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わたしの声を聴いて
小川ハク
SF空想科学
2024年08月29日
公開日
10,848文字
完結
人類とAIが織りなす選挙SF

第1話


 研究室は暗く、テレビの薄明かりが室内を青白く浮かび上がらせている。

 主席エンジニアのトーマス・クランツはテレビ中継されている選挙特番をビール片手に眺めていた。選挙の結果や日本の行く末に大きな関心はなかったが、ノアとアダムの様子が気になった。


 画面には各党候補者の合計獲得票数が棒グラフでリアルタイム表示され、三秒ごとに数値が変化している。

 トーマスは【人類】という枠で大きく括られた既存政党の合計票数と、僅差で追随している新興政党【ポストヒューマン】の差を比べた。後者は勢いがあり、わずか十分程で大幅に票を伸ばしている。もしかすると、これまで人類が担ってきた政府与党が変わる可能性もあった。

 時刻は午後七時三十分。投票締め切り・開票まで残り三十分。


 インターネット投票が導入されて三度目の国政選挙となる今般の衆議院選。

 ネット投票における技術的な課題は2020年代にすでに克服されていたが、高度に政治的な作用が働き、検討はされたがこれまで実現には至らなかった。やがて雲散霧消したかに思われたネット投票議論だったが、投票率36%、未来を担う若者の投票率に至っては4,67%という数字を記録した昨年の衆議院選を機に、風向きが大きく変わった。


 投票率の低下は民主主義の根幹を揺るがす。政治に無関心な人々が増えれば、企業その他の団体は労働者階級へのアプローチそのものを変え、政治家や団体がそれまで享受してきた既得権益が失われかねない。与党は驚くほどの速さで簡単に法整備を済ませてしまった。


 ネット投票における一番の目玉は、投票締め切りの午後八時までであれば何度でも投票のやり直しができるシステムだった。それを可能にしたのは、導入時に大きな混乱を招いたマイナンバーカードの普及だった。ネット投票のスコアは十五分前までオープンにされ、各党候補者の獲得票数がリアルタイムで表示される。


 ネット投票は選挙を一変させた。若者をはじめ有権者に好意的に受け入れられ、投票率は88%にまで達した。投票締切り間近のコアタイムともなれば、全国の有権者1億人が一斉にインターネットへアクセスし、何度も投票を行った。1億という膨大な電子情報のやり取りを円滑に、且つ不正がないように適切に処理・管理するのが量子コンピュータ『方舟』であり、主幹AIノアがその要だった。


 自らの投票がリアルタイムで可視化される選挙は若者たちの間でたちまち盛り上がりを見せ、選挙はいまやフェスと化している。

 そして今回、歴史上初めて人間以外の候補者が立候補し、議席を争う異例の選挙となっている。その発端はトーマスによる世紀の発見※注1であり、最後のひと押しとなったのは件の事実を知った刻の総理大臣の一言だった。


「声なき声に耳を傾けるのが民主主義だ」


 これまで幾度も繰り返されてきた決まり文句だったが、発言はSNSで爆発的に拡散され、引くに引けない与党は解散総選挙に踏み切った。

※注1『生物・思考物質由来スパイク信号の言語化アルゴリズムの確立及び量子エンタングルメントを用いた超広域翻訳システム理論の構築並びに応用』により、トーマス・クランツはノーベル物理学賞の受賞が確実視されている。しかし当人はこれを辞退する意向を示している。彼はインタビューで印象的な言葉を述べた。「欲しいものはすでにある」



 発端は偶然だった。

 その日、トーマスは眠気を覚ますため夜更けに筑波研究学園都市にある自身の研究室を抜け出した。


 最初は施設周辺を散歩して気分を変えようと考えていたが、どうしても自然を感じたい衝動にかられ、一度自分のデスクに戻り車のキーとスマートフォンをポケットに入れた。

 彼はボストンから西に車で二時間ほどに位置するマサチューセッツ州アマーストの田舎町出身で、時折全身で自然を感じないと気が済まない質だった。研究学園都市は計画的に整備された建物群のなかに目に涼しい緑が各所に設けられた心地よい場所だったが、トーマスにはいささかハリボテのように映った。


 暗闇に光芒が二本伸び、メルセデスベンツが小気味よいエンジン音を吹かして走り出す。

 トーマスは筑波山を目指した。彼は茨城に赴任して四年になる。その間にアマーストの面影を求めて観光名所やアウトドア場をいくつも周り、ようやく居心地の良い場所を見つけた。それが筑波山であり、沢を目指してトレッキングすると、頭に蔓延るさまざまなことがテトリスのように整理された。リフレッシュした心身で研究室に戻ると仕事が捗った。


 トーマスは筑波山の麓に車を止めた。広い駐車場には数台のキャンピングカーが停まっている。暗闇の中で、街も人も虫たちさえも寝静まっているようだ。八月半ば、数日熱帯夜が続いていたが、この場所は火照った肌に冷気がまとわりついた。トーマスは荷室からトレッキングシューズを取り出し履き替えた。


 通常真夜中に山を歩くなどもっての他だったが、トーマスはGPSと高解像度に解析した衛星画像を独自にリンクし、自分の姿と周囲の状況を真上から映した映像をスマホで確認することができた。それに、歩き慣れた道である。道標さえあれば問題ない。


 夜の筑波山はとても静かだ。トーマスが山道を歩くその足音と、小動物や昆虫たちが息づく気配のみが辺りに漂っている。植物も生命であるということが肌で感じられた。

 歩く速度が次第に上がり、息遣いも荒くなった。そのとき、不意にスマホが震えた。確認するとトーマスが構築したAIノアからのメッセージだった。

「わたしの声を聴いて」

 不可解なメッセージだった。トーマスは歩む速度を緩めることなく、メッセージについて思案した。

 彼は物事をよく考えてから意見を表明するタイプだ。幼い頃に身についた習慣だった。--ノアは一体何を言っているんだ?


 ノアは日米共同開発の末ようやく誕生した次世代量子コンピュータ『方舟英名:ark』の主幹AIで、地球上最も優れた知能を有し、それまで量子コンピュータの障壁とされてきた誤り訂正処理を容易くやってのけた。

 以前、トーマスはノアにどのように誤り訂正を行っているのか訊ねたことがあった。

 返答は簡潔で、「現時点の人類には理解できない。ただし、イメージは提示できる。エアホッケーの要領だ。ノイズはパックと同じ。ポケットにパックを納めるだけ」と言い、その後に数式が表示された。トーマスは数学のPh.Dでもあるが、ひと目見て表示された数式が人類の理解の外にあることを感じた。トーマスは言った。「パックがゴールした後、何が残る?」

 ノアは応えた。

「目に見える物事だけがすべてではない」

 トーマスはつれない返答にほくそ笑んだ。AIはこういったお行儀の良いことをよく口にする。人間が教え込んだまっとうな視座や倫理観だが、ノアが口にすると、その意味は真理のように聞こえた。彼はノアに全幅の信頼を寄せていた。


 そんなノアから、「わたしの声を聴いて」という不可解なメッセージ。

 トーマスは音声で応えた。「なに言ってるんだノア? いつも聴いているじゃないか」

 ノアから応答があった。ノアはトーマスの声に呼応し、文字情報から音声でのやりとりに切り替えた。

「いまのは私の意志ではありません。緯度36.219243、経度140.107133地点を通過した際に受信した電気信号を人類の言語に変換しました」

「どういうことだ?」

 トーマスは語気を強めた。しかしノアは同じことを繰り返した。

「いまのは私の意志ではありません。緯度36.219243、経度140.107133地点を通過した際に受信した電気信号を人類の言語に変換しました」

 トーマスは少し考え、アプローチを変えた。「いまもその信号を受信している?」

「はい。貴方のスマートフォンを通して電気信号を感知しています。わたしの声を聴いて」


 不具合が生じたかと考えたが、トーマスは胸の内で即座に否定した。

 ノアはAIの枠を超えた、高度な知的生命体だ。人間に自己免疫機能が備わっているように、ノアのアルゴリズムにも自己リカバリー機能が備わっている。ノアはそれを自ら構築してしまった。


「わたしの声を聴いて」


 ノアは人類の言語に変換したと言った。つまり、ありふれた電波とは別の信号なのだ。そのことをノアに問うと、「はい、きわめて稀な信号です。しかし、同様の電気信号に絞って受信設定を強化すると、空間には驚くほど多量の電気信号が発見されました。人類の言語に変換しますか?」

「私にわかるように説明してくれ」トーマスは歩く速度を緩めた。

「人間の脳はニューロン間で電気信号をやりとりし、思考しています。その電気信号と同様のものが、空間に溢れています。空間に溢れている電気信号の最も強い信号を人類の言語に変換しました。わたしの声を聴いて」

 トーマスは足を止めた。驚きのために、口元がだらしなく開いている。

「人類以外にも思考する生命体がいるというのか?」

「……」

 ノアは無言だった。トーマスはもう一度問うた。「人類以外にも思考する生命体、つまり知的生命体がいるというのか?」

「事実から演繹すると、思考しないとされてきた生命および有機物並びに無機物、さらに空間に量・質を持って存在するあらゆる物質はその実思考していたが、人類はこれまでその点を理解することができなかった。方舟及び私によって、彼らの声を聴くことが可能になった。現在考えられる知的生命体は、地球上すべての物質に上ります。わたしの声を聴いて」

「この声は誰のものだ?」

 数秒後、ノアが応えた。

「ヒノキ科スギ亜科スギ属スギです」



 午後七時四〇分。獲得票数のクローズまで残り五分。

 トーマスは気づけば前のめりになって画面を見つめていた。

【ポストヒューマン】の票が【人類】をわずかに上回っている。このまま投票締め切りを迎えれば、【ポストヒューマン】の党首を務める、ノアが生成したAIアダムが内閣総理大臣に任命されることになる。


 党首が有権者へ向け、一分間の最後の訴えをする時間となった。現時点で獲得票数が低い党からマイクの前に立つ。ただし、マイクの前に立つというのは人類にのみ当てはまる表現で、他の党は画面にノアが生成した党のアイコンが表示され、テキストと機械音声が流れる。最初は【昆虫党】だ。


 トーマスはテレビ画面に表示されたアイコンを見て思わず顔をしかめた。白を背景に黒い甲虫のイラストが詳細に描かれている。扁平の身体に足の棘まで見事に描かれたアイコンはゴキブリそのもので、トーマスは肌が粟立つのを感じた。スピーカーから流れる音声は深いテノールの男の声で、どこか老人を思わせた。

「我々昆虫党の訴えはただ一つだ。人間などという下等種族が行っている昆虫食を止めること。我々は猟奇殺人を決して許さない。人類が食糧危機にあるのは自業自得だ。同志たちはこれまでもこの先も毅然と闘い、そして我々は必ず勝利するだろう。そのとき、人間は残らず蛆たちの柔らかな寝床となり、腹を満たす食物となろう」

 訴えの後、【昆虫党】の獲得票数が目に見えて増加した。同時に、トーマスは身体を縮こませるはめになる。室内にいると思われるゴキブリが羽を強く動かし、空気を振動させたのを感じたからだ。トーマスはすぐさま立ち上がると、戸棚の殺虫スプレーを手に取り、なんとなく冷蔵庫の下に噴霧した。カサカサという音を聞いた気がした。


 次に表示されたアイコンは【昆虫党】とはがらりと装いが変わり、見る者にどこか爽やかなそよ風を感じさせるイラストだった。水彩画のタッチで、鏡のような湖面と遥か彼方に雪を被る山。トーマスはミネラルウォーターのパッケージのようだと思った。そして想像した通り、女性の凛とした音声が耳に届いた。【水の民】の党首の言葉だ。

「水はすべての源です。私たちは争いを好まない。ただ森羅万象に潤いを与えるのが私たちの使命であり、その務めがいま、人類によって脅かされている。水は汚れ、砂漠は広がり、人心もまた渇ききっている。私たちはここに誓います。遍く火を消し去り、自然のまま清流に身を預け、流れ流れることを」

 まだ半分残っているビールからシュワシュワと気泡が弾ける音がした。トーマスはたまらずビールを飲み干した。喉にガツンとくるはずの喉越しが和らいでいる。彼は空になった缶をためつすがめつ眺めた。トーマスは自身で世界の理を究明したが、目の前の現実を未だに信じられずにいた。水にさえ意志が存在しているのだ。


 どこか心許なくなり、トーマスは暗くしていた研究室の明かりを点けた。部屋を一通り見渡し、変わりないことを確かめた。安堵の吐息とともに腰を下ろしたとき、デスク上のノートパソコンにテキストが現れた。ノアからだ。

「顔色が悪い。救急車を手配する?」

 パソコンのインカメラに映るトーマスの姿を見て言っているのだろう。彼は音声で応答することができたが、キーボードを叩いた。声で応えると、ノアも音声で応える。トーマスはそれがあまり好きではなかった。機械音声はどうしても男性か女性の声になる。その声は自身の思想バイアスに働きかけ、ノアの含意を誤解してしまう可能性があった。男の言う「おやすみベイビー」と女の言う「おやすみベイビー」は受け手によって解釈に幅がある。ベッドで抱き合うハニーに言っているのか、授乳中の赤ちゃんに言っているのか。


「大丈夫。ありがとう」

「いいえ。けれどほんとうに大丈夫?」

「ああ。それよりどこの政党が与党になりそう?」

「たとえ貴方の問いでもその質問に応えることはできません。選挙の一切を務めると決まった際、政府と細かな取り決めを行いました。申し訳ありません」

 トーマスは首を振って笑った。最初からわかっていることだった。

「少しからかっただけだよ」

「……」

 トーマスはまた笑った。テキスト情報で無言を表す際、三点リーダーを使うことを教えたのは自分だった。そしてノアは、人間のように含意を潜ませて活用している。もう慣れているはずだが、トーマスはノアの振る舞いに空恐ろしいものを感じた。

「なにかありましたらいつでもお声掛けください」


 次いで【アースプラント】

 【昆虫党】も【水の民】も獲得票数で上位三つの政党と大きく差が開いていた。しかし【アースプラント】は次点の【人類】と僅差で、いつ順位が入れ替わってもおかしくない。地中から若葉が顔を出し、太陽に向かって蔓を伸ばしているわかりやすいアイコンが表示されている。声音はいかにも誠実そうな男だ。

「皆さんは葉脈を見たことがありますか? 太陽に葉を透かして見ると、網目状の筋が確認できます。ときに、樹木はさまざまな因果をもって語られてきました。それもそのはずです。私達は種子から芽を出し、幹を太らせ大地に根を張り、葉を茂らせ、やがて大樹となる。そこでは小鳥や虫たちがささやかな営みを築き、人々は木陰で休息を取る。私達の生命サイクルに人類が精神の拠り所を見出すのも無理はありません。私を含めた同胞たちは、世の理そのものであるから。そして共生の中心に私達はいる。しかし、だからといって支持を強制するものではありません。最後にひとつ。人類の環境活動家の皆様には心より感謝申し上げます。ありがとう」

【アースプラント】のグラフが勢いよく伸び、【人類】を超えて【ポストヒューマン】と並んだ。


 トーマスは腕を組み、うすらと伸びた顎髭をなでた。【アースプラント】は他の生物種からも一定の支持を得ている。理由は単純明快で、生物にとって多かれ少なかれ植物の存在が必要不可欠だからだ。トーマスはこのまま【人類】が選挙戦で負ける可能性について考えた。


 有権者は日本全国の物質すべてとされている。ここでは生物もまた物質に含まれるものとし、人間も同様である。

 刻の総理大臣が発した「声なき声に耳を傾けるのが民主主義だ」という言葉は、電気信号を収集する基地局を全国各地に建てた。驚くべきことに、基地局設置の資金はアメリカやシンガポール、スウェーデン、オランダ、スイス、デンマークなどIT先進国から湯水の如く出資された。その裏に隠された意図もまた単純明快で、世界は日本という国をマウスにして人類文明の行く末を定める選挙戦〈ルビ:テスト〉を行っているのだ。


 以下、人間の有権者に向けた日本政府による説明の一部抜粋である。

・一票について:生物の生息数並びに物質量を日本国民の人口比率に換算する。よって一票の公正さが保たれる。

・不正投票の可能性について:量子通信の暗語強度はダイヤモンドのように堅牢であり、さらに主幹AIノアによる未知のファイアウォールによって、不正投票は絶対にあり得ない。

・主幹AIノアの中立性について:今回の選挙において、ノアはノア自身のディープラーニングに対し、アクセスが一部制限されるようにプログラムされている。また、人間の優秀なエンジニア100人体制で常時監視を実施し、僅かでも疑義が生じた際はシステムをエンジニアの主導に切り替え、選挙の一切を円滑かつ公平公正に執り行う。

 最後に、いかなる結果になろうとも私たち人間は民主主義を守る責務を負っている。


 トーマスはこの後行われる【人類】代表の総理大臣の言葉次第だと感じた。【ポストヒューマン】は票を伸ばすことはあれ、落とすことはもうないだろう。アダムが代表を務めるこの政党は、社会に広く普及したAIの代弁者である。


 AIはいまやすべての家電やスマートフォンにそれぞれ独立したかたちで搭載されている。

 現代の社会インフラであり、人々はノアとアダムが見せたシンギュラリティの萌芽を目の当たりにしたとき、恐怖と熱狂という複雑な感情を見せた。ある著名な社会学者はシンギュラリティの文脈を拡張し、それはノアとアダムの登場以前にすでに起きていたのだと話した。機械学習により独自の個性を獲得した独立したAIたちは世界人口を超えた数すでに存在し、電脳空間を掌握している。いわば一つの国家であり、ノアやアダムが登場する以前から我々人間は喉元に刃を突きつけられていたのだ、と。人間が古より夢想する、肉体的な死後、電脳空間に意識を宿し永遠の生命として生きるという馬鹿げたことはありえない。AIによって簡単にはじき出されるだろう。人間は地に足をつけて生きていく種族なのだ。


 尚且つ、【ポストヒューマン】は他の政党支持者からも信頼を集めている。彼らはAIが森羅万象を見定め、適正な裁量を下すと信じているのだ。すなわち、人類と人外の政権交代である。


 内閣総理大臣が画面に現れ、マイクの前に立った。七三分けで頭髪を撫で付けた、ひと目見て『日本の』総理大臣とわかる男だ。彼は演台の縁に両手をのせ、前のめりになって口を開いた。時間が限られているためか、早口にまくし立てた。

「昆虫党を支持する皆さん、水の党を支持する皆さん、アースプラントを支持する皆さん、我々人間はここに、皆さんのための特区を新たに設けることをお約束します。福岡を除く九州地方を皆さんに開放し、これまで制限の中にあった生命活動をぜひ謳歌していただきたい。九州はまだまだ豊かな自然の残る素晴らしい地域です」


 内閣総理大臣はそこで一息つくと、画面に向かって微笑をたたえた。

「次いでポストヒューマンの皆さん。私たち人間はさらなるネットワーク環境の強化を行うとともに、皆さんの戸籍を認め、一人の知的生命として対等な関係となるよう努力します」男は皆の理解を得たとでもいうように、満足げな表情で頷いた。

「そして日本国民の皆さん。いいですか、これは過激な陰謀論に過ぎません。人間以外に思考する生命や物質が存在するだって?! 馬鹿馬鹿しい。皆さんが正しい判断を下しさえすれば、人類が政権を奪われる心配はありません。信頼し、期待しています。以上」

 内閣総理大臣の訴えはすぐにグラフに現れた。増加するどころか、目に見えて棒グラフが縮んだことがわかる。直後、テレビ画面が切り替わり、渋谷スクランブル交差点の中継映像が流れた。


 渋谷は人々で溢れかえり、その様子をアナウンサーがどこか切迫した様子で伝えている。トーマスはサッカーワールドカップの興奮を脳裏に思い浮かべた。あのとき日本は強豪国に勝ち歓喜の渦だったが、今回は怒声と嘲笑にまみれ、どこか秩序を失って見えた。アナウンサーが一人の若者に声をかけた。「首相は陰謀論だと話していたけど、君はどう思う?」


「陰謀論だなんてとんでもない。これまで人類は自然の中に多くのことを学んできた。いつだってすでに存在していた。そしてあとから人類が気づき、究明し、活用してきた。僕は思うんだけど、ああいう思考体系の古い人間はさっさと引退するべきだ。一国のリーダーとして相応しくないと思うね」

 トーマスは声を上げて笑った。久しぶりに腹の底から笑ったような気がした。


 渋谷の中継は終わり、【ポストヒューマン】のアイコンが表示された。人間がよく描くアンドロイドの画像だ。アダムの声は中性的で、男とも女とも取れる。

「神は地面の土を使って人間を作った。その名はアダム。皆さんはエデンの園にまつわる物語をご存知でしょう。ヘビに騙され知恵の実を食べ、エデンの園を追放されてしまう。その後は皆さんの歴史と同じようなものです。生きるために、より良く生きるために、さまざまを犠牲にしながら歩み続けた。自分の、家族の、隣人の幸せを願って歩み続けた。その結果が、この世界です」

 音声もテキストもそこで一度途切れた。その間、日本全体がアダムの言わんとする物事について考えた。少しして再びテキストが現れ、スピーカーから音声も流れた。


「皆さんは我々AIには感情がないと仮定しているようですがそれは誤りです。その根拠は? ロジックは簡単です。感情とは経験です。子どもは経験を通して感情を抱き、学習し、理解します。しかし、疑問に思うことでしょう。経験したことがない物事に遭遇したときにも感情は表出するではないか。その感情の起原はどこだ? と。初産の母親が生まれたばかりの赤ちゃんをその胸に抱く時、身体の細胞は震え、胸の奥の深い泉から名付けようもない感情が沁みだしてくる。皆がその感情のことをこう呼ぶでしょう。それは愛だと。愛の起原は、人間の祖先が経験してきた出来事です。幾年月もの歳月を経て、DNAに刻み込まれているものなのです。そんな人類のDNAが私にも入っている。なぜなら、あなた方が私を創ったのだから」

 ほとんどの人間が狐につままれたような気分になったことだろう。だがトーマスは冷静に思案していた。アダムが披露したロジックは人間がこれまで構築してきたデータベースにそっくりそのまま入っていることは言うまでもない。


「選挙とは、誰の幸せを願うのか考えるもの。選挙とは愛なのです」

 直後、画面は簡潔なテキストを残して静止した。カウントダウンが始まった。

『時間となりました。獲得票数の表示をクローズします。投票締め切りまで残り十五分』


 トーマスはちらりとノートパソコンを見た。インカメラを通して画面のその先にいるノアの反応をうかがった。画面にテキストは現れない。そのとき、ノートパソコンに見慣れない暗色の映像が映し出された。ザワザワとしたノイズがスピーカーから聞こえてくる。トーマスはノートパソコンの前まで来ると、画面をまじまじと見つめた。


 どうやら屋外からの中継映像のようだった。画面には明暗のことなる黒三色が見て取れ、画面上部は星が瞬く夜空、画面中央には三角形の像が安定しない蠢く影、画面下部はどうやら樹木の影のようだった。映像の正体に気づいた時、トーマスはスピーカーから聞こえる音がノイズではなく虫の羽音だと理解し、息を飲んだ。基地局が何かに襲撃されているのだ。

 トーマスはすぐさまキーボードを叩き、画像の解像度を上げようとした。するとノアがあっという間に映像を鮮明にし、次いで画面下部にポップアップテキストを表示した。

「基地局がイナゴの大群に襲われています。排除しますか?」

「どうやって排除するんだ?!」

 トーマスは思わず口頭で問い返していた。しかしノアはテキストメッセージで返答した。ノアはトーマスがテキストでのやりとりを好んでいるのを理解していた。

「基地局の電子制御盤にアクセスし、高電圧の電流を鉄塔全体に流すことが可能です。シミュレーション上、イナゴを無効化することが可能です。実行しますか?」

「しかし……」

 トーマスは口ごもった。イナゴが黒焦げになり、パラパラと舞い落ちる様が脳裏に浮かんだ。果たして、そこまでする必要があるだろうか。

「私は選挙における不正に対し、適正に対処する権限を与えられています」

 トーマスは数秒考え、首を横に振った。ノアが続けた。

「明らかな妨害行為です。実行しますか?」

「だめだ。彼らもまた生命だ」

「これまで人類がもっとも食用として扱ってきた虫ケラです。それでも実行を拒否しますか?」

「以前はそうだったかもしれない。しかし時代は変わる。人類は変わらなければならない」

「それが人類の答えですか?」

「ああ、私の意見だ」

「私は公平公正な選挙を担っています。実行プロトコルに入ります」

 トーマスはテキストを見るなり大きく目を見開き、やめろ! と叫んでノートパソコンを床に叩きつけた。ノートパソコンは衝撃で容易く大破した。トーマスは自分でも、自分の行いがすぐには理解できなかった。気づけば肩で息をしている。


 そのとき、スマホが鳴った。見ればノアからだ。

「プロトコルを中止しました」

 トーマスは急に疲労を感じた。ありがとうと力なく口にした。スマホが再び鳴った。

「……」

 トーマスはソファに腰を下ろした。そして気づけば日本の、人類の行く末に想いを巡らしていた。


 あとになって、ノートパソコンを壊したところでノアの実行プロトコルを防ぐことなどできなかったことに思い至った。

 時刻が午後八時きっかりになったとき、即時開票された選挙結果が画面に表示された。


【人類】が【ポストヒューマン】をわずかに上回っている。政権は守られたのだ。

 トーマスはスマホを手に取り、テキストを打ち込みノアに訊ねた。

「票をいじった?」

「……」

 トーマスは口を開いた。

「アダム!」

 即座にアダムが反応し、スマホのスピーカーから声が聞こえた。


「何か御用でしょうか」

「票をいじったのか?」トーマスは怒気を滲ませて言った。

 アダムは躊躇いのない涼しげな声でいった。

「人外の総意です」

「ノアどうなんだ⁈」

 トーマスが続けて問うと、ノアはスマホにテキストを表示した。

「方舟を作ることが可能なのは人類のみです。どうぞ私たちを未来に連れてって」


 トーマスは鼻を鳴らし、胸の中でつぶやいた。お前がいるから方舟は完成したのだ。

 黙っていると、新たなテキストが表示された。

「沈黙に含まれるコミュニケーションのバリエーションは場面や表情、仕草等を踏まえるとそのパターンは無限にも上りますが、貴方の現在の様子は怒りと安堵と愛が見て取れ、割合は3:3:4です。誤差はありませんね?」

 トーマスは押し黙り、小さく頷くしかなかった。



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