それにしても、変だ。
(……なぜ、来ない……)
オフィスに着いた筧二は、本日何度目になるかもわからない咳払いをした。廊下と部屋をつなぐ扉が音を立てたので、勢いよく振り向く。蝶番が鳴っただけのようだった。
「なんだ……」
腰を曲げた筧二はまた、一つ咳をした。望夏が今日に限って、なかなかオフィスにやってこないのだ。
彼女の仕事用のカバンは席の上にあるので、先に出勤して社内のどこかにいるらしい。でも、普段から時間に余裕を持って行動する望夏が朝の庶務の前に姿をくらますというのは、それだけで緊張する。
(何か怒らせるようなこと、したか)
そうやってぐるぐる考えては、筧二は二人それぞれのデスクへの乾拭きを繰り返している。通勤電車の中でいだいた昂揚が、目減りしてゆくのを感じていた。
ふと思いつき、自分の革のカバンからスマートフォンを取り出す。彼女からの期待していたような着信は、特になかった。画面で光っていた時計がまた一分過ぎたのを確認して、元の場所にしまい込んだ。
心配するくらいなら、連絡してしまってもいいのかもしれない。けれど、事務所の入口で別れる際、宮下部が実は言っていたのだ。
『堅実なオマエだし大丈夫だと思うけれど。迷った時は、行動あるのみ、だぞ!』と。
(ほんとアイツ、男女関係なく好かれるわけだよ)
筧二は、クッ、と笑いを零した。肩が軽くなったような気がした。明朗な足取りで、さっそく廊下へと飛び出してゆく。
望夏を待っているくらいなら、自ら探しに行こうと思ったのだ。さて、どこからあたるか。
目の前を女性事務員が二人通り過ぎ、たのしそうにしゃべりながら喫煙所の扉に入っていった。かわりに、同じ扉からは休憩を終えたと思しきワイシャツ男性が出てくる。
あの場所なら性別に関係なく出入りできる。
筧二はさっそく足を向けた。
扉を潜った途端、歓迎してくれたのは目をつぶりたくなるほどの日差し。たまらずまぶたを少し下ろして、柵の中を見回す。
筧二のいる場所の、ちょうど正面。
(! 幸先いいな)
女性二人の談笑が聞こえてきた。その片方が望夏だった。なんと声を掛けるのかも決めていなかったのに、筧二は自然と前に踏み出していた。
最初は望夏しか目に入っていなかったのに、近づくにつれもう一人の顔も徐々に見えるようになってきた。
女性の中でも高めの身長。ウェーブのかかった長い髪。ぴったりとしたスーツにスカート。
(……あいつは……)
筧二が、あっ、と言いかけた瞬間、
「ぃよっ渋オジ! よく眠れた?」
気づいて振り返った女性の方から、元気よくあいさつが飛んだ。
「辻合」
気後れしつつ筧二は、あいさつのあと、さも当然のように手を振ってくる弁護士・辻合せいかの苗字を呼んだ。
それから、耳に髪をかけながらこちらに身体を向けた望夏が、
「おはようございます……――安城先生」
おずおずと声を発した。
「あ、やあ。おはよう。おかっ、御蔭くん」
ただいつものようにおはようと言おうとしただけだったのに。筧二は頬を緩ませていたせいで、盛大に噛んでしまった。
(恥ずかしい。けれども)
会えただけなのに、圧倒的に、うれしい。
望夏もこっそり視線を送ってきて、エヘヘ、とはにかんでいる。
(よかった。知らず知らずのうちに怒らせたりしたわけじゃ、ないらしい)
筧二は内心、胸をなで下ろしていた。が――
「なんだか意外。御蔭と安城が、うまくいく組み合わせだったとか」
対面する2人の間に、笑顔のせいかが立ち塞がった。