グリンサは、48年前、幸せな家庭で生を受けた。父も母も暖かく、何不自由なく彼女は育った。好きな料理は
15歳──地球人の2倍の寿命を持つニェーズは、その成長速度も約半分。すなわち人間換算で7歳半の時、弟が産まれた。愛おしいったらなかった。しかし、その幸せも長くは続かなかった。弟の通っていた保育園が夜明けのタルカによって爆破されたのだ。そうして失われた命に報いることを誓い、彼女は武の道を歩んだ。師となったのは、ジクーレンだ。
ジクーレンと彼女の出会いは、ある種の必然であったのかもしれない。戦士を志す他の子供と並んで、彼女は訓練に励んでいた。基礎的な体力錬成や筋力トレーニングに始まり、素振り、試合と実戦的になっていく鍛錬の最中、その天性の鋭さを持った太刀筋が彼の目に止まった。研ぎ澄まされた殺気に包まれた肉体も、彼を震わせた。
七幹部になれるかもしれない──そう思った彼は、自ら鍛えた太刀を渡した。号はロクスサガン。輝ける夜、という意味だ。グリンサ、28歳のことであった。
30になり、ニェーズ向けの学校を卒業した彼女はユーグラス警備会社に入社した。1年間の研修を経て正式な活動が始まり、そして更に1年が経過して慣れてきた頃、ジクーレンが一人の赤子を拾った。彼は赤子にヨウマという名前を与え、育て、6歳になると訓練を始めた。
その剣術の師として選ばれたのがグリンサだった。38の時にオーサと共に七幹部となった彼女にとって、初めての弟子だった。彼は従順だった。一を教えれば五を吸収した。何より、戦うために産まれてきたような才能があった。200センチとニェーズにしてはかなり小柄な彼女は、自分より大きな敵を相手取ることに慣れていたが、その経験が彼にはいい教材になった。
弟子と触れ合うとなった時、彼女はジクーレンからこう言われた。
「殺気を収めるといい。威圧的すぎる」
その言葉に従って、彼女は少しおどけてみせた。変な服を選び、少し時間に遅れるようにした。そうやって振る舞っていると、内心まで変わってくる。少し柔らかい自分になったのを、彼女自身感じていた。
ヨウマは、実技はともかく、座学はあまり良いとは言えなかった。法律のことはオパラとナピが担当していた。オパラはともかく、一本調子で話すナピを前にヨウマはよく船を漕いでいた。そして、時折補習と言って修行の時間を削られることがあった。その度に彼女はヨウマの頭を拳でぐりぐりとするのだった。
ヘッセについては、イルケも加わった。ヘッセに向かない地球人であるから、それに頼らないよう、教える術は最低限に留めた。できることなら言語魔術を教えたいところだったが、地球の専門家は本国に独占され、とても呼べる状況でなかった。掛け声として何かを叫ぶことはあっても、それ自体が呪文として意味があるわけでもない。結果、ヨウマには無茶をさせてしまうことになった。
身体強化術については、少し揉めた。術の恩恵が地球人は少ないのだ。10年単位で修行したとして、ニェーズに勝てない。ならば最初から無しでいいのではないかというグリンサ、ジクーレンと、それでもないよりはマシだというイルケで別れた。結果としては前者の意見が通ったわけだが。
グリンサが嬉しかったのは、ヨウマがジクーレンの打った刀を与えられたことだ。弟のように思えた。だから、失いたくなかった。できることなら戦場に立たせたくはなかった。しかし、彼自身が父のために戦うことを望んでいた。それなら、彼女が口を出す余地はないのだ。
そうやって成長していく弟子を見ながら、彼女は更なる研鑽を積んだ。ニーサオビンカはいつか必ず動くと確信していたからだ。
48になった現在、彼女の復讐心はやり場のない感情となっていた。30年前に起きたジクーレンによるニーサオビンカ集会への突撃。それによって当時の夜明けのタルカのボスは殺された。ただ漠然とオビンカを憎む気持ちだけが残って、渦巻くどす黒い闘争心に支配されぬよう己を律するのは、楽ではなかった。
憎しみは継承してはならない。それはわかる。故にヨウマには過去を明かしていない。何があってもはぐらかしてきた。しかしそれも限界があるのではないか、と
◆
ヨウマはある病室にいた。帽子のないキジマの眠るベッドの横に椅子を置き、そこに座っていた。屈託した表情だ。居住区の中にある、ニェーズによるニェーズのための病院。外のそれとは違い、ヘッセによる治療も受けられる。それでもキジマは目を覚まさなかった。額には小さな小さな1対の角。
「やっほ、どんな?」
冷房の効いた部屋に、グリンサが入ってくる。じゃがいも柄のTシャツだ。
「ダメだよ、何が起こってるのか医者もわからないって」
「そっかあ」
「でも、ちゃんと教えてほしかったな」
ヨウマはキジマの額を見る。
「オビンカでも、親友は親友のままなのに」
「ま、隠したいことって誰にでもあるよ」
「僕、信頼されてなかったのかな」
「そう卑屈にならないの。起きたらいっぱい話せばいいよ」
彼女はヨウマの肩に手を置いた。窓の外では重い雲の向こうから太陽が僅かな光を投げかけていた。
「僕さ、キジマの家に行ったことがないんだ」
「へえ、それは意外だな」
「行こうとしてもやめろって言うから、ずっと不思議だった。……信じてほしかったな」
「さ、帰るよ。待機任務はまだ終わってないからね」
名残惜しそうにヨウマは立ち上がる。
(秘密を共有されなかったのが嫌だってのはそうだよね)
グリンサは思う。
(正直、オビンカってだけで疑う自分がいる。キジマくんがスパイなんじゃないかって)
すれ違うナースににこやかにお辞儀をする。
(もしそうなら……私だけで殺す)
刀を握る。決意は明かさない。
病院を出て、バスを待つ。
「あ、そうだ」
彼女は思慮を隠すように発話する。
「お嬢様とはどんな感じ?」
「ヨウちゃんって呼ばれたり、自撮り送られたり、そんな感じ」
「青春だねえ」
「青春かあ、よくわからないや」
「中学校いた時はモテたでしょ、きれいな顔してるし」
「告られたことはそれなりにあるけど……親父のこと広まったら距離置かれたよ。知ってるでしょ?」
「それはそうだけど、中にはいい感じの子もいたんじゃない?」
「正直興味なかった。でも、優香は……いいなって思う」
「このこの~」
頭を押さえつけられて、ヨウマは抵抗しようもなく、受け入れるしかなかった。
「どこがいいの?」
「笑顔がなんかこう……来るんだよ」
「来る?」
「ドキッとするっていうか。伝わる?」
「伝わる伝わる。いいねえ、そういうの」
「なんか恥ずかしいな、こういうこと言うの」
「恋愛は若いうちにしとくもんだよ」
「グリンサだって若いでしょ」
バスが来た。乗り込んで、後ろ半分にある長椅子の一つに並んで腰掛けた。
「グリンサはそういうのないの?」
ヨウマに質問されて、彼女は取り繕うような、苦い笑顔を見せた。
「私は全然縁がなかったから……オーサとそういう噂が立った時もあったけど、親友って感じでそんなのじゃなかったな」
「──そっか」
死人の名前を出されると、如何とも言い難い気持ちになって、ヨウマはそれだけ言った。
「ま、後悔しないように気持ちは口に出しなよ。こんな仕事してるんだからさ」
そう言ってグリンサがヨウマの背中を叩いた時、彼のポケットの中でスマートフォンが揺れた。
「ん、ちょっとごめん」
と彼は携帯を確認した。
『今日のご飯、送るの忘れてた』
と優香からだった。夏野菜カレーらしい。ゴロゴロと大きな具がルーの中に入っていた。
『それと今日の自撮り』
深雪と頬をくっつけて撮った写真も送られてきた。前者は困惑気味な表情を浮かべ、後者は満面の笑みだった。
「へー、いいじゃん」
画面を覗き込んでグリンサがそう言った。
「見ないでよ」
「ごめんごめん、でもかわいいね」
「かわいいのかはよくわからないけど、こういう優香を見ると帰らなきゃって気持ちになる」
「お嬢様のこと好きじゃん」
「なのかな」
好き。その言葉の意味が、彼にはわからない。親父が息子の頭を撫でるような気持ちのことが愛なのかもしれない、という思いはある。しかし、それならむしろ深雪の方にそういう感情を抱く。心臓を刺されるような気持ちは、それとは違う。
「どした?」
「なんでもない」
優香の心をくすぐる笑顔が脳裏に浮かぶ。温かい気持ちになる。手を握ったこと、抱き合ったこと。それがとても熱を持って想起される。
(こういうとこ、なのかなあ)
自分の気持ちの行く先もわからないで、彼はバスに揺られる。プシュケーの振動。彼の感じているものはそれだった。
そうして15分が過ぎた。バスが停まり、二人は降りた。そこから5分の警備会社本部に入る。カウンターを素通りして、エレベーターに。防犯対策がされていないように思えるが、実際のところは不可視の結界が張られていて、社員証を持たない者は通行できないようになっている。
4階の談話室。それなりのソファとそれなりのテーブルと、コーヒーメーカーとウォーターサーバー。大きなテレビがニュースを吐き出す。退屈そうにそれを見ているニェーズが数人。コーヒーを片手に持っていた。
「それ面白い?」
グリンサが紙コップにコーヒーを注ぎながら尋ねた。
「グリンサさん……いえ、面白いから見てるわけではないんですよ」
ニェーズの一人が言った。左頬に甲殻がある。
「じゃあ変えていい?」
「ええ、どうぞ」
彼女は適当にチャンネルを変えていく。地球のラグビーの試合。日本は完膚なきまでに叩きのめされている。本国の野球。鷹のマークを掲げたチームが相手を圧倒している。ドロドロとしたドラマ。ニェーズの男が妻に不倫について詰問されている。
「面白いのないねー」
ポチポチとボタンを押していく。
「まあ平日の昼間だし」
ヨウマはそう言うと、コップに注いだ水を一気に飲み干した。
「グリンサさん、ナピさんが探してましたよ」
「げっ、抜け出したのバレてたか……」
彼女は慌ててコーヒーを飲み、コップをゴミ箱に放り込んだ。
「行くよヨウマ、言い訳考えといて!」
走り出した彼女を追って、ヨウマも談話室を飛び出す。が、すぐに背中にぶつかった。
「痛っ、何──」
そう口にし終わる前に、彼は現実を理解した。グリンサがナピの前に固まっている。
「言い訳、聞かせてもらえますか?」
怒っているのか、呆れているのか。感情のない声ではそれは読み取れない。
「いやねえ? ほら、色々あるじゃん。色々」
「具体的には?」
「えぇ~っと……」
「キジマのお見舞いだよ」
ヨウマが見かねて言った。
「なるほど……」
ナピは溜息を一つ。
「それなら一言かけてくれれば多少の融通は利かせました。正直が美徳であるということは、弟子のほうがよく理解しているようですね」
「アハハ……」
「キジマさん、どうですか」
彼は顔をヨウマに向けて問うた。
「何もわからないって。ヘッセを使った検査もしたけど、肉体には異常はないみたい」
「それなら、魂や精神に関わる問題なのかもしれません。より深い検査をさせます」
「うん、ありがとう」
その時、喧しく、音割れ気味にチャイムがなった。
「ナピ班へ通達。コード103発令。繰り返します──」