「ヨウマ、ちょっといい?」
日の入るリビング。左手でダンベルを持ちながらテレビを見ていたヨウマに、申し訳無さそうな優香が話しかける。
「学校のことなんだけど……」
「ああ、そろそろ始まるんだ」
「実は学校に行く必要はなくなってさ」
「え?」
「テロ起きてるから、ビデオ通話で授業することになったの」
「ふんふん、それで?」
「パソコンが……いるの」
「じゃあ取りに行こっか」
パッ、と彼女の顔が明るくなる。
「入れるの?」
「捜査終わったって連絡がちょうど今朝来たんだ。立ち入り禁止も解除されたし」
「じゃあ、お願い」
「冬路に車回してもらわないとな。すぐ行っちゃおうか」
「い、いってらっしゃい、です」
深雪が食器を洗いながら言った。ピンク色のゴム手袋をしていた。
「もしもし冬路──」
電話をかけたヨウマを見ながら、優香は隣に座った。彼の腕を見る。太くはないが、脂肪はない。ダンベルが持ち上がるたびに筋肉が動く。ダンベルは10キロの重りが4枚。
(すごいなあ)
なんて下らない感想を抱いた。
それがクリムゾニウムの影響を受けていることは、すぐにわかる。自分自身、その効果が出始めていたからだ。ちょっとした所作が軽いのだ。宅急便の荷物を受取る時などは顕著だ。
「優香?」
考え事をしているうちに、ヨウマは電話を終えていた。腕をじんまりと見られて、妙な気恥ずかしさを彼は感じていた。大して知りもしない女に裸を見られたばかりだというのに。
あれからすでに3日。タジュンは何の連絡も寄越さない。それがいいのか悪いのか、ヨウマにしてみれば判然としなかった。しかし呼び出しはない。
(1ヶ月、か)
彼女から示された刻限。何らかの検査をするのだろうが、それで妊娠が発覚した時──彼はどのような行動を執ればいいのか考え続けていた。
一つあるのは、子供を乳児院に預けること。これが最もスタンダードな選択肢だろう、と彼は思う。残酷だが、聞いた限りの範囲でも20人以上を直接殺したタジュンは、司法取引無しには死刑を免れ得ない。それこそ、初めての対面でヨウマが提案したように対ニーサオビンカの戦いに協力でもしなければならない。
もう一つは、戦場に引っ張り出して胎児もろとも始末してしまうこと。ヨウマにとっても嫌な選択だ。宿った命に罪はないのだ。可能な限り避けたい。
どこまでいっても、自分は人の子なのだと彼は感じる。感情のない殺人マシーンであればどんなに楽だったかと思う。
「どうしたの?」
優香に問われて、彼は現実に戻ってきた。
「いや……なんでもないよ」
何故だか居た堪れなくなって、立ち上がる。タジュンとの間に起きた出来事は、優香には知られたくなかった。
「準備してくる」
とだけ言って自室に戻る。業務用携帯と手錠、立入禁止テープの入ったウェストポーチは常に身に着けている。今更取りに行くものなどない。それでも一旦一人になりたかった。
優香を裏切ったような感覚が彼を襲う。理由ははっきりとしない。だが、タジュンとの間に関係を持ってしまったことが不義理のようなのだ。
(何か……償いをするべきなんだろうか)
◆
ヨウマと優香、冬路を乗せた車はある家の前で停まった。閑静な住宅街の中の、1棟だ。2階建てで、壁は白。庭付き。表札には出渕と出ている。
「ただいま~」
とボストンバッグを持った優香が戸を開く。最近までヒトが出入りしていたために、埃の匂いはしない。真っ直ぐな廊下から階段を上がり、久しぶりの自室を訪れる。壁の絵画も、ベッドの上のぬいぐるみもそのままだ。着の身着のまま逃げ出したあの日を思い出す。産まれて初めて、殺人を目撃した日。
「1ヶ月振り、か」
ヨウマが呟くように言った。
「ヨウマも、殺すのって嫌?」
「嫌」
急な問にも、彼は動揺の色を見せなかった。
「ヒトを斬る感覚って、気持ち悪いんだ。感情が巻き付くような感じがする。慣れてきたけど……いい気分にはならないよ」
「守ってくれて、ありがとう」
机の上のノートパソコンを、彼女は鞄に入れた。
「優香を守ってるのは結界だよ、僕じゃない」
「その中に入れてくれたのはヨウマだから。これからもよろしくね」
ぬいぐるみを一つ持ち上げて、悩む。
「下品なことを言ってもいいかな」
「何、急に」
優香は少し笑った。
「セックス、したんだ。ニーサオビンカと」
彼女はそれを聞いて、人形をバッグに押し込む行為に乱暴さを加えてしまった。
「なんで」
声は震えていた。
「人質、取られて」
「初めて?」
「初めて」
暫しの沈黙。
「あのね、それが私じゃなかったことがなんだか悔しいの」
「僕も、なんだか申し訳なくなった」
「私、ヨウマのこと好きなのかも」
彼はそれを嬉しいと感じた。
「ヨウマはさ、私のことどう思ってるの?」
「よくわからない。ただ、深雪とも、親父とも、グリンサとも違うんだ。それが好きってことなら、そうなんだと思う」
返事が帰ってこないことに、彼は不安を抱いた。
「あー!」
双方ともにどぎまぎしてしまったところで、優香が声を上げた。
「なんか変な空気なっちゃったね、ごめん」
裏側に何かを渦巻かせている笑顔を向けられて、ヨウマは苦しい思いをした。
それから30分。優香は必要なものを一通り鞄に詰め終えて、立ち上がった。
「大丈夫。帰ろっ」
明るさを作って彼女は言う。それをさせているのが自分だということに、ヨウマの中に謝意が生まれた。
外に出て、車に乗ろうという時、
「いたいた」
と気取った声を聞いた。そちらの方を見れば、牛のような角を持つ女オビンカが立っていた。エナメル質の、扇情的な黒い服。露出した太腿に甲殻がある。ヨウマは静かに刀を抜き、冬路は拳銃を懐から取り出した。
「出渕優香だね?」
優香を隠すようにヨウマは腕を伸ばした。
「誰?」
切っ先を向けて尋ねる。
「これは失礼。ヘイクル。ニーサオビンカ、第4席」
ヘイクルは両手の間に青白い縄を生み出す。
「私の美しさの前に死になさい、ヨウマ」
「強さに見た目は関係ないよ」
ヨウマが動く。横薙ぎは縄に阻まれた。
「なんでここに来たわけ?」
「ユーグラスの動向はほぼ完璧に掴めてるの。ちょっとしたお出かけでもこうして追跡できるくらいにはね」
優香が結界の外に出る際、ヨウマは警備会社の方に連絡を入れた。それがどこからか漏れて、ニーサオビンカまで届いた──それがわかった。
「でも、今日の目的はアナタの命じゃない」
ヘイクルはヨウマを蹴り飛ばした。その勢いのまま、彼女の右手から伸びた縄が、優香に向かう。間に冬路が入って、左手で縄を掴んだ。彼は素早く銃を向け、引き金を引いた。見切られていたのか、彼女は軽く回避し、臆せず接近する。縄を消して、腰背部から短刀を抜き、刺突を繰り出した。それは冬路の鼻先1寸のところを過ぎていった。
「その子を渡して楽にならない?」
「業務ですから」
向き合いながら、冬路は次の動きについて考える。間合いは短刀の距離。一度トリガーを引けば、次を撃つまでの間に斬り殺される距離。相手もそれを理解している。
だが、ヘイクルの敵は一人ではない。胸から黒い刀身が飛び出したのだ。するとヘイクルの体は青く変色し、体を構成していた縄が解けていった。
「分身?」
「そのようです。今のうちに離れましょう」
◆
「あ、死んだ」
仄暗い議場で、円卓に着いたヘイクルが言った。糸に使ったケサンが戻ってくる、心臓を押されたような感覚がそれを教えた。
「失敗か?」
ガスコの問に、彼女は頷いた。
「結構自信あったけど、ま、仕方ないか」
そう言った時、重い扉を開く者がいた。ドレッドヘアのロコルだ。臙脂色のオビンカの民族衣装を着て、両腰に短剣を下げていた。
「聞いておりました」
彼は言う。
「ガスコ様、次はわたくしめが」
恭しく一礼しながらの発言だった。
「勝算はあるのか?」
「夜明けのタルカを貸していただければ」
「いいだろう。お前の好きにするといい」
「ご厚意、感謝致します」
そんな彼を、ヘイクルはつまらなさそうに見ていた。
「アンタ、なんでそんなにガスコにヘコヘコしてんの?」
「ガスコ様はしがないこそ泥だった私めを評価してくださったのです。その恩に報いなければ、男が廃るというものです」
「ま、なんでもいいけど」
彼女は、『彼』と呼ばれる内通者との連絡役を務めている。戦闘能力を買われてニーサオビンカになったわけではない、珍しい人物である。その『彼』からヨウマが優香を連れて結界を出たという情報を得た彼女は、すぐに分身を向かわせた。結果としては失敗に終わったが、彼女はそこに大した感情を抱いていなかった。
「タルカを使ってどうするわけ?」
「同時爆破テロを実行します。そうしてヨウマを引きずり出し、この手で始末します」
「七幹部がいたら? 最近グリンサとよく一緒に任務に出てるらしいけど」
「それを撹乱するのはヘイクル様、貴方の任務でしょう?」
火花が散るような、視線のせめぎ合い。
「わかったよ」
とヘイクルが折れた。
「ヨウマを一人にするように『彼』に伝える。それでいいでしょ?」
「助かります」
ロコルは椅子に座る。
「その『彼』何者なのですか?」
「言えない。ただ、ユーグラスの指揮系統の上層にいる、ってことしか話せない」
「七幹部ですか?」
「それも言えない。内通者ってことがバレたらユーグラスにいられないからね、慎重に情報は扱わなきゃ」
「ガスコ様、私の忠誠を疑っておいでですか」
「そうではない」
段の上から、威圧的な口調でガスコは言う。
「しかし、最大の防諜は知らせぬことだ。そこは平等に行わねばならん。私の油断がグッスヘンゼそのものの崩壊を招くのだ」
「さすがガスコ様、このロコル、感服いたしました」
頭を下げるロコルを、ヘイクルは若干軽蔑した目で見た。
「早く準備してきなよ」
「そうしましょう。頼みましたよ、ヘイクル様」
彼は去った。残されたヘイクルはガスコの表情をちらりと見る。仏頂面だ。
「ねえ、ガスコ」
と彼女。
「アンタ、普段何考えて生きてるわけ?」
「オビンカ・グッスヘンゼの未来だ」
「ロボットじゃあるまいし……」
面白くない、と彼女は表情で語る。
「アンタはオビンカ・グッスヘンゼを守って、フロンティア7を掌握して、それで何がしたいの?」
「オビンカの未来を拓く」
「全く、具体性に欠けるね」
「私はユーグラスと総督府によって虐げられている現状を変えるという使命を先代様から引き継いだ。そこに私情は挟まん」
「そうかい」
立ち上がる。
「言い分はわかる。居住区の外に私達の居場所はないからね。だからニーサオビンカになることを受け入れた。でも、もっとちゃんと未来を見据えるべきだよ」
返事を待たず、彼女も議場を出た。
「なんとでも言えばいい」
独り、呟く。
「私にとってこの使命は絶対なのだ」
アームレストの上で、拳を握りしめた。