――出社、いいや。出社どころか朝がやってきてうれしいなんて経験は、生まれて初めてじゃないだろうか。
「うん、初めてだ。絶対に初めてだ」
出勤ラッシュの電車の中で、吊り革につかまっていた筧二はつぶやき、小さく吹き出した。すぐ横にいた若いサラリーマンには独り言が聞こえたらしく、彼はいぶかし気に視線をよこした。でも、筧二が平然と顔色を変えずにいると、すぐに手元のスマホに向け背中を丸めてしまった。
いい朝だ、と、窓から差し込む日差しに照らされながら筧二はにこやかになった。心持ち、背すじを伸ばしてみる。
気分が晴れやかである理由はもちろん一つしかない。昨晩の食事会だ。望夏と正式に、恋人として、想いを確かめ合うことができた。考えているだけで頬がゆるむ。普段ならわざわざ見上げない太陽を仰ぐ。メガネの奥の両目が熱く沁みる。それがまた一段と心地良い。
(御蔭くん……違った、望夏はまるで女神だな)
万感と呼ぶべきか。仕事でもなんでもやってやろうという熱意が湧いてくる。女性との付き合いに心を砕いてこなかった身ではあるものの、守りたい存在がいるのは素敵なことだと知った。彼女がそばにいればきっと頑張れる。今まで以上に腰を据えて、業務に勤しんでみようと思う。今日もオフィスに行けば、望夏に会えるのだ。秘書として契約を結んだ春先から、二人きりになるシチュエーションは幾度となくあった。なのに、関係性が変わっただけでテンションが爆上がりになる幸福を筧二は噛みしめていた。
「ふーん。おすすめのイタリアン、たのしめたみたいで俺もうれしいよ」
「そりゃあもう。生まれてこの方何万回としてきた食事の中でもダントツで……――って、みっ宮下部!」
気づくと正面に、同期の宮下部が入り込んできていた。明るいグレーのサマースーツ姿の奴は、「いい朝なんだから、でっかい声出すなって~!」と片手を挙げてへらへらしている。
同じ車両に乗っていたことさえ驚きだったのに。筧二は咳払いをすると、わざとしかめっ面をつくった。
「お、おはよう。良い店を紹介してくれて感謝している。でもからかうのは止めてもらおうか」
「んな固いこと言いなさんな。なんたってお相手が、人気株の御蔭女史なんだろ? そうだろ?」
筧二はあえて無言を貫く。しかし相手の笑貌は深まる。
「おンまえ。その見事なニヤけっぷり、駅で見かけた小学生カップルと変わんないぜ」
(にやけてる? 普通にしてるつもりなのに)
おっ……おかしいな? とはいえ指摘されると確かに、筧二は口の端が小刻みに動いた気がした。
逡巡ののち、宮下部にちらりと目をやる。
「あんまり広めてくれるなよ」
「ほー、否定なしか。ガチな付き合いっぽいじゃん。結婚考えてるとか?」
「俺も年齢が年齢だしな」
筧二は口調をゆるめて、そう答えていた。宮下部は感慨深げに頷いてから、口笛でも吹くように言う。
「なるほどねェ。ま、お熱いお二人さんに最初に気づいたのが俺で、ラッキーだったかもな」
「どうして?」
「他の奴だったらもっと食いついてきて、とことん追及受けるぜ。社内でめでたい話、滅多にないんだから」
言われてみれば、勤務先は顧客との信頼が第一である以上、真面目な社風だ。ゴシップはもとより、社員同士の色恋沙汰はあまり歓迎していないのかもしれない。
筧二は一旦、顎の髭を指の先でなでた。
「忠告ありがとう。恩に着るよ」
瞳を丸くしていた宮下部が「ふふ」と、どこかやさしく、吹き出す。
「現世で、幸せでたまんない筧二を拝めるなんて、思ってもみなかったよ。おめでとう」
そう言ってもらえると、悪友もなかなか心地の良い存在なのだと、筧二はひそかに感じていた。