午後9時。一日の全てが終わって、何からも解放された時間。ナピの葬式も終わり、ヨウマは沈んだ心で横になっていた。
そこに、1通のメッセージ。重い指でそれを確認すれば、椅子に縛り付けられ、猿轡を嵌められた男性の写真が、タジュンから送られていた。男の頬には甲殻がある。スタンドライトに照らされて、薄暗い空間だった。
『このヒトに死んでほしくないなら、来て』
『どこ?』
『地図送る』
すぐにマップアプリのリンクが送られてきた。
『日付が変わるまでに来なかったら、このヒト殺すから』
『わかった。行く』
『あ、それとこの部屋には一人で入ってね。部隊で踏み込んできても殺す』
そう送ってから、彼はサイドテーブルの上にある業務用携帯電話を取り、電話を掛ける。
「ヨウマさん、どうしました?」
「コード103」
「了解しました。場所はわかりますか?」
「場所はメネラスっていう廃ビル。ニーサオビンカのタジュンが僕を待ってる。12時までに行かないといけない。車回してくれる?」
「要請をします」
「ありがとね」
電話を切った。
着替えることにした。縦縞の寝間着から、黒のスラックス、白のシャツへ。ウェストポーチを身に着け、刀を差す。サイドテーブルの引き出しからフラッシュライトを取り出して、ポーチに入れる。溜息を一つ。タジュンの目的が何であれ、自分にとっていい方に流れるものでないことは察しがついていた。
部屋を出て、隣の戸をノックする。優香が顔を見せた。
「ちょっと行ってくるよ」
「どうしたの?」
「仕事」
「こんな時間に?」
「相手が僕を指名しててさ。行かなきゃなんだ」
「無事で帰ってきてね」
「うん、ありがとう」
彼は優香に背を向けた。憂う視線を感じる。
「大丈夫だって。僕は強いよ」
それを最後に、彼は視線を振り切った。
少し歩いて、駐車場。パトロールカーが1台やってきていた。社員証を見せてから、後部座席に座った。
「ヨウマも災難だねえ」
助手席に座っていたのはグリンサだった。『薩摩芋の栄養』と書かれたTシャツを着ている。
「怪我は大丈夫なの?」
「ヨユーだよ。で、なんだってヨウマが呼ばれたわけ?」
「色々あって」
「その口振り、用件はわかってるわけだ」
「まあね。ここじゃ言えないことだけど」
「デキちゃった?」
「ある意味そうかも」
ヒュウッ、とグリンサは口笛を吹いた。
「でも、ナピが死んだのはあいつのせいだ」
ヨウマの発言に対して彼女はすぐに返事ができなかった。
「復讐に囚われちゃいけないよ」
十数秒かけて出した答えはそれだった。
「知り合いにね、いるんだ。復讐のために頑張ってきたのに、自分の手で果たせなくなった人。そうなったらどうしようもない。ただ一生モヤモヤするだけ。ヨウマにはそうなってほしくないからさ」
よくある手法だ、とヨウマは見抜く。自分のことを知り合いのことだと言って語ること。そこに踏み込むつもりはないが、ちらつかせるような言い方をされるのはあまり好きではなかった。
刺すような沈黙が続く。ヨウマはグリンサの過去に思いを馳せる。剣の師として長く付き合ってきたが、昔のことを語ろうとする女ではなかった。だから考えようとしても材料が足りない。ただ一つわかっているのは、何か彼女を突き動かす出来事があったということ。
思考をしているうちに、車は停まった。
「いってらっしゃい」
降り際、声に背中を押された。腕時計を見る。9:30。
ビルに踏み入る。埃の舞う空間だ。ライトを取り出した。右手に握る。
『ビルについた』
とメッセージを送った。
『最上階の一番奥の部屋で待ってる』
と返ってくる。
「エレベーターは……動かないか」
ボタンを押しても反応しない。
「最悪だ」
呟きながら、階段に足を乗せた。
「入る前に高さ確認しとけばよかったな」
肝試しのような感覚がして、彼は言葉を発せずにはいられなかった。
5階。そこで階段は終わった。
「来ましたね」
背後から声がして振り向けば、自分より10センチほど小さい少女を彼は見た。
「どっち?」
「カラカです」
状況が違えば、彼は今すぐにでも刀を抜いていただろう。
「ご案内します」
彼女は足音を立てずに歩く。影の中でもよく見える真っ白な服装は、ステレオタイプの幽霊のようだった。
「私は妹です」
問われてもいないのに彼女は言った。
「姉の趣味は男漁りです。しかし、いくら面食いとはいえ地球人を、それもユーグラスの一員を選んだのは初めてです。貴方は何なのですか?」
「さあね。知ったことじゃないよ」
ヨウマに会話をしようという気は毛頭なかった。とっとと用事を済ませて帰りたい、その一心だった。
灯り一つない廊下を行き、ある扉の前で止まる。その上を照らせば、ミーティングルームと札があった。
「ここです。お楽しみ下さい」
「あのさあ──」
言い返そうとする彼を遮るように、カラカは軋む扉を開く。
「いらっしゃい」
パイプ椅子の上で足を組み、じっとりとした瞳をしてタジュンが待っていた。その横には古ぼけた骨組みに新しいマットレスの敷かれたベッドがあった。
「何の用?」
「シよ」
ヨウマは冷たい目で見つめ返した。
「嫌ならこのヒトが死ぬだけだよ。ね、カラカ」
カラカは何も言わないまま彼の横を通り抜け、人質の傍に立つ。スカートの中からナイフを取り出して、これ見よがしに首に突きつけた。
「わかったよ」
彼は刀をベルトから外して、床に置いた。
「従うから、そのヒトに手を出さないで」
「じゃ、服脱いで」
屈辱的な思いを懐きながら、ヨウマはボタンを外した。スラックスとシャツを脱いだところで、
「下着もだよ」
とタジュンが言った。睨みながら、彼はシャツとパンツも脱いだ。
「結構大きいんだ」
「知らないよ、比べたことなんてないし」
彼女はツカツカと近づいてくる。黒いシャツに、スキニーパンツ。
「やっぱりいい顔してる。好き」
「外見のことだけ言われてもね」
「モールで手繋いでた子、誰?」
「うちの家政婦だよ」
「家政婦と一緒に映画行くの?」
「関係ないだろ……」
話しているうちに、タジュンの方も脱いでいた。カップ付きのキャミソールを脱ぎ、その小さな乳房を顕にする。
「朝まで離さないから」
密着してくる体温と柔らかさに、ヨウマは男の反応をした。
◆
キジマは、久しぶりに目を覚ました。布団の上、円形の窓から差し込んでくる月明かりに、もう一人の自分を見る。
『ちょっと油断すればこれだ』
自分──の姿をしたイータイが、胡座をかいて言った。
『そんなにヨウマが恋しいか?』
「ああ、今すぐにでも飛んで帰りてえよ」
『へえ……』
とイータイは顎を撫でる。しかしそうもいかないだろう、と彼は踏んでいた。肉体の自由はキジマにはない。
『そのダチを殺すならこの体返してやってもいいが、どうする?』
「そんなことするくらいなら死んでやる」
『いい覚悟だ』
拍手を送るイータイ。その顔は満足げだった。
『さて、そろそろ眠ってもらおうか』
彼はキジマに歩み寄り、その両目に手を翳した。
「屈したほうが楽だぜ、坊や」
肉体を奪ったイータイは、一つ大きな伸びをする。
「友情ほど美しいものはそうないからな」
呟く。
「イータイ様」
と襖のような引き戸の向こうから声がした。
「ガスコ様がお見えです」
「通してくれ」
すぐにガスコがやってくる。オビンカの民族衣装に身を包み、腰に剣を下げていた。
「連絡もなしに来るとはな。何かあったのか?」
「いや、そういうわけではない。ただ……親友の顔を見たくなっただけさ」
二人は顔を見合わせて笑った。
「俺の顔はよく変わるからな、見て安心できるかはわからんぞ」
「なんだっていいさ」
「フッ。酒を用意させよう」
とイータイは言って、手を叩いた。使用人が引き戸を開けて、跪いた。
「サヴァージを二人分持ってきてくれ」
「はい、かしこまりました」
去っていく使用人を認めた後、彼はガスコの方を見た。
「まあ座ってくれ」
と窓際の椅子を勧める。
「タジュンがヨウマと接触した」
ガスコが言う。
「アレのことだ、遊びの一環だろう」
イータイが運ばれてきた酒を受け取りながら言った。グラスに注がれているのは、青い液体。
「もしヨウマを籠絡できれば……状況は好転する」
「そう簡単にはいかないだろうよ。1晩寝たくらいで裏切るなら、最初から敵にはなっていない。むしろタジュンが敵になるリスクの方が高いと俺は見るね」
「一理あるな。そのリスクを鑑みて、彼奴には議場の場所を教えていない。自己召喚による転移でのみ彼奴は出入りできる」
とガスコは酒を一口飲んだ。すっきりとした後味が残る。
「ガキでもこさえてみろ、あっという間に寝返るぞ」
「そうなったら排除するまでさ」
「アレは第3席だ。実力で言えば俺の次……そう簡単には消せんぞ」
「私が行く。裏切り者には制裁を加えねばならない」
「なら俺も付き合うぜ。影のことも考えれば一人じゃ危険だ」
ガスコは答えずに外を見る。夜更けの庭で、池に月が映っていた。
ニーサオビンカの席次は、その実力と強く結びついている。闘争を是とするオビンカにとってそのシステムは単純で、何より合理的に思えるのだった。
「次のニッカーナを考える時が来たのだろうか」
「弱気だな」
「ジクーレンに襲われて早30年……すでに二人を失っている。このままではまた瓦解してしまう」
「そう悲観的になるな、七幹部も殺せている、集会の場所もバレていない。いくらでも状況は変えられるさ」
「信じるとするか。その言葉」
「何かあれば俺がなんとかしてやる。命を預け合おうぜ」
「そうしよう。これからもよろしく頼むぞ」
◆
日が昇り始めた。光がガラス窓から入ってきて、ベッドの上でタジュンに抱き締められたヨウマを照らす。優香にどう言い訳をしようか、と何故そんなことを考えているのかという理由も出てこないまま頭を回していた。
「ねえ、ヨウマ」
甘ったるい声でタジュンが言う。裸体を擦りつけて、口を耳に寄せる。
「デキちゃったらどうする?」
「考えたくない」
疲れの滲んだ低い声で彼は返事をした。上を向いたまま。
「そんなこと言わないでさあ、考えてよ。名前とか」
しかし彼は無視した。好きでもない、むしろ憎い女に強引に迫られ、挙げ句セックスまでしてしまったことがあまりにも苦しかった。
「真面目な話をしようよ」
そう言われて、ヨウマは相手の方を見た。
「妊娠した私、殺せる?」
何も答えない。答えられない。
「今のうちにこっちに来ない?」
「それはダメだ」
すぐに言葉が出た。
「じゃあどうするの?」
「……わからない」
唐突に、タジュンが唇を重ねる。
「難しいこと考えないでさ、気持ちいいことだけしようよ」
「……タジュンはさ」
静かに彼は話し出す。
「なんでニーサオビンカになったの?」
「んー、ガスコに誘われたから。ニーサオビンカになったら好きなだけつまみ食いできるって言われて。召喚術が使える人材も欲しいって言われたし、お金も貰えるし、ま、私の才能が活かせるならまんざらでもないからさ」
「オビンカ・グッスヘンゼってどこでお金稼いでるの?」
「私が知ってる限りだと、外まで開拓に出る人に武器を売ったり、グッスヘンゼに入ってる農家の売上に税金かけたりって感じ。」
「外、か……」
ヨウマの知識の範疇では、開拓地の外は農地である。しかし、その更に向こう、北にある鉱山を超えた場所についてはほとんど知られていない。敵性エムシと呼ばれる存在が蔓延り、踏み込むだけでも危険だという。そこに向かう者に武具を売るのは、ニェーズにとって重要な産業だ。
「1ヶ月」
とタジュンは言う。
「1ヶ月で、妊娠してるかどうか調べられる。それまで楽しみにしててね」
彼女は起き上がる。ベッドから降りて、カラカを影の中に入れた。そして服を着る。
「それじゃ、人質は置いておくから。じゃあね」
消えた。
「好き勝手して……」
ぶつくさ言いながら、ヨウマも服を着た。それから、刀で人質を縛る縄を切った。
「アンタも大変だな」
人質は言う。
「ほんとだよ。これで人生めちゃくちゃにされたらどうすればいいんだろうね」
「しかし、アンタが来てくれたお陰で助かった。散歩してたら急に掴まれてな。抵抗する暇もなかったよ」
「怪我は?」
「脚を擦りむいたくらいだ。歩けるよ」
立ち上がる人質。
「名前は?」
「ヨーバだ」
「ヨーバ、事情聴取があると思うから一緒に来てくれる?」
「ああ、わかった」
二人は並んで部屋を後にする。ヨウマの体は、まだ女体の温もりを覚えていた。
(消えてくれ)
そう願いながら、階段を下った。