ていく。残された優香が、ゆっくりと口を開いた。
「なんか、表情が明るくなった気がする」
「そう?」
「うん、一つ荷が下りたんだね」
自分が無表情だという自覚もあって、そのまま受け取ることはできなかったがともかくヨウマは
「そうだね」
と返した。
「リビングで休むよ、何かあったらすぐ対応できるようにさ」
「私もリビングにいる。一人でいるの怖いし」
その時だった。リビングでガラスが割れる音がした。
「ここにいて」
とヨウマは走り出す。ドアを力強く開けば、剣鉈を所持した5人組が窓から入り込んでいた。
「ここ、2階だけど」
「便利な道具があるんでな」
「ま、いいけどね。これから全員死ぬんだし」
切っ先を向けたヨウマは、その震えに自分の限界が近いことを悟る。イータイ相手にケサンを使いすぎた。だがそれは敗北の理由であってはならない。
「このまま何もしないで帰るってのはダメかな」
「はあ? ふざけていると死んじまうぞ!」
オビンカの一人が突っ込んでくる。粗暴な乱撃をいなし、飛び上がって喉笛を掻き斬った。
「あんまり汚したくないからさ、帰ってくれない?」
オビンカたちは尻込みした。だがアイ・コンタクトの後に頷いて、一斉に動き出した。ヨウマを囲い、白い刃を向ける。
ヨウマは下段に構えて敵の動きを注視する。自分を無視して優香のところに行かないことには、彼は感謝していた。次々と斬り掛かってくるのを躱しながら、反撃のチャンスを待つ。疲れた体で迂闊に動けば──わかっている。
攻撃の狭間、長く息を吐く。
(これは死んじゃうかもな)
なんて弱気になっていると、開いたままの扉から飛び込んでくる影があった。棘のある拳が一人のオビンカを殴り飛ばし、壁にぶつけて頭蓋骨を叩き割った。
「弱気になってんじゃねえか?」
キジマだった。
「そうだよ、よくわかったね」
「わかりやすいんだよ、お前」
背中を合わせて立つ。
「グリンサさんを呼んだ。すぐ来るはずだ」
「なら勝てるね」
淡々と言った後、自分たちを囲む敵を見渡した。
「今のうちに逃げたら? どんなに頑張ってもグリンサが来たら無駄になっちゃうよ」
敵は答えない。得物をしかと構えて油断ない視線を送るばかりだ。
必要なのは、時間稼ぎ。ヨウマはそう考えていた。優香のところに行かなければ、それでいい。
「はいはい、そこまでだよ」
窓の外で声がしたと思えば、グリンサだった。太刀を右手に、ゆっくりとガラスを超えてくる。それを認めたオビンカの二人が、脱兎のごとく走り出し、優香に向かった。その眉間を細い雷の槍が貫いて、即死させた。
「お、おれはまだ誰も殺しちゃいねえ!」
残ったオビンカの内片方が慌てて言った。
「で?」
目にも止まらない動きで右手首を斬り落とし、顔をあと一寸というところまで近づける。オビンカは腰を抜かした。
「そっちのも、武器を捨てて。死にたくなければね」
警告も虚しく、残った最後のオビンカは大上段に構え、グリンサに向かって走った。
「そっか。わかったよ」
振り下ろされた両腕を切断し、胸を刺して押し倒す。引き抜けば、血が散って天井まで濡らした。
「深雪」
ヨウマは静かに呼びかけた。カウンターの向こうから、深雪が強張った顔を出す。
「終わったよ」
彼女の表情がふっと柔らかくなった。
(こういうとこ、あんまり見せたくなかったな)
独白しながら刀を納める。
「親父の家行こっか」
「そ、そうですね、こんなところじゃ暮らせませんもんね」
飛び散った血液、壁には零れた脳味噌。特殊清掃を呼ばなきゃな、と彼は考えていた。
「グリンサ、足ある?」
「パトカーもう一台呼ぶよ」
彼女は左胸の無線機に話しかけ始めた。ヨウマはその横を通り抜け、優香のもとに向かった。
「怪我してない?」
「うん、大丈夫」
差し伸べた手は掴まれず、自力で立ち上がる彼女をただ見ていた。
「荷物まとめなきゃね」
「そうだね、3日分もあれば着替えは大丈夫かな」
「だと思う。深雪も、準備して」
「は、はい。すぐやります」
それからパトロールカーに乗り込むまでは5分ほどのことだった。
「広いんだね」
社内の様子を見た優香がそう言った。
「ニェーズ用だからね」
淡々と受け答えをしながらヨウマは外を見ていた。至る所に警備員が立ち、道行く者を見張っていた。時折凶器を握りしめたオビンカを拘束しているのも見えた。結界がなくなった程度でてんやわんやになっている現実。
(脆いんだ)
ヨウマはそう感じた。
ジクーレンの自宅は居住区の外れにある。ヘッセでいくらか軽減されているとはいえ、鍛冶屋通りは空気が悪い。妻と子供のことを想って彼は家を改めてここに建てたのだった。
「ジクーレンさん、そういうところもあるんだあ」
その話を聞いた優香はそんな感想を述べた。
ボストンバッグを持った優香とその他一行を、
「いらっしゃい」
と妻で妊婦のムパが受け入れる。
「すみません、急に来てしまって」
優香が言う。
「いいのよ、ヨウちゃんの好きな子が来るんだもの、拒む理由はないわ」
「やめてよ、恥ずかしいじゃん」
ヨウマが慌てて言い返した。
「深雪ちゃんも、元気?」
「げげ、元気です」
リュックを背負った深雪が深く礼をした。
「早く中へ。見られているかもしれません」
冬路が急かした。
「そうね、おいで、お茶くらいは出すわ」
ジクーレン宅は中々の広さのある平屋だ。玄関から入って正面の扉を開けば、リビング・ダイニングが出迎える。
「寝室が一つ余っているから、深雪ちゃんと優香ちゃんはそこを使って。ヨウちゃんはどうする? 昔の部屋が残ってるけど」
「じゃそれで。優香、何かあったらすぐ呼んで」
とヨウマは荷物を置きに向かった。
「リードしてあげるのよ」
とムパは優香に言った。
「え?」
「ああいう男、すぐ気持ちを隠そうとするから。ガツンと行かないと他の女に取られちゃうわよ」
彼女はタジュンのことを思い出していた。
「夫もねえ、戦えば一騎当千、打てば傑作を作るってモテモテだったのよ」
「決め手は何だったんですか?」
「私の実家は定食屋だったんだけど、夫が気に入ってくれてね。私が作ったって言ったら、そこから仲良くするようになってね。親も大賛成で、すぐ結婚したわ」
「そういうの、本当にあるんですね」
「ほんとびっくりしたわ。ま、優しい
深雪がトテトテと寝室の一つに向かっていく。
「でも、男は無口なくらいがちょうどいいのかもしれないわね」
「そうなんですか?」
「あれこれと口ばっかり達者になるくらいなら、何も言わないでくれたほうが愛も伝わるの」
「難しいですね、恋愛って」
「さ、荷物を置いてきて。お茶にしちゃうから」
ムパは腹を撫でる。大きな鞄を持っていく背中に、背負わされたものを想いながら。