「ゆゆ、優香さんってヨウマさんのこと好きなんですか?」
洗い物をしながらの深雪に問われて、本を読んでいた優香は顔を赤くした。
「なんか前にも同じようなこと訊かれた気がするな」
不吉な塊も徐々にその姿を消し始め、少し気楽になっていた。
「で、でも、その時は答えてくれなかったですよね」
「だっけかな」
「そそ、そうですよ」
「好き……なのかな」
「すす好きじゃないヒトと抱き合ったりしないですよ」
「まあ、確かに……」
慕情を意識して、彼女は小さくなった。
「わわわ、私にとってヨウマさんは一番大事なヒトなんです」
食器の擦れ合う音が止まった。
「だから、ずっと一緒にいたいんです」
「それは、わかってるけど」
「……取らないでください」
「早いものがちだよ」
目を合わせずに優香は言った。
「ず、ずるいです」
「何が?」
「ヨヨ、ヨウマさんは優香さんのことが好きだと思うんです。そ、そこから始めるのはずるいです」
「深雪ちゃんだって大事にされてるよ」
「すす好きとは違う感情じゃないですか?」
優香は答えられなかった。本を読む手を止め、俯いていた。
「3人で暮らせる選択肢だってあるよ、きっと」
それだけ言って読書に戻った。深雪の方も家事を再開する。しかし優香の心は本に向いてはいなかった。ヨウマにとって、自分は何なのか。単なる仕事上の付き合いなのか、それを超えた庇護の対象なのか、一人の女なのか。
(私、ちょろいのかな)
なんてことも考える。出会って1ヶ月と少し。他人と打ち解けるのが得意な自覚はあるが、恋仲に発展しやすいわけではない。だが、ヨウマに抱く感情は明確な好意だ。自分のために命を賭けてくれた男を、どうして嫌いになれよう。
これからどんな顔をして会えばいいのか、わからない。だが、知っていることはある。真っ直ぐに向き合ってくれる存在だということ。表情はないが心の機微に関心がないわけではないということ。ボディタッチもそれなりにあるということ。そして、敵と交わってしまったこと。
タジュンという女が、どうにも許せない。先日ヨウマに告げたことが全てだが、もし再び二人が会うようなことがあれば──
(考えたくないな)
──打ち切った。
そこで、
「ただいま」
というヨウマの声がした。ドタドタと走っていき、優香はリビングの扉を開く。すると、暗い瞳の彼が立っていた。
「また何かあったの?」
「ちょっと嫌な殺しをしただけだよ。心配しないで」
そう言って横を通り過ぎようとしたヨウマの手を彼女は掴んだ。
「話して」
「聞いてもいい気分にはならないよ」
「一人で抱えさせたくないの」
「……急にどうしたの」
「深雪ちゃんと話してね、ヨウマと向き合おうって思ったの」
「それはいいけどさ」
「だから、分け合ってほしい。辛いことも」
「……妊婦を、殺したんだ」
視線を外しながらそう言った彼を抱き締める。
「自分を責めないで」
「責めてるわけじゃないよ。ただ……明るくはなれない」
抱き返して、ヨウマは呟くように言った。
「明日、休みが取れたんだ」
「うん」
「どこか出かけよう。縄張りの外は行けないけど」
黙り合った二人を、深雪が覗いていた。
◆
手を繋ごう、と言い合ったわけではない。しかし優香が自然と手を合わせてきて、ヨウマはそれに対応しただけだ。少なくとも、彼自身はそう思っていた。
「はい、どうぞ」
と屋台の主人が手渡したのは、丸い、ソースのかかったたこ焼きのようなものだ。透明な容器に入ったそれを、優香は片手で受け取った。
「アーデーンにもたこ焼きがあるんだね」
「オーグスっていう料理だよ。地球人が来る前からあるんだ」
「ヨウマがそういうこと言うの珍しいかも」
「グリンサに教えてもらったんだ、昔」
爪楊枝の刺さった一つを、優香は口に運んだ。熱さに驚きながら、咀嚼して、飲み込む。
「後は座って食べよっか。あっちのベンチでさ」
ヨウマは手を引っ張った。鳥の囀る昼の街でのことである。
長椅子に並んで座ってすぐ、優香は一つをヨウマに差し出した。彼は臆面もなくそれを受け入れる。
「わぁ……」
優香が声を漏らした。
「何?」
「こういうの慣れてる?」
「別に……出されたら食べるじゃん」
要領を得ないといった風に彼は首を傾げた。
「……キジマさんのこと、何か進んだ?」
「寄生してる方の魂を引っ剥がせるかもしれない」
「そうなんだ。うまくいきそう?」
「詳しくは話せないけど……成功は僕次第だ。失敗すれば僕が死ぬ」
「怖くないの?」
「負けたら死ぬのはいつも通りだよ」
彼は話しながら、昨晩の打ち合わせを振り返る──。
「──つまり、僕がイータイと決着をつけないといけないんだね?」
ベッドの上で、電話越しの返答を待つ。
「ええ。古代の秘術で精神世界へ入り込み、イータイの魂を破壊すればキジマさんは帰ってこれます」
若い男の声だ。
「想像もつかないな」
「こちらとしても資料が少なすぎて、どのような戦いになるかわかりません」
「練習とかできないの?」
「イルコー様のケサンを利用しますから、術を展開してからしばらくの間結界が消失します。団長の許可は降りないでしょう」
「イルコーってアレだよね。無限にケサンを生み出す魂」
「無限ではなく永遠です。瞬間的な出力には限界があります」
「へぇ~」
興味があるようなないような、そんな返事をした。
「代わりの結界を貼るとかっていうのは?」
「現在、術の展開中にイルケ様を筆頭とした結界術師チームが結界を維持できないか検討中です。しかし、可能だとしてもその後術師の4分の3が3日間動けなくなる試算です。万が一のことを考えると……」
「やだなあ」
「そういうわけですから、ぶっつけ本番での作戦となります」
「ま、いいけどさ。グリンサと一緒に入るのは?」
「技術的な問題で二人の精神を交わらせるのが限界、というのが見立てです」
「なるほど、ね……」
だとしても、躊躇する理由はなかった。
「いいよ、わかった。後は気合と根性ってことね」
「まあ、そうなりますね」
苦笑するところが容易に想像できる声音だった。
「何分で勝てばいい?」
「術の最大維持時間は30分です。それを超えればヨウマさんはキジマさんの精神から弾き出されます」
「オッケ。それだけあれば十分だよ」
勝つにも負けるにも。
「ちなみに聞いとくんだけど、僕が負けたら?」
「魂を破壊され肉体だけが残ります」
「じゃあ、怪我したら?」
「受けた傷は魂の損傷になりますが、時間と共に修復されていきます」
「武器は持ち込める?」
「おそらくですが、精神世界内でケサンを消費して具現化させるのだと思います」
「そっか。僕が聞きたいのはこれくらいかな」
「こちらとしてもお伝えできることは一通りお伝えできました。それでは、失礼します」
「おやすみ」
──意識を今に戻す。
「どうしたの?」
と問われてヨウマは
「何でもないよ」
と返した。
「もう怪我はしないでね。入院したって聞いた時すごく怖かった。また会えないヒトが増えるんじゃないかって。だから……」
言葉がそれ以上続かないとわかるまで待ってから、彼は頷いた。
「今回は怪我はしないから、大丈夫。五体満足で帰ってくるか、死ぬかしかない」
「怖いこと言わないで」
「……ごめん」
少し気まずくなって、優香はオーグスを食べた。小麦粉的なもので作られた生地に、コリコリとした食感の何かが包まれている。
ヨウマは空を見上げた。突き抜けるように青い空だ。鳥の群れが過ぎ去っていく。街の喧騒の中に溶け込みながら、優香を横目で見遣った。綺麗な顔だよな、と思う。
「? 何かついてる?」
「いや……気にしないで。本当に」
「そっか」
優香はまた一つを頬張った。
いくらか冷たくなった風が二人の頬を撫でた。
「涼しくなったねえ」
優香が言う。
「秋服出さないとね」
「ね」
何でもない時間が愛おしい。ヨウマはそんなことを感じた。再び差し出された一つを口に含み、微笑む優香と目を合わせる。左手に握った刀の使い道。それがここにあるのだと。
食事を終えて、二人は立ち上がる。
「次どこ行く?」
ヨウマの問に、優香はマップアプリの画面を見せた。
「いいね、そうしよう」
そして、歩き出した。
◆
真夜中。オパラは本部の屋上で月を見ながら電話をしていた。
「ええ、わかっています」
感情を殺した声だ。
「少々の戦力があれば、容易にこの状況を覆すことができます」
月に雲がかかる。
「そうですね、タイミングは読めません。ヨウマが彼相手にどこまでやれるかにかかっています」
そう言ったところで、扉の開く音がした。
「失礼します」
電話を切る。
「あれ、オパラじゃん」
グリンサだった。
「貴方がこんな時間に出社しているとは。忘れ物でもしましたか?」
「書類書かなきゃいけなくてさ」
彼女はオパラの隣に立って、手摺に体を預けた。
「一ついい?」
「なんでしょう」
「キジマくんを助けるの、なんで七幹部じゃなくてヨウマにやらせるの?」
「友情の力を信じてのことです」
「ふざけないで」
「団長は左目を失った上に臓器に病気を抱えている。私とシェーンは戦闘員ではない。ナピとオーサは斃れた。となると、まともに戦えるのはイルケと貴方だけ。その内前者は結界の維持に当たると考えれば……結界が解ける一瞬を利用されるリスクもありますからね、貴方を出すわけにはいかないのです」
「……ま、いいけどね」
月を見上げるグリンサ。
「裏切り者のこと、わかった?」
「難航しています」
「そっか。掴んだら教えてね、斬りに行くから」
「法に則って裁きますよ」
ハハ、と二人は笑い合った。
「ヨウマ、うまくいくといいね」
「ええ、ニーサオビンカを討ち取るチャンスでもありますから、期待しています」
コツン、と杖で床を衝く音。
「それでは私は失礼いたします。体を冷やさないよう気をつけてください」
「大丈夫だって、子供じゃないんだから」
立ち去ったオパラは、扉が閉まった音を聞くと杖を床から離して歩き出した。
「せいぜい足掻いてみせなさい、ヨウマ」
小さな小さな声で彼は言った。午後9時のことである。