ヨウマという人間の少年が目覚めた時には、ビルの合間のごみ捨て場に転がっていた。
無数の痣がついた顔は、高名な彫刻家が手を加えたように美しく、蝿の集るごみ袋には到底似つかわしくなかった。黒髪の彼は上体を起こし、辺りを見渡す。その腰には黒い拵の打刀が下げられており、彼はその存在を確認した。半袖のワイシャツに、銀色の腕時計、黒い長ズボン、革靴、ウェストポーチ。どれも酷く汚れていた。
「最悪だ……」
落ち着いた、しかし疲れ切った声で呟いた。分厚い雲の合間から、青い空が見え隠れする。じっとりとした空気が彼の肌を撫ぜて、過ぎ去った。
「お、見つけた見つけた」
隘路の向こうから軽い声がした。逆光の中から現れた声の主は、野球帽にタンクトップ姿の少年だ。肌は灰色、ロングヘアは赤。背は高く、190センチに少し足りないほど。前腕にはくすんだ赤の甲殻があった。
「やっほ、キジマ」
ヨウマは手を振った。彼の左中指には、揺らめくような紅の指輪が嵌めてあった。
「急に連絡取れなくなって驚いたぜ。スマホ、あるか?」
ヨウマはポケットの中を探る。そこからは、真っ二つに折れたスマートフォンが出てきた。ついでにもう片方のポケットに手を突っ込んでみる。幸運にも財布はそのままだった。
「買い替えたばっかりなのになあ」
「まあスマホだけで済んだと思えばいいさ。それで、相手は何人だった?」
「20人くらいかな。暗くて顔は見えなかった」
「殺したか?」
「下手に抵抗する方がまずいと思って、やり返してはないよ」
キジマがヨウマの手を掴んで引き起こした。二人の身長差は、30センチ近い。それでも二人は視線を合わせていた。
「ま、とにかく帰ろうぜ。仕事があるってよ」
二人は狭い道を抜け、大通りに出た。電気自動車が静かに走っている。右へ左へ視線をやったキジマは、バスが来ているのを見た。
「あれ、乗るぞ」
だっ、と走ってバスに乗り込んだ。人は少ない。二人は長椅子に並んで座った。
「それで、仕事って?」
ヨウマの問に、キジマはゴツゴツとした人差し指を唇に当てて答えた。
「仕事の話は外でするなって、団長に言われてるだろ?」
「確かにそうだ」
「お前なあ……」
危ないほど素直に、彼はキジマの言うことを受け入れた。
窓の外に、キジマのように甲殻を持った者がいた。ある者は背中に、ある者は肩に、顔に、脚に。灰色の肌に、赤い髪。ニェーズ──彼らは自分達のことをそう呼ぶ。
「まあ見て、あのニェーズ、人間の子を連れてるわ」
「どこで攫ってきたのかしら……」
立ち話をする婦人たちが、キジマを見てそう言った。
このアーデーンと呼ばれる世界に、半径12キロに及ぶ日本皇国の開拓地『フロンティア7』が出来てから、既に半世紀。所謂亜人たるニェーズと地球人類との溝は、中々に埋まらないものだった。
「言われてるよ」
「一々気にしてらんねえよ」
バスに揺られて、30分。そこから5分歩いて、ベージュの壁をした、4階建ての建物の前に立った。その庇には『ユーグラス警備会社』と金文字で刻まれていた。駐車場には、色とりどりの車。だが、黒塗りの車の1群が目を引いた。
二人がその建物に入ると、玄関では3メートルはある巨体をしたニェーズの、上裸の男が待っていた。左目には大きな傷跡がある。
「一人で行動するなとあれほど言っただろう」
重々しい声で彼は言った。
「ごめん、親父」
親父と呼ばれた男は、フン、と鼻息を吹いた後、甲に甲殻のついた手をヨウマの頭に乗せた。
「3階の4番会議室で例の客が待っている。急げよ」
キジマとヨウマはカウンターの前を過ぎる。その向こう側にいるのは皆ニェーズで、地球人の姿はカウンターの前の待合室にしかなかった。
さて、二人はエレベーターに乗り込んだ。
「客、って誰?」
ヨウマが問う。
「
「誰?」
「ここの総督だよ、お前、知らないのか?」
「知らないなあ」
興味があるのかないのかわからない返事だが、キジマはそれをなんとも思わなかった。
エレベーターが止まる。降りる。
「そんな偉い人が、僕らに何の用?」
「俺もまだ聞いちゃいねえが、護衛か何かだろう」
「なるほどなあ」
そんな事を話している内に4番会議室に着く。キジマが扉をノックして
「失礼します」
と言ってから、開いた。
中は手狭なものだ。長方形のテーブルに、黒革の椅子がいくつか。ホワイトボードが壁際に追いやられていた。窓からは暖かい陽光が差し込んでいた。
待っていたのは、オールバックにスーツ姿の中年の男に、二つ結びにワンピースの少女、そしてその背後に立つジャケットの前を開いたサングラスの男だ。彼らは入ってきたキジマを認めると立ち上がり、一礼した。
「キジマと申します」
キジマは余裕のある笑みを浮かべて、帽子を外さないまま俊二と握手をした。
「出渕俊二です、よろしく」
温和な雰囲気の俊二は、手を離してから娘の背中を軽く押した。娘の黒い瞳は緊張に震えていた。
「い、出渕
彼女は深くお辞儀をした。
「それで、そちらの方は?」
俊二はヨウマを見て言った。ヨウマは俊二と優香をジロジロと観察していた。俊二の方は174センチ、優香は142センチに5センチのヒール。後ろのSPは187センチ。もしこのSPが暴れ出したら? なんてことを彼は考えていた。
「ヨウマっていう……なんていうか、俺の兄弟みたいなものです。腕は確かですよ」
「ニェーズと地球人の兄弟ですか。貴方のように、種族の垣根を超えられる人がいるのは嬉しいことです」
「いえいえ、そんな……」
キジマは頭を掻いた。
「仕事の話は?」
ヨウマが言う。その言葉がきっかけになって、サングラスの男以外は席に着いた。
「アイスブレイクの最中だっての。──それで、どのようなご依頼で?」
「しばらくの間、フロンティア北部のクリムゾニウム鉱山を視察する予定でして。その間、娘の護衛をしてもらえないでしょうか」
「ご自身でなく、娘さんを?」
「私の護衛のためにSPも手薄になりますから。その穴埋めをしていただければ、と」
「なるほど……」
頷くキジマを、ヨウマは見上げていた。
「詳しくはこちらの書類を御覧ください」
と俊二が言うと、サングラスの男が足元の鞄から封筒を一つ取り出して、机に置いた。それを開いたキジマは、15分ほどかけて隅から隅まで書類を読んだ。その後、それをヨウマに渡した。
しばらくして、キジマが小声で
「わかったか?」
と尋ねる。
「大体はね。話、進めていいよ」
「委細承知しました。我々が責任を持って娘さんをお守りします」
その時、扉が開いた。
「俊二様、お時間です」
「それでは、娘をよろしくお願いします」
俊二は立ち去った。すると、そこに残ったものは気まずくさえある沈黙だった。だが、ヨウマはそういうものに縛られる人間ではなかった。
「優香だっけ。いくつ?」
「おい、クライアントだぞ」
割って入ったキジマを、優香は手で制した。
「16ですが……」
彼女は怪訝そうな目をしていた。
「じゃあ多分同い年だ。タメ口でいいよ」
「多分、というのはどういうことで……どういうこと?」
「孤児だからさ、年齢もよくわからないんだよね。親父が拾ってから16年だから16歳ってことにはなってるけど」
「お父さんはどんな人なの?」
「ジクーレンだよ、団長の」
「凄いんだ、あなたって」
「別に僕は普通だよ。運が良かっただけ」
コミュニケーションを眺めていたキジマのポケットで、電話が鳴った。
「失礼しますね」
彼はそう言って部屋を出た。
「どうしてそんなにボロボロなの?」
遠慮した態度で優香が言った。
「ちょっとオビンカの連中に絡まれちゃって」
「オビンカって……角があるニェーズ? 大変なのね」
「ま、よくあることだよ。たまたまその標的が僕に向いただけだ」
「割り切れるんだ」
「そうでもしなきゃこの世界で生きてけないよ。殴られるくらい、受け入れてかなきゃ」
「……凄い世界なんだね」
「なのかな。僕はここしか居場所がないから、そういうのがない世界のほうが想像つかないや」
会話も一段落ついて、落ち着いたところに、
「戻りました」
とキジマが入ってきた。
「お嬢様、お帰りになりますか?」
丁寧な物腰で彼は尋ねる。
「買い物に行きませんか? 3人で」
「それは構いませんが、ご予定の方は?」
「夏休みですから、いくらでも時間はあります。私、仲良くなりたいんです。
「お心のままに」
冬治、と呼ばれたのはサングラスの男だ。
「ヨウマも、行こ?」
「その前に、着替えていい? シャワーも浴びたいし、お腹も空いてる」
「なら、そっちが先かも」
ヨウマは一人立ち上がって、部屋を出た。まず2階の奥にあるロッカールームへ行く。そこに仕舞ってある着替えを取り出し、隣のシャワーへ。15分ほどかけて、彼は体を綺麗にした。彼の格好は、シャワーを浴びる前とまるっきり同じだった。
それからは早かった。ヨウマとキジマは彼女の後をついていき、黒塗りの車の1台に乗り込んだ。冬治は運転席へ。他の3人は後部座席に。発進した車の向かうのは、円型都市の中心部にあるショッピングモールだ。
「さ、行きますよ!」
陣頭に立って、優香は歩き出した。
まずは食事だった。適当な飯屋に、メニューも見ないで入る。ヨウマは肉うどんを頼んだ。他の誰が何を食べたのか、彼はまるで関心がなかった。支払いは割り勘だった。
服屋。地球から輸入した品を扱う店は個性豊かな服で溢れている。しかし、ヨウマにはよくわからない。今目の前にある、フリフリとした服や、薄い生地の透けている服がどういう名前をしているのかも判然としない。そんなものに気を取られていると、優香は彼の視界から消えていた。
「ヨウマ、ちょっと!」
奥の方から声がした。人と人、物と物の間を縫って、なんとか声の在り処に辿り着く。試着室が並んでいた。が、彼にはそれ以上にキジマと冬治の向ける呆れた視線が印象に残った。
「優香、どこ?」
「こっち!」
とカーテンが開く。彼女はだぼっとした灰色のTシャツに、白のスカートという格好だった。
「どう?」
「どう、って言われても……いいんじゃない?」
「本気で言ってる?」
「嘘は吐いてないけど、本気かって言われると……」
「フフ、正直なんだ」
からかうような微笑みに、ヨウマは心臓を一突きされたような気持ちだった。女のことをよく知らない彼に、彼女のよく整った顔は少々刺激的だった。
「買っちゃおうかな、これ」
そう言って悩む素振りを見せる彼女に、ヨウマは何も言えないでいた。
「そういえば、ヨウマは買うものないの?」
「あ、スマホ壊れたんだった」
「じゃ、付き合ったげる」
付き合うも何も護衛対象じゃないか、と言い返す暇もなく彼女はカーテンの向こうに隠れた。再びそれが開いた時、彼女は白のワンピースに戻っていた。その右手には今さっきまで着ていた服が入った籠があった。
カードで手早く購入を済ませた彼女は、3人を連れて店を後にした。
「さ、行くよ」
「行くって、どこに?」
「スマホ、買わなきゃなんでしょ」
「ああ、そっか」
「妙に勘が悪いんだから」
そんな会話をしながら、彼女はヨウマの手を取る。不思議な緊張が、彼を支配した。
◆
そうやって、何でもない日常を過ごして、1週間が過ぎた。都市の中心から少し外れたところにある高級住宅街の1棟、ソファの上でヨウマは優香と話していた。広い部屋だ。窓から差し込む光が暑いくらいだ。本棚や机は几帳面に整理され、大きなベッドの上にはぬいぐるみがいくつか。壁には、彼にしてみれば理解の糸口もない絵画が飾ってあった。
「──それでね、英梨ちゃんたらもう……」
大して表情の動かないヨウマと、にこやかに友達のことを語る優香。コントラストは、二人の関係を阻害しなかった。
扉が叩かれる。
「ヨウマ、来てくれ」
キジマの大きな声。
「ごめん、そういうことだから」
「うん、待ってる」
扉の先に待っていたのは、いつになく神妙な顔をしたキジマと、相変わらずサングラスをした冬治だった。
「ちょっとこっちに」
優香の部屋から2個ほど離れた部屋に入って、3人は向き合う。
「クライアントが死んだ」
キジマの口から出てきた事実に、ヨウマは驚いた様子をまるで見せなかった。
「じゃ、依頼はどうなるの?」
「公式に発表があるまでは依頼を続けてください。その後のことは……総督府から連絡があると思います」
その時、外から
「開けろ!」
という声がした。
「なんです?」
「僕が見てくる」
得物は刀1振り。だが彼はそれに全幅の信頼を寄せていた。
階段を下って、玄関。靴を履いて、扉を開けた。その瞬間、彼が見たのはアサルトライフルの銃口。引き金が引かれるより早く、彼は銃身を斬り落とした。
「キジマ、敵だ!」
そう言いながら銃を引っ張り、相手の脇腹に膝蹴りを入れる。そこで初めて、彼は相手の顔を見た。灰色の肌。額に生えた、2本の赤い角。
(|角あり《オビンカ》!)
体をくの字に折って倒れ込んだ男を踏みつけ、ヨウマは後続の敵に刀を向ける。夜を閉じ込めたような、妖しい光を放つ刀身だった。
「何の用?」
残る敵は5人。手にするのはアサルトライフルであったり、サブマシンガンであったりだ。
「総督のガキを渡してもらおうか」
「無理。そのガキを守るのがこっちの仕事だからね」
ヨウマは相手の右人差し指に意識を向ける。トリガーにかかったその指が一分でも動けば、素早く距離を詰めて喉笛を掻き切るつもりでいた。
が、その必要はなかった。彼の背後からキジマが飛び出して、敵の一人を殴り飛ばしたのだ。2、3メートルは飛んだそれは、坂を転がり落ちていく。
「ユーグラスに喧嘩売ったんだ、怪我する覚悟はできてるな?」
ファイティングポーズをとるキジマ。軽快なステップで相手の懐に潜り込み、ワンツー。からの回し蹴りで一人の脳を揺らしてノックアウトした。飛来する銃弾は甲殻で弾き、不敵な笑いを見せる。
「ヨウマ、お前はお嬢様のところへ行け。本命が別にいるかもしれねえ」
「オッケー。任せたよ」
ヨウマは家の中を走る。
「いったい、何が起こっているんです!?」
すれ違いざま、使用人が不安と焦りを隠さず問う。
「優香が狙われてる、とにかく奥の部屋に行って」
階段を駆け上がっていると、上の方からガラスの割れる音と、甲高い悲鳴が聞こえた。
「キジマの言う通り、ってわけか」
重い扉を蹴破って、優香のいる部屋に。鉈を持ったオビンカ4人が彼女を囲んでいた。誰も、頭頂部に1本の角が生えていた。
「雷よ!」
彼はそう叫びながら左手を振り上げる。指輪が閃光を放ったと思えば、その掌に雷の槍が現れた。投げられたその槍は光のような速さで飛んでいき、オビンカの一人の頭蓋を貫いた。
「クソガキィ!」
怒りの声が彼に向けられる。ヨウマは突っ込んできた相手の一撃を躱し、手首を切断しながら後ろに回る。そのまま背中を切りつけ、痛みに悶えるそれを蹴り飛ばした。
続く敵は胸を大きく開いた姿勢で向かってくる。それなら、と彼は袈裟斬りをするが、カキンと硬い音がするだけだった。
(服の下に、甲殻がある?)
振り下ろされた鉈を横飛びで避けて、刀を正眼に構える。
「ここらへんにしておかない? こっちにはニェーズ殺しの術だってある」
「へえ……見せてみろよ!」
ヨウマは構えを下段に変えた。
「炎よ!」
その声に応じるように、彼の刀が赤熱化し、光を放ち始めた。
「熱兵器だと!?」
驚く相手はよそに、ヨウマは力強く踏み込んだ。そしてその刀身が甲殻を貫き、心臓を穿った。ずるり、輝く刀が引き抜かれる。血は流れず、ただ敵が倒れる。
「来なよ、相手にしてやるからさ」
切っ先を向けて、彼は舐め腐ったような笑いで挑発する。地球人に比べて大柄なニェーズに、力で勝てる道理はない。それでも彼には自信があった。
一人が走り寄ってくる。一方で、残った者は優香を抱え上げようとしている。優先順位を付けるのは簡単なことだった。横振りの鉈はしゃがんで避けて、右腕を斬り落とす。落ちた鉈を拾い上げ、もう一人の敵に投げつけた。それは後頭部に直撃し、脳漿を零れさせた。
隻腕になったオビンカを引き倒して、彼は刀を突きつける。
「終わりだね。君たちの雇い主のこと、教えてもらっていい?」
「言うかよ、このガキが……」
ヨウマは高熱の刀身を相手の腕に押し付けた。
「拷問のつもりか? 俺にゃ効かねえよ」
嘲笑う敵を無視して、彼はじっと刀を押し当てる。
「その辺にしとけ」
と背後から声がして、振り返ってみればキジマと冬治だった。
「そいつは本部に連れ帰って尋問させるよ、冬治さんもそれでいいですよね?」
「ええ」
その話を聞いたヨウマは優香の方に視線をやる。死体の下から這い出てきた彼女はひどく怯えた顔をしていた。
「どうしたの?」
「だって、人が、人が死んで……! どうして平気なの!?」
その悲痛な叫びを、彼は理解しかねた。
「慣れてるから?」
見当違いな自覚は多少あれど、彼はとりあえずそう言った。
「慣れてるって……」
受容できない。彼女の顔は雄弁にそう語っていた。
「しかし、まずは場所を移さなければなりませんね。オビンカが手を出せない場所、ご存知ですか?」
サングラスのせいで、冬治がどういう視線を優香に向けているのかは明らかでない。だが、その声音は確かな心配を含んでいた。
「あることにはありますが……」
キジマは腕を組んだ。
「ニェーズの居住区。ユーグラスの縄張りならオビンカもそうそう近づけませんが、地球人を受け入れてくれるかはわかりませんよ」
「僕の家に来ればいい」
ヨウマが前触れなく会話に参加する。
「僕が匿う分には親父も許してくれると思うよ」
「確かに、ヨウマのとこならいけるかもな……よし、そうするか。冬治さんも、それでいいですか?」
「あなたがそう言うのなら、任せます。移動は車ですか?」
「そうですね。お願いします」
ヨウマは会話を聞き流しながら優香の様子を見ていた。
「立てる?」
「腰、抜けちゃって……」
すっ、と彼は無言で手を差し伸べる。彼女はしばらくそれを見つめ、動きを止めていた。その意味を感じ取れる敏感さは、彼にはなかった。
◆
「つまり、お父様は暗殺されたのです」
「え……?」
車内、キジマからそう告げられた優香は、落涙さえできなかった。
「お辛いでしょうが、事実です」
「そんな……」
彼女はがくりと俯いた。アスファルトの地面に、車が振動する音が響いた。
「殺して」
彼女は隣のヨウマの袖を掴んで言った。
「テロに関わった人、みんな殺して」
「僕の勝手で決められることじゃないよ。ま、テロ組織があるなら戦うことになるだろうけどさ」
彼は頬杖をついて外を見た。
「でも、都合のいい人だね」
「どういうこと?」
「眼の前で人が死んだら嫌がるくせに、自分は他人に人殺しをさせようとしてる。それが都合のいいことだって言ったのさ」
怒髪衝天といった具合に、彼女は手を振り上げる。しかし、そのやり場を一瞬で見失って、下げた。
「そうね。都合のいい人間なのかも。でも、じゃあ私はどうしたらいいの? 私にできることって何もないじゃない!」
「怒らないでよ、僕だって喧嘩しようと思ったわけじゃないんだから」
「ヨウマ、もう喋るな」
電話を仕舞いながらのキジマの言葉に、彼は不満を表情に見せつつも従った。
「お嬢様、裏で糸を引いている人物については、ユーグラスの名に懸けて捕らえてみせます。ですから、どうか落ち着いてください」
膝の上に震える拳を握りしめ、彼女はそれを聞いていた。
「ヨウマ、団長から連絡だ。捜査部がアジトを掴んだら制圧に動くそうだ。備えておけよ」
「オッケー」
重みのない返事をしながら、ヨウマはちらりと優香を見た。静かに流れる涙に、悪いことを言ったという反省が湧いてきた。