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望夏のきもち.2

 筧二さんとの食事会を終え、単身アパートに戻った私は寝仕度を整えた。

 パジャマでベッドに横になり、手首をおでこに持っていった。顔の表面がほてっており、自然と笑みが零れる。

「朝になったらオフィスでまた会えるんだなぁ」

 二人きりでおしゃれなイタリアンディナー。とてもたのしかった。寡黙だと思っていた筧二さんがたくさんしゃべってくれたこと。不器用でも彼が思いの丈を伝えてくれたこと。

 結婚を意識する仲に――名前で呼び合う関係に、なれたこと。

「幸せ者すぎるんじゃない私ー?!」

 叫んで、私は手で瞳を覆った。両足を子供のようにばたつかせる。つい先週まで、職場恋愛なんて夢物語だと思っていたのに。まさか自分の身に起こるなんて。

 キスした男女が結婚する決まりの話は、最初はちょっとだけ、半信半疑だった。でも、筧二さんは嘘を重ねるタイプには見えないし、何より信じるよう私に強要しなかった。だから付き合ってみようと決心できたのだ。

 筧二さん自身は奥手だと言っていたけれど、交際には前向きでいるようだった。ならきっと、二人でこれから関係や信頼を構築してゆける。私だって、秘書の職務に今まで以上にまい進するつもりだ。


 出勤がたのしみでたのしみで仕方がないだなんて、社会人人生でも初のできごと。夏布団を肩まで掛け直し、私は目を閉じる。

 ベッドサイドの明かりを消し忘れていた。スイッチを切り、もう一度眠りに就こうとする。どうしよう。遠足前日の小学生のような心持ちになっている。

 深呼吸を繰り返す。肩越しにこちらへとほほ笑みかけてくる、筧二さんの顔が思い浮かんだ。

(ダメでしょ! もう寝なくっちゃ)

 ますます照れてきて、私は頭を左右に振るう。

 意識を保ったまま、時間ばかりが過ぎてゆく――…



「ふぅ……」

 翌朝。ちょっとふらつく頭で、私はぎらつく太陽の下に立った。結局午前三時ごろまで何度も寝返りをうっていた。化粧や服装はいつも通り怠らずに出社した

ものの、まともに仕事ができるか不安だ。なにせ。

(久々の恋愛で、気分がふわっふわ) 

 頭の中が、お気に入りの店の、甘くておいしい焼き立てスフレパンケーキのよう。

 こめかみを押さえた私は、見晴らしの良い休憩所を目指すことにした。


「ここはいつ来ても風が気持ちいいなー……」

 鉄扉から、正方形のベランダに出てひと言、私はつぶやいていた。

 休憩所は喫煙スペースを兼ねている。今日もまだ朝の八時台だというのに、たばこをくゆらせる男性弁護士の姿がちらほらあった。少数だけども中には社内で

徹夜をした人や、早朝出社した事務員さんが必ずいる。あくびをしていたり、気だるげに街並みを見下ろしたりしている様子には、こちらも厳かな気持ちになる。

 私はたばこを吸わないので、そのまま柵に向けて敷地を突っ切っていった。葉や紙の焼けるにおいが背後に遠くなる。ひときわ強い風が身体に吹きつけた。顔を少し空に向ける。日光に照らされていると、背すじの伸びる感じがする。

(うん。いい気分転換になったかも)

 しばらく姿勢を変えずにいた私は、よしっ、とはっきり頷く。筧二さんの下で、今日も恥ずかしくない働きができそうだ。

 足元のヒールを鳴らして、きびすを返した。一、二歩進んだところで、前から来た髪の長い女性と目が合った。

「あら、めずらしい。誰かと思ったら御蔭じゃーん。元気にやってる?」

辻合つじあい先生」

 弁護士の辻合せいか先生は、ほっそりしたピンヒールの足を綺麗に傾けて立ち止まる。私より年上の――筧二さんと同い年くらいの、胸元の弁護士バッジの輝きが似合うその人は、今日も強くて美しい笑顔をしている。

 以前、私も先生の下で書類作成の補助をしていた。礼儀や働き方について多くを学ばせてもらった、恩師と呼ぶに相応しい女の人だ。



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