ヨウマと深雪は空いた地下鉄に乗っていた。ヨウマはつり革に掴まり、その前の深雪は膝の上に大きな紙袋を乗せ、頬を赤くさせながら俯いていた。
「これで買い物は終わり?」
ヨウマが深雪に尋ねる。
「は、はい。リストにあるものは、買いました。で、でも不便ですね。ニェーズ居住区にも地球人用の服とかあればいいな、って思いませんか?」
「仕方ないよ、居住区に住んでる僕らみたいなのが例外だからね」
話しながらも、ヨウマは周囲を警戒していた。無意識的な行動だった。スマートフォンを触っている若者も、談笑する女子高生達も、彼にとっては潜在的な敵だ。落し差しの刀が確かにそこにあることを確認しながら、彼の視線は一所に留まらなかった。
「ゆ、優香さんはどうしてるんでしょうね。テレビでも見てるんですかね」
彼女の瞳も右に左に忙しかったが、それはヨウマとはまた違う意味があった。
「やっぱり、電車は緊張する?」
「人がいっぱいると、どうしても。でもでもでも、ヨウマさんがいるなら大丈夫です。守ってくれ……ますよね?」
「うん、約束する」
「うへ、うへへ……」
にへらと不器用に笑う彼女を見ると、ヨウマは心が暖かくなるのを感じる。
「ま、まっすぐ帰っても遅くなっちゃいますね。晩ごはんの買い物もしなきゃですね」
「確かにそうだ──」
「キャーッ!」
向こうの車両から、悲鳴が聞こえた。
「深雪、動かないで」
それだけ言い残して、彼は走る。人の間をすり抜けながら、鯉口を切る準備をする。2両ほど過ぎたところで、血濡れの剣鉈を持った1本角の男オビンカの姿を認めた。身長は2メートル60センチ。夏だというのに分厚いコート。足元には頭を割られた地球人の死体。
「全員、逃げろ!」
声を上げながら、ヨウマは相手に向かっていく。
幸い、人は少ない。それが隣の車両に移る流れを見ながら、彼は刀を振り上げる。切り結ぶ。相手の甲殻の位置を探る。コートのせいで、身体の様子は窺えない。一つわかるのは、手首は守られていないということだ。
(胴体は……狙うのはリスキーだな)
2、3歩引き下がる。下段に構えて、相手の動きを見る。
「何が狙いでこんなことしてるの?」
「うるせえ! 地球人は皆殺しにしてやるってんだよ!」
「うるさいのはそっちでしょ……」
突っ込んでくるのを躱して、躱して、躱して。怒りに任せた連撃は虚しくびゅうびゅうという音を立てていた。
「なんでそんな不可能な理想を掲げてるわけ?」
「てめえユーグラスのヨウマだろ!? お前らが権力側についてからオビンカは生きづらくてたまらねえ! だから変えてやるのさ、全部!」
「暴力は良くないよ」
列車が急ブレーキを掛ける。よろけたオビンカにヨウマは接近して、鉈を持つ手首を斬り落とす。その勢いのまま足払いをして、倒す。赤い血が、車内に散った。
「次は首を刺すよ」
喉に切っ先を突きつけて、ヨウマは冷淡に告げた。
「降参するなら傷口を塞いであげてもいいけど、どうする?」
憎しみに満ちた表情でオビンカはヨウマを睨めつける。
「その出血だとあんまり保たないと思うよ。早くしなよ」
「殺せ」
「こっちだって楽しくて人殺しやってるわけじゃないんだよね」
「情けは……いらない」
「だから情けじゃなくて僕が殺したくないってだけなんだけど。わかる?」
苛ついてきたヨウマはこの男を殺してしまおうか、とさえ考えた。だが、それでスッキリするかというと、結局は心の何処かに凝りを残すだけなのだろう。
「……俺の、負けだ」
「色々言っても、自分の命は大事だもんね」
そう口にしながら、彼はオビンカの手首の断面に左手を当てた。指輪が光ると、傷口が塞がった。
「僕ができるのはこれだけ。輸血とかは病院についてからね」
ウェストポーチからロープを取り出し、オビンカの左腕を手摺に縛り付ける。
「そこの君、車掌さんに伝えて。電車動かしていいって」
一人の少年を指さして、彼は言う。
「汚れちゃったな……」
呟いた彼が次にやることは、車両を封鎖することだ。ウェストポーチから取り出した立ち入り禁止のテープを貼って、野次馬に目を光らせながら会社に電話する。
「もしもし? 自分の携帯で専用回線に繋ぐな、って? それはごめん。で、連絡なんだけど──」
彼は今しがた起きたことを簡単に説明する。
「──そういうわけで、捜査部の派遣よろしく」
電話をしまった彼は、鉈を拾い上げる。そして、オビンカの前にしゃがみこんでその目を見た。動き出した電車の中、ヨウマの姿勢は一切ブレなかった。
「名前は?」
「……シバ」
「シバはさ、本当にこんなことで今を変えられると思ってた?」
「改革を告げる鏑矢にはなれたはずだ」
「ふぅん。で、歳は?」
鏑矢が何か彼にはわからなかったが、それは置いておいた。
「94だ」
「中年ってところだね。じゃあ地球人が来るより先に成人してたわけだ」
「そうだ。ユーグラスとオビンカ・グッスヘンゼの、純粋な戦いが俺の生き甲斐だった。それがどうだ、地球人がユーグラスを買収してから俺たちは悪の側に置かれた。本来どちらが正義ともなかったはずの戦いが、俺たちの知らないところで違った意味を持たされた。それを許すわけにはいかない。お前には理解しようもない話だがな」
「そうだね、言ってること全然わかんない」
ヨウマは立ち上がる。
「でも、『暴力には屈しない』が偉い人の口癖だってこと、覚えておいた方がいいよ」
「妙な知恵ばかり持っているんだな」
「これでも社員だからね。ただの馬鹿じゃないよ」
電車がゆっくりと止まった。開いた扉から、スーツ姿のニェーズや地球人が乗り込んでくる。
「ヨウマさん、これが犯人ですか?」
七三分けの地球人の男が、ヨウマにそう問うた。
「そ、凶器はこれ」
と、剣鉈を渡す。
「わかりました。では、報告書を出しておいてください」
「めんどくさいなあ……やるけどさ」
封鎖線の間を潜って、ザワつく人の波を掻き分ける。それを抜けると、紙袋を抱きしめてガタガタと震える深雪がいた。
「深雪、ごめん、待たせた」
ヨウマは手を差し出した。彼女の表情はふっと緩んで、一度の深呼吸の後、口を開いた。
「怪我とか、してないですか?」
「大丈夫だよ」
と言いながら、彼は尻で左手を拭った。落ちきらない血は、握って隠す。
「さ、行こっか」
白く細い指が、ヨウマの指に情熱的に絡まった。
「どうしたの?」
「久しぶりの一緒のお出かけですから……うへへ」
「……? ま、いいけどさ」
だらしない顔で立ち上がった深雪と、ヨウマは歩幅を共にした。
「一旦会社の方に顔出さないと行けなくなったからさ、先にそっち寄っていい?」
電車を降りて、階段を上る中、彼が言った。
「いっ、いいですよ。ヨウマさんと一緒なら、どこでも──で、でも、もう5時過ぎたので、受付、閉まってるんじゃ……」
「あー……最悪だ」
◆
ヨウマが自宅の鍵を回した時、ドタドタとした音が扉の向こうから聞こえてきた。
「ただいま──」
と言うのが早かったか、
「大丈夫!?」
という声がしたのが早かったか。優香が焦燥に囚われた顔で待っていた。ここに来てから二日。公表された俊二の死が、彼女の精神を追い詰めていた。そんな中、ヨウマに護衛任務の継続が下達され、彼女も生活を新たにする必要があった。
「地下鉄で殺人事件って聞いて……」
彼女は咳き込む。
「落ち着いて。僕らはなんともないよ。というか、鎮圧したのが僕なんだけど」
「血ッ!?」
左手に小さな赤を見た彼女はそう声を上げた。
「いや、これは僕のじゃないよ。相手の」
「なんだ、よかった……」
胸を撫で下ろした彼女は、頭を振って色々な感情を振り払おうとした。
「とりあえず、おかえり。少し話があるんだけど、いい?」
「どうしたの?」
深雪が後ろ手で扉を閉める。廊下に上がる二人。
「夏休みが終わってもこのままなのかな、って。それに……ううん、なんでもない」
遊びに行きたい、という言葉を彼女は飲み込んだ。
「ああ、なるほど。7月も終わるもんね。うーん、僕が付きっ切りでいられるわけじゃないし、会社の方から派遣してもらえないか聞いてみるよ」
「ありがと。迷惑かけてばっかりだね」
リビングに入ると、だらしなくソファに体を預けるキジマがいた。ここでも彼は、帽子を被っていた。
「仕事だからね。キジマだって別の任務入るかもしれないし。ねえ?」
「んあ? ま、なんとかなるさ。やばくなったら団長が手を回してくれるだろうしな」
「親父に頼りすぎると怒られるよ?」
「息子のケツだぜ? 拭いてくれるさ。あと手は洗っとけよ」
「忘れてたや。ありがとね」
洗面所に、一人。ハンドソープをワンプッシュ。今まで殺してきた相手の血が、今になって復活してきたように彼は感じた。
(ニェーズも地球人も、赤い血を流すんだ)
そんな言葉が彼の中で浮かんできた。
(殺し合いに意味なんて、ないよな)
パッパッと水を払って、タオルで手を拭く。刀を帯びるということ。その意味を、彼は考えた。
(でも、他にやれることないもんな)
刀の号は、オーンサガン。素晴らしき夜、という意味であると自ら刀を鍛えたジクーレンは語っていた。刀身の様を喩える語彙はなくとも、父親の言いたいことはなんとなくわかる。それを与えた父親は、一体どのような心持ちであったのか。そこに思いを馳せても、彼は答えを見つけられなかった。
(……最悪だ)
リビングに戻る。廊下を出てすぐ右手のキッチンでは、深雪が夕食の準備を進めていた。
「きょ、今日は冷やし中華ですよ。キジマさんは食べていきますか?」
「お、いいのか?」
「そっ、そのつもりで多めに買ってますから……」
「悪いね、変な気遣いさせちまって。でも深雪ちゃんの飯美味いからよ、食べたくなっちまうんだよな」
「うへ、うへへ……」
変な笑い方だよな、とヨウマは思う。
「そういえば、深雪ちゃんっていつからこの家にいるの?」
優香が問いかける。
「わ、私が13の時ですから、もう2年になりますね」
「学校とか、行ってる?」
怪訝そうな顔を彼女は見せる。
「お、お、お、お母さんが死ぬまでは行ってました」
「あ、ごめんね。そんなつもりじゃなかったの」
「いえ、よくあることですから……」
話しながらも、深雪の手は淀みない。テキパキと動き、あっという間に4人分の食事が供された。
「そ、それじゃあ、いただきます」
深雪の音頭の後に、声が重なった。
少し赤みがかった黄色い麺の上に、トマト、錦糸卵に、胡瓜、ハム。すっきりとしたタレに絡めて、頬張る。
「やっぱ夏はこれだよな~」
そんなことを言いながら、キジマがものすごいペースで食事を進める。
「落ち着いて食べなよ、汚いよ」
「わりい、ついテンションが上っちまった」
「ま、いいけどさ」
ヨウマが箸を取った時、携帯が鳴った。
「ごめん、ちょっと」
と彼は席を立ち、廊下に出た。
「もしもし?」
「俺だ、ジクーレンだ」
「仕事?」
「ああ、お前が捕まえた奴が吐いた。今回の騒動を起こしたのも、総督と娘を襲ったのも、『夜明けのタルカ』という組織だ。それで、そのアジトに踏み込む際にキジマと一緒に参加してほしい」
「それはいいけど、優香の護衛はどうなるの?」
「こっちから人員を派遣する。何、家の外で見張るだけだ。深雪の負担にはならんよ」
「アジトの場所の見当はついてるの?」
「それはこれからだ。全部吐いてくれればいいんだが、そうもいかないようでな」
「オパラも大変だね」
「ああ、本当にな。捜査に進展があればまた連絡する。じゃあな」
「じゃあね」
電話を切る。
「夜明けのタルカ、ね……」
ポケットにしまいながら呟く。
「どうして暴力で何かを変えようとするんだろう」
誰にも聞こえない声でそう言ってから、彼は食卓に戻った。